佐伯誠さんに、樫永真佐夫さんの『殴り合いの文化史』をご紹介いただきました

 佐伯誠さんのメールマガジン book review「読んだり、読まなかったり_」(2019年5月14日)のなかで、樫永真佐夫さんの『殴り合いの文化史』をご紹介いただきました。論評「その一撃、知よりも遠く。」の全文を掲載。
(許可をいただいたうえで転載しています)


「その一撃、知よりも遠く。」

 この重さ。この分厚さ。ちょっとした煉瓦だ。これを投げつけたら凶器になる。比肩できる本で覚えているのは、菊地成孔のマイルス論で、これはブックレビューのために読んだので、本を引き裂いて、一章ずつ持ち歩いて読んだ。すごく面白い本だったので、読み終わってから、もう一冊買っておいたが。
 著者の樫永さんとは一度会って三時間ほど話を伺ったし、黒タイのフィールドワークを書いた記事も読んでいる。それでも、この人の全貌はとても把握できないでいるだけに、待望の大著だった。
 なぜ、民族学博物館の教授が現役ボクサーなのか?そのことは、本人にしか説明できないだろうから、ここでは省略する。でも、こういう人こそ出るべき才能だと快哉を叫んだ。知を持っていても、体幹の弱そうな、怯懦なところがチラチラする文章を読むと、なんだか頼りない。その知をどこまで信じられるか不安になる。やはり文武両道であってこそ。

「殴り合いの文化史」と銘打った著書を、どう始めているかが気になっていた。どのようにでも始められるだろう広大な荒野へ、どんな一歩を踏み出すのか?著者が十代の頃に釣り竿と網をもって駆け回ったという播磨の里は、民俗学者の柳田國男の生家のあるところだという。大らかでのんびりとした牧歌的な風景と回想は、悠々として急がないロングショットとして、読むものