立原道造の浦和──僕は、窓がひとつ欲しい。

立原道造の浦和──僕は、窓がひとつ欲しい。

詩への旅

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詩人石田瑞穂が一篇の詩を旅するように、国内外の詩人ゆかりの地を訪れ、土地と対話するように詩を読み、酒を呑み、また、呑む。読書と酒食に遊ぶ愉楽の紀行エッセイ。近現代の詩と詩人の魅力もわかりやすく紹介します。

立原道造の浦和──僕は、窓がひとつ欲しい。

石田瑞穂

詩人石田瑞穂が一篇の詩を旅するように、国内外の詩人ゆかりの地を訪れ、土地と対話するように詩を読み、酒を呑み、また、呑む。読書と酒食に遊ぶ愉楽の紀行エッセイ。近現代の詩と詩人の魅力もわかりやすく紹介します。


 夭逝の詩人、立原道造が晩年に設計した小住宅「ヒアシンス・ハウス」に逢いたくなって、埼玉県さいたま市の浦和へとでかけた。遠出といっても、ぼくの棲む見沼からはバスで三十分ほど。それではつまらないから、近所の「桜回廊」を歩いてゆくことにする。
 江戸期以前は遠浅の海だった見沼の右岸と左岸をぐるりと囲む桜回廊は、全長約二十キロメートルにもおよぶ。染井吉野が満開の春は、歩けど歩けど延々、桜、桜、桜で、夢、幻のように美しい。が、慣れない方は花の精にあてられ、眩暈してしまうほど。まさに、桜の海だ。田園には菜の花の大河が流れ、萌黄の柳が風にゆれ、詩人田村隆一が好んだ連翹が咲く。梅雨にはオレンジの藪萱草の花。
 そういえば、道造さんの私家版詩集に『萱草に寄す』(昭和一二年)があったっけ。「小鳥のうたがひびいてゐる 花のいろがにほつてゐる」と諳んじつつ、枝上の四十雀にあいさつして歩いた。




 浦和駅周辺はいまも昔も東京のベッドタウン。上野東京ラインや湘南新宿ラインが発着するようになって人口増加もいちじるしい。
 その街の奥にはいると、ヒアシンス・ハウスの建つ別所沼公園がある。大正から昭和初めまでの別所沼界隈は、政財界人の別荘地だった。なだらかな丘と閑雅な水辺、静穏な原生林には鳥啼がたえない。立原道造が浦和をおとなうになったのは、詩友の神保光太郎や画家の須田剋太、里見明正らが住んでいたからだ。浦和は「鎌倉文士に浦和画家」ともいわれ、芸術家が好んで暮らす街になった。旧浦和市には画廊、額縁屋、画材屋もおおく、昭和には黒川紀章設計の埼玉県立近代美術館、平成には浦和美術館も開館。三好達治と堀辰雄に私淑し、中原中也も所属した文藝誌『四季』でペンをふるう若き詩人立原道造は、「浅間山麓に位する芸術家コロニイの建築群」で三度目の辰野金吾賞を受賞した東京大学建築科生でもあった。
 昭和一二年(一九三七年)冬、立原はこのコロニーを浦和で実現しようと、動く。立原は昭和一三年(一九三八年)三月下旬、旧制第一高等学校時代の先輩への手紙に計画をしたためた。「『ヒアシンス・ハウス』といふ週末住宅をかんがへてゐます。これは、浦和の市外に建てるつもりで土地などもう交渉してゐて、これはきつとこの秋あたりには出来てゐるでせう。五坪ばかりの独身者の住居です」。しかしその翌月「国家総動員法」が可決。日本軍が暴走を激化させる。末期的な戦時社会にあって、病弱でもあった立原はみずからの「晩年」を悟っていたという。

 僕は、窓がひとつ欲しい。
 そしてその窓は大きな湖水に向いてひらいてゐる。湖水のほとりにはポプラがある。お腹の赤い白いボオトには少年少女がのつてゐる。湖の水の色は、頭の上の空の色よりすこし青の強い色だ、そして雲は白いやはらかな鞠のやうな雲がながれてゐる、その雲ははつきりした輪廓がいくらか空の青に溶けこんでゐる。〔中略〕僕は室内にゐて、栗の木でつくつた凭れの高い椅子に座つてうつらうつらと睡つてゐる。タぐれが来るまで、夜が来るまで、一日、なにもしないで。
          (立原道造草稿「鉛筆・ネクタイ・窓」、昭和一三年秋)


