建築家長谷川逸子さんによる『石川九楊自伝図録 わが書を語る』書評掲載

書家石川九楊氏が初めてその作品と人生の歩みを語った『石川九楊自伝図録 わが書を語る』、朝日新聞読書面(2019年10月19日)に建築家・長谷川逸子さんによる書評が掲載されました。
石川氏は戦後の激しく変化する社会と関わりながら制作と評論を相互にダイナミックに進めてこられた。同世代の1人として共感できるところが多い。
「書的情緒」を排除するために、墨の滲みをなくすグレーに染めた紙に濃墨で書くといった試みには、壁や天井から既存の意味や情緒を剥ぎ取り、抽象的な一枚の面としてなりたたせたいとディテールを考え抜いた日々を思い出した。分野を超えて、どこかで通じ合う表現の模索をしていたのではないか。偶然とはいえ、氏が自らの画期と呼ぶ「エロイ・エロイ・ラマ・サバクタニ」を書いた1972年は、私が初めて小住宅を雑誌で発表した年でもある。
氏は初期、田村隆一ら荒地派詩人はじめ同時代の言葉を書くことをテーマに、書のありようを広げてこられた。(略)私が主催する「NPO建築とアートの道場」で、この春に若い建築家が行ったレクチャーのテーマが「荒地」だった。公共建築が企業の経済活動に絡め取られがちな今、繊細で優しさに溢れた彼らもまた時代に懸命に立ち向かっていて、その姿は新しい建築と社会が現れる予感を私に与えてくれる。そんなことも本書は思い起こさせるのだった。

ありがとうございました!

管啓次郎『狂狗集』に星★★★★。

日本経済新聞夕刊2019年10月24日で、批評家の陣野俊史さんが管啓次郎『狂狗集』を取り上げてくださいました。
しかし、これは「句」集なのかどうか、通読したいまも自信はない。
句、というより「一行詩」なんだろう、たぶん。短い、とても短い一行に詩のエッセンスを凝縮する。
どうやって?
そこで管さんが借りたのが犬の目線だ。大地をうろつき、世界を移動する犬(まさしく狂った狗さながら)が吐き出す言葉のみずみずしさ。
(略)
世界を切り取る鋭い視線が、詩の言葉となって、ここにある。
ありがとうございます!

外岡秀俊さんによる『石川九楊自伝図録 わが書を語る』書評が配信されました

共同通信にて、作家でジャーナリストの外岡秀俊さんによる、『石川九楊自伝図録 わが書を語る』の書評が配信されています。岩手日報、福島民友、北日本新聞、南日本新聞、秋田さきがけなどの各紙に掲載されています。

数々の評論で独自の「書史」を確立した書家が初めて自作と人生を語った。孤高の歩みの内実を明かす稀有な記録。(略)
著者にとって「書」とは、書字の源泉からエネルギーをくみ放ち、様式や限界を突き破る挑戦だ。見る人はその果てしない冒険を追体験する。(略)
つまり著者にとっての評論とは、カンディンスキーの「抽象芸術論」やクレーの「造形思考」と同じく、さらなる変革のための足場づくりだった。その意味で本書は、評論と作品双方への最良の手引書になったといえる。
本書を読めば、書家が対峙するのは平面ではなく、紙背に広がる深い歴史や空間とわかる。その紙はコクトーの映画「オルフェ」で亡き妻のいる冥界に入るため、主人公が通過する鏡に似ている。

ありがとうございました。カバーをとった本体の装丁に、急逝した奥さま美那子さんに捧げる作品が使われていることにも触れてくださいました。本書には作品図版も数多く収録しています。

聖教新聞にソルニット『迷うことについて』の書評が掲載されました

2019年9月28日の聖教新聞読書欄に、R・ソルニット『迷うことについて』の書評が掲載されました。
本書は、多くの著作の中でも異彩を放つ自伝的エッセー集である。ただし、身辺雑記を筆の赴くまま綴るだけのエッセーではない。エッセーの嚆矢たるモンテーニュの『エセー』がそうであったように、私生活や思い出を書きつつ、そこから歴史や自然、文明についての考察へと広がっていく哲学的な随想集なのだ。
(中略)
自伝的エッセーは、”迷子になるためのガイドブック”を意味する本書の原題が示すように、「迷うこと」にプラスの意味合いを見出すユニークな考察になっている。「まったく迷わないのは生きているとはいえないし、迷い方を知らないでいるといつか身を滅ぼす」と、著者は訴える。
何事につけ、迷う経験には得難い学びがあり、未知との出あいにこそ人生の豊かさがある──そう感得させる薫り高き一冊。
ありがとうございました。