 ヒアシンス・ハウス、風信子荘は野花を想わせる、ちいさく可憐なコテージ。昭和初期の別所沼は針葉樹が鬱蒼としげる原生林だった。立原は別所沼をドイツの湖畔の森と見立て、泉をかこんでコテージ群が建つ、芸術家村を構想していた。水辺で青紫の花びらを地の星のように咲かせる風信子もたくさん生育していたのだろう。
 現在の別所沼公園にもおおきな貯水池があり、ぐるりを萌黄に輝くメタセコイア、糸杉、樺が立ち列んで、往時の面影をつたえていた。立原道造の生前、着工がかなわなかった詩人の夢の小住宅は、平成一六年(二〇〇四年)四月、さいたま市民たちからなる「ヒアシンスハウスをつくる会」の募金活動などにより竣工。現在もボランティアにより、毎月、文化イベントが開催され、運営されている。
 家の外観はごくシンプルな台形。屋根と軒下、窓枠のみがモスグリーンに塗られ、ほかの部分は無垢木のツートーン。正面中央の戸袋に、ヒアシンス・ハウスのシンボル・マークであるちいさな十文字──それは一輪の風信子にも、一粒の星光にもみえる──が彫り抜かれていた。原案には、この紋章とおなじ旗も描かれている。立原道造と親交のあった画家深沢紅子による、ヒアシンス・ハウスの秘めやかなたたずまいを見事に形象化したデザインといえよう。
 玄関扉をあけると、そこは鉤型の手狭なワンルームで、ごく簡素な本棚、ちいさな書物机、木の寝台だけが備え付けてある。そんなミニマルで没個性的な室内に比し、窓だけが大きな存在感を得ている。瀟洒な欧風窓が邸正面から右壁面にかけておおきくあいており、引込式の木戸まで取付けられていた。
   昨夜は 夜更けて
   歩いて 町をさまよつたが
   ひとつの窓はとぢられて
   あかりは僕からとほかった

   いいや! あかりは僕のそばにゐた
   ひとつの窓はとぢられて
   かすかな寝息が眠ってゐた
   とほい やさしい唄のやう!
          (詩集『萱草に寄す』より「窓下楽」部分)


 建築家でもあった詩人にとって、窓は「唄」であり、重要なモチーフだった。ヒアシンス・ハウスの清貧な暮らしにも、光と風だけは、ふんだんに射しては吹きぬける。戦争やイデオロギーや富によって人々を隔て苦しめない、世界の「やさしい唄のやう」に。陽射しも風通しもよすぎるヒアシンス・ハウス自体、夢想に咲いた野花であり、芸術と自然と生活が交差する詩的思想を体現している。
 道造さんは、世界の唄を聴かせてくれる窓のために、詩の栖を設計したのではないか。開かれていると同時に閉ざされてもいる、群島のような、窓という存在。それは、ポエジーの暗喩でもあろう。
 ヒアシンス・ハウスは「住宅」を超え、物象化した純粋理念であり、その意味で、詩人が産み落とした極小の、日本最初期のモダニズム建築になった。実際、このコテージのデザインとアイディアは、おどろくほど現代的で、未だ毫ほども色褪せてはいない。


 そう思索しつつ遊歩道をなぞってゆくと、池のなかの弁天島にでた。ちいさな鎮守森に囲まれた、ちいさなお社がある。二拝二拍手一拝してお参り。島の古木は、埼玉ではめずらしい、落羽松。ぼくはこの樹が大好きだ。落羽松はその名のとおり、小鳥の羽にそっくりな葉をもつ。イギリス最西端の島々、ヘブリディーズに滞在した、ある秋。ぼくはインにちかい落羽松の森へよくでかけた。秋の木洩陽のなか、森中に夢幻の鳥の羽毛がきらきらと舞い散るようで、呆然と、見惚れた。ここ別所沼にも、ヨーロッパの森に通じる窓があったのだ。立原道造は、ヒアシンス・ハウスの窓から水辺の夜風を浴びながら、あのちいさな机でどんな詩想を奏でようとしたのか。

   夜、泉のほとりで

   言葉には いつか意味がなく……
   たれこめたうすやみのなかで
   おまへの白い顔が いつまで
   ほほゑんでゐることが出来たのだろう?