大澤聡さんがR・ソルニット『迷うことについて』を取り上げてくださいました

毎日新聞2019年8月28日夕刊で、批評家の大澤聡さんがR・ソルニット『迷うことについて』を取り上げてくださいました。
新しい関係性をこの社会は目下急ピッチで探求している。が、それはいかにして可能か。文学や哲学や日常の膨大な言説を縦横無尽に収集しつつ思索を螺旋状に深めてゆく自伝的エッセイの②[=『迷うことについて』]は、「未知」への開放こそが芸術家の任務だという。偶然や不確実性に留まること。つまり「迷うこと」。その効用を見直す作業がヒントになる。
あわせて取り上げられているのは、彩瀬まる『森があふれる』と李琴峰『五つ数えれば三日月が』。ありがとうございました。

沼野充義先生による『ウェイリー版源氏物語』書評が掲載されました

毎日新聞2019年8月25日の読書面に、ロシア文学者・沼野充義先生による『ウェイリー版源氏物語』の書評が掲載されています。
ウェイリーの英訳は原文にないものを追加したり、逆に省略したりした箇所も多く、まだ『源氏物語』の研究がいまほど進んでいなかった時代のことで、誤訳も少なくないと言う。しかし、日本の事物を英語圏の読者に分かりやすいものに置き換え、英語による文学作品として読めるものとして、独自の価値を持つと評価されている。それ以後、サイデンスティッカー、タイラー、ウォシュバーンなどによる、より正確な英訳が次々に出たが、ウェイリー版の輝きは失われていない。毬矢・森山訳は英語作品としてのウェイリー版『源氏物語』の魅力を日本語で再現しようとしたものだ。もちろん単に日本語の原文に帰ってくることにはならない。ウェイリーが英訳の作業を通じて、原文の何かを失ったとしても、原文にない何かを付け加え、新しい作品に生まれ変わらせたのだとすれば、毬矢・森山訳はさらにそこから新たな作品を再創造した。
(略)
読み進むうちに分かってくるのは、この語り口がじつに滑らかで優美だということだ。こうして現出するのは、明澄な無国籍風のお伽噺のようなもう一つの世界である。いや、「無国籍」と言うよりは、これこそ古くて新しい、日本を超えた現代の世界文学と呼ぶべきものだろうか。
「飛び切りユニークな訳文なので、これ以上新訳が要るだろうかなどという疑念を軽く吹き飛ばしてしまう」とも評していただきました。ありがとうございます。

斎藤美奈子さんに『ウェイリー版源氏物語』第4巻を書評していただいています

「週刊朝日」2019年8月30日号、文芸評論家の斎藤美奈子さんの「今週の名言奇言」で、『ウェイリー版源氏物語』第4巻を取り上げていただきました。
第4巻には「宇治十帖」の後半、光源氏の息子(実父は柏木?)とされるカオル(薫)を主役にした48帖「早蕨(ファースト・ハーブ)」から54帖「夢浮橋(ブリッジ・オブ・ドリームス)」までが収められている。章タイトルだけでもクスッとしちゃうが、そう、この訳書の特徴はカタカナを多用していることなのだ。おまけにカオルの一人称は「ぼく」。
〈ぼくは昔、自分のことを、少なくともほかのひとよりは清い生き方を誓った人間、と思っていた。人生のある方面とは一切関わらず、どんな心の波にも乱されることなく、平穏に生きていたのだ〉なんちゃって、まるで庄司薫か村上春樹。
(略)
第一巻を読んだときには「ベルばらみたいな王朝ロマン!」と思ったのだけど、「宇治十帖」は韓流ドラマ? ともあれ楽しくサクサク読めちゃいます。
カオルの〈みごとな草食男子ぶり〉として「ぼくが、ウジに彼女を訪ねていたときのように。」という一言が紹介されています。ありがとうございます。

『野上彰 前奏曲』が東京新聞で紹介されています

東京新聞の文化・娯楽面(2019年8月4日)で、『前奏曲 野上彰詩集』が取り上げられています。
詩や小説、童話、戯曲にはじまり放送劇の台本まで多彩に活躍した人物であったことに触れ、本書に付したCDにも、訳詞をつくったボブ・ディランやピーター、ポール&マリーのヒット曲や森繁久弥の歌った楽曲を収めていることをご紹介くださいました。
ありがとうございます。
なおCDには、来年のNHKの朝の連続テレビ小説の主人公古関裕而が編曲をてがけ、野上彰が日本語訳詞をつくった「オリンピック賛歌」も収められています。