   夜 ざはめいてゐる 水のほとり
   おまへの賢い耳は 聞きわける
   あのチロチロとひとつの水がうたふのを
   葉ずれや ながれの 囁きのみだれから

   私らは いつまでも だまつて
   ただひとつの あたらしい言葉が
   深い意味と歓びとを告げるのを待つ

   どこかとほくで 啼いてゐる 鳥
   私らは 星の光の方に 眼を投げてゐる
   あちらから すべての声が来るやうに

 このソネット風詩作品の醍醐味は、主題や意味ではなく、言葉の音楽が醸す抒情にある。では、〝言葉の音楽〟とはなんだろう。
 それは、伝統的な詩の韻律や形式のなかにはない。道造さんの詩言語「夜」、「水」、そして堀辰雄と分有する「風」(立原道造は優れた「風立ちぬ」論を草している)の内外にある〝ふるえ〟そのもの。風が立ち、風が動く。風を感じ、風を思う。風の流れをおいかけ、「葉ずれ」のうちにたたずみ、この辺りの風はあの丘の辺りや「どこかとほく」の風、「星の光の方」の風ともつながっているから、いまここの風を感じ身も言葉もゆだねることは、風の世界を信じながら風の世界に生きることだ。
 すると、風は言葉に音数をあたえ、言葉は風に音韻をあたえて「おまへの賢い耳は 聞きわける」。なにを? 世界も諸存在も我も、いま、ここの時間を構成する音楽だということを。音楽は、柔軟に拡散する独特な知覚の流体だ。それは固体によって裁断されない知覚、固体をもはや対象とせず条件とも環境ともしない知覚。耳が音へと生成し、音の内奥に耳があるヴィジョンである。世界を知り、信じ、生きる連続性のうちにここと彼方が響きあい「あのチロチロとひとつの水がうたふ」のを、詩の「賢い耳は 聞きわける」だろう。その刹那、奏でられる、普遍。詩人であり建築家でもあった立原道造は、生前、エスペラント語と普遍数学に多大な興味をしめしていた。ひとに、世界を知り、信じ、生きる想像力をあたえる詩的普遍数学の「声」を、立原は言葉の音楽へと昇華したのだ。


 夕刻、ぼくは駅へともどる。浦和で呑むなら奮発して、名物の鰻、にしよう。老舗「中村家」の飴色のカウンターに着く。鰻の骨せんべい、気っ風のいい盛りの新香、ビールで道造さんに献杯。同時に、うな重も、たのんでおこう。鰻が焼けるまで五十分かかるから、その間、古びた彌生書房版『立原道造詩集』をひらく。そうこうするうちに二十分が経過。酒と、鰻の肝煮をたのむ。鰻の脂とたれが、炭火でじゅわじゅわ炙られてゆく香が店内にみちる。その、なんともいえない匂いを肴に、猪口をあげる。時間を、味わう。
 一刻後、ようやく、うな重が卓にとどいた。酒をもう一本。瓦にうちかさなった鰻は重箱からはみだしそう。表はかりっと黄金色に焼きあがり、内はふっくら蒸しあがっている。甘口が主流の埼玉の鰻たれとくらべ、中村家の鰻たれはすっきり辛口。さらに……鰻を頰ばり飯をつつくと、銀米のしたにもう一枚、鰻がかくれている。双衣鰻。ひとたびこれを味わうと、他店のうな重は物足りなく感じてしまう。江戸時代から、別所沼や見沼の埼玉鰻は評判をとった。それは、大川(隅田川)で獲れる川の鰻にたいし、湧水に浸り豊富な餌で肥え太った田沼の鰻のほうが、旨かったから。中村家の双衣の鰻は、さしずめ、泥のしたから獲れる宝の鰻、といった風情だ。
 夭逝された道造さんには、もっと浦和の鰻で精をつけていただきたかった。鰻を口にはこぶたび、詩人の言葉の泉から湧く音楽を、かみしめていた。


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