野上彰『前奏曲』が徳島新聞で紹介されています

徳島新聞(2019年6月7日)で、野上彰詩集『前奏曲』が紹介されました。
本書に付したCDの巻頭作品「オリンピック讃歌」のことや、復刻収録されている詩集「前奏曲」には川端康成の序文や、香川出身の猪熊弦一郎の挿画も再現されていること、くわえて、CDが表紙に収納でき、ページがしっかり開く造本も触れてくださいました。
コメントを寄せてくださっている「野上彰の会」の竹内菊世会長と磯谷憲昭さん、それに徳島ペンクラブ丁山俊彦会長の期待に叶って、野上彰再評価のきっかけとなることを願います。
ありがとうございました。

佐伯誠さんに、樫永真佐夫さんの『殴り合いの文化史』をご紹介いただきました

 佐伯誠さんのメールマガジン book review「読んだり、読まなかったり_」(2019年5月14日)のなかで、樫永真佐夫さんの『殴り合いの文化史』をご紹介いただきました。論評「その一撃、知よりも遠く。」の全文を掲載。
(許可をいただいたうえで転載しています)


「その一撃、知よりも遠く。」

 この重さ。この分厚さ。ちょっとした煉瓦だ。これを投げつけたら凶器になる。比肩できる本で覚えているのは、菊地成孔のマイルス論で、これはブックレビューのために読んだので、本を引き裂いて、一章ずつ持ち歩いて読んだ。すごく面白い本だったので、読み終わってから、もう一冊買っておいたが。
 著者の樫永さんとは一度会って三時間ほど話を伺ったし、黒タイのフィールドワークを書いた記事も読んでいる。それでも、この人の全貌はとても把握できないでいるだけに、待望の大著だった。
 なぜ、民族学博物館の教授が現役ボクサーなのか?そのことは、本人にしか説明できないだろうから、ここでは省略する。でも、こういう人こそ出るべき才能だと快哉を叫んだ。知を持っていても、体幹の弱そうな、怯懦なところがチラチラする文章を読むと、なんだか頼りない。その知をどこまで信じられるか不安になる。やはり文武両道であってこそ。

「殴り合いの文化史」と銘打った著書を、どう始めているかが気になっていた。どのようにでも始められるだろう広大な荒野へ、どんな一歩を踏み出すのか?著者が十代の頃に釣り竿と網をもって駆け回ったという播磨の里は、民俗学者の柳田國男の生家のあるところだという。大らかでのんびりとした牧歌的な風景と回想は、悠々として急がないロングショットとして、読むものの視野をいったん広々とさせるだろう。一転、柳田國男が幼少期に地蔵堂で見た一枚の絵馬のおどおどろしい絵に描かれているのは、「産褥の女が鉢巻を締めて生まれたばかりの嬰児を抑えつけているという悲惨なものであった。」というクローズアップの妙。ここでは、民俗学がいやおうなしに、死と共同体という、現代がすっかり隠蔽してしまった暗部へ手を突っ込まざるを得ないことを、文化人類学者である著者が自らへ突きつけているかのようだ。
 誕生というものは、希望であり祝賀であり明るさの極みだが、背中合わせに苦痛があり出血があり叫びがあり暗部がある。そのことから目を逸らすまいという著者の自戒かもしれないが、「ちなみに古今東西、女性による殺人でもっとも多いのはわが子殺しだ。」という一行は、なんとも衝撃的ではないか。さらにこちらをぐらつかせる攻撃が止まない。
「時代を問わず夫婦・家庭・親族の間での殺人は一定して発生する。このことは、殺人統計における一般的パターンで「ヴェルッコの法則」として知られている。」
 このプロローグには、意表を突かれた。すぐに思い浮かべたのは、ミッシェル・フーコの『ピエール・リヴィエールー殺人・狂気・エクリチュール』という論考のことだ。「汚辱にまみれた人々の生」を掘り起こして泥を拭った知の考古学のひそみに倣って、卑しめられている暴力をなんとか救済しようというのだろうか?けれど、いったん深淵をのぞいてからは憑き物がおちたように著者はくつろいで、闊達に自在に話を進める。(このプロローグには、おそらくいくつもの選択肢があって、どっちへ舵を切ろうかと逡巡があったのだろうと推察する。)
 ーアリ、ロラン・バルト、にらめっこ、聖セバスチャン、三島由紀夫、マイク・タイソン、ハイデッガー、裸の猿、オルテガ・イ・ガゼー、ホイジンガ、日本書紀、ジョージ・フォアマン、ロッキー、マーロン・ブランド、具志堅用高、拳闘士の休息、ガッツ石松、ルンピニー・スタジアム、辰吉丈一郎、海老原、グーの拳固、マルセル・モース、生殖器崇拝、オバマ、鉄腕アトム、船越義珍、スーパーマン、セオドア・ルーズベルト、ターザン、あしたのジョー、オデュッセイア、黒船、メリケン練習所、グレート東郷、ピストン堀口、槍の笹崎、白井義男とカーン博士、大場政夫、ジョイス・キャロル・オーツ、たこ八郎、福島泰樹、スタブローギン・・・・・、あらゆる人物が召喚され、万巻の書がひもとかれる。ペダンティックな知識のひけらかしではさらさらない、ボクシング好きな少年の抽斗にゴチャゴチャに詰め込まれたものが総ざらえになっているようで、そのたのしさは無類だ。

 いくつもの新しさを感じた。
 ボクシング好きというと、インテリの一捻りしたsnobbismの匂いがするが、そういうところは皆無だ。さらに、自身リングに上がっているけれど、そのことに自己陶酔しているところがない。タイでの試合などへの言及はあるが、そこでの焦点はホームタウンデシジョンについてだ。
 釣りが好きな人が、釣りのことを書いたという趣があって、典雅でさえある。釣りの起源、釣り具のこと、釣り人の心理、魚の生態、川のこと、そういう風に話が自在に転がっていく。構成が緩やかなのがこの本の良さで、学術書の硬さがなくエッセイのたのしさが醸し出された。
 ソクラテスが拳闘をしていたとは!ピタゴラスが拳闘が強かったとは!15世紀に男性と女性のハンディキャップマッチがあったとは!(男性は腰まで穴に入って、棍棒を手にしている。女性は、重い石の入った袋を武器にしている。小さな図版だが、まじまじと見てしまった。)
 ボクシング好きな友人と、この本をネタにして大いに盛り上がりたい。トリビア満載だから、そういう効用がある。この本で盛り込まれた知は、人を孤立させないで、むしろ他者と向かいあわせるように励ます。自閉したり自傷したりするよりは、異質な他者とボックスしレッスルしよう!
 知らなかったことばかりで、笑いたくなった。ずっと動物行動学の祖コンラード・ローレンツの説くようにヒトには暴力衝動があると思い込んでいたが、その説は退けられたという。
――たとえば武器を用いた狩猟技術が人間の攻撃性を高めたという仮説は、アフリカの狩猟採集民に関する実証的な研究が進むとともに否定された。今では狩猟技術の工場が、むしろ争いを抑止する社会性を発達させた発達させた面の方が強調されているのだ。(p044)

 では、なぜヒトは殴り合うのか?いかな著者も究明しきれるものではないので、これは永遠の謎として残される。難問(アポリア)は、人を立ち止まらせ困惑させるために存在するのだ。なぜヒトは殴りあうのか?それはなぜヒトは愛するか?という問いかもしれない。
 エディット・ピアフの恋人は、マルセル・セルダンという第一級のボクサーだったが、ピアフが「どうして殴り合うの?」と訊いた時、そうしないと愛せないからと答えた。アメリカの女流作家でノーベル賞候補にもあげられるジョイス・キャロル・オーツの「オン・ボクシング」にも、それに似たことが書かれていた。あまりにロマンティックだろうか?あまりに霊的だろうか?ひょっとすると、ボクシングは途方もなくスピリチュアルな祭祀なのかもしれないと、極言したい誘惑にかられる。
 樫永さんは、そこを踏みとどまる。慎重に詩的な傾きを避けている。叫んだり、昂奮したりせずに、平衡感覚をとりながら、ボクシングのことを平叙体で語り続ける。そこが賞賛されるべきだ。
–恐れをコントロールして勝ちを取りに行くことこそが、まさにボクシングの醍醐味ではないか。拳で人を殴る野蛮な暴力の闘争に淵源があるボクシングが、これまで長い間人々を熱狂させ、人々に陶酔と幸福をもたらしてきた理由は、まちがいなくそこにある。幸福のためにボクシングがあるのだとすれば、幸福なボクシングもきっとあるのだ。(p361)

 一時期ゴールデンという名を冠せられたデラ・ホーヤという中量級のボクサーがいて、彼の試合で見事だったのは、自分を見せるというよりボクシングそのものを見せるような戦い方をしたことだった。たまたま観た一試合だけだったのかもしれないが、世阿弥の「離見の見」を体現していると感服した。ボクサー樫永真佐夫の試合は観たことがないが、おそらくそんなクレバーな戦いをするのではあるまいかと推測している。
 ボクシングは、観客なしでは成立しない、ひっきりなしに見ることを問いかける高度なスポーツであり、数少ない古典的な骨格を持つスペクタクルでもあるのだ。歌舞伎などと同様、見巧者というものでなければ、隅々までたのしむことができないだろう。後楽園ホールで、飛び交うヤジは、舌ったらずで荒っぽくはあるけれど、あたりさわりのない解説の遠く及ぶものではない。
 ところで、ボクシングにつきもののマチズモについて、著者は一定の距離を置いているように思える。それはポリティカルコレクトネストからではなく、紳士の嗜みからだと推察した。女性とボクシングという一章が用意されていて、読者が女性ならそこから読むことをおすすめしたい。イーストウッドの映画「ミリオン・ダラー・ベイビー」への言及もあり、格闘技での女性のめざましい進出、そのクォリティの高さは加速度的に進んでいて、いまさらジェンダーを持ち出すのは旧弊なこととなった。ブルックリンのボクシングジムを訪ねた時、入り口に日本人女性ボクサーの写真が飾ってあって、意表を突かれたことがあるが、彼女は現地では人気も実力も出色のボクサーだと教えられたことを思い出した。
 あしたのジョーについてもたっぷり語られていて、硬直しかねない長広舌にメリハリがあって飽きさせない。ややもすれば秘教的になりがちなボクシング論を、平明に語っていて、これまで食わず嫌いだった人の胸襟をひらくだろうと思う。その一方で、錘を深いところへと下ろすこともためらわない。著者の知人の元プロボクサーが語った言葉が、さりげなく挿入されているー
「ボクシングは人間の尊厳を破壊するスポーツだ」
 震撼するような怖い言葉だ。まだ、その真意を掴みかねている。著者は、他のところでも、「カラマーゾフの兄弟」の一節、修道僧ゾシマの言葉を引用して、ボクシングの中にひそむ暗黒について一瞥しているー
「人間は正しい人の堕落と恥辱を好む」

――なぜ、こんなに平和を希求しているのに、地上から紛争が絶えないのか?愛し合うことを願っていながら、どうして存在を否定するほどまで相手を傷つけてしまうのか?その二律背反をもてあそぶことをしないで、ボクサーでもある著者は論述のポイントを「拳」にしぼり込む。
なぜなら、
「拳で殴る暴力、拳での殴り合いが、人間の身体のみならず、共同体、宗教、芸術、心理その他、あらゆる文化の諸相と関わり合っていることが、実感できるはずだ。それもそのはず、太古から現代にいたるまで人間が、このきわめて「人間的」な暴力とともにあったからだ。いや、その歴史は、人間の歴史そのものなのだ。」(序)
 どんなに血まみれになっていても、殴り合うことの根源には「きわめて人間的な」ことがある。
 この大著は、そのことを根気強く説いている。「野郎、拳固で来い!」とカンシャクを起こしたりしない。
 最終章は「女性化する拳」で、ここで著者は公平に存続論と廃止論を扱っていて、スプリットディシジョンというところで止めてある。そして、AIによるゲームまでを見すえて「殴り合いの未来」についてこのように遠望する――
――つまり、たとえ仮にボクシングのような拳で殴り合うスポーツがなくなっても、拳で殴り合うゲームは、どこかしらで、何がしかの形をとった文化としてまちがいなく存在し続ける。そのゲームの形態には、生身の人間同士によるものだけでなく、ヴァーチャルなもの、人間型戦闘ロボットによるものその他、無限の可能性が開けている。科学技術の発達が可能にするどのような身体の拡張を受け入れようと(あるいは拒絶しようと)、この類のゲームが、喜怒哀楽という感情、欲望や怨恨といった深い情念をひたひたにしみ込ませ、名誉と不名誉の歴史を人間に蓄積させていくことはまちがいない。(p405)

 古代ギリシャの拳闘士の彫像があって、そこに漂うのは野卑な血生臭さではなく、神々しいまでのメランコリーだ。生きることは、畢竟、絶えざる闘いだと、少し辛酸を舐めれば思い知る。だとすれば、ボクシングは、直視すべき実相に他ならない。ボクシングを忌避する文化は、偽善的であり上っ面でフェイクだと抗議してやろう。それでも聞かないなら、この本を投げつけてやる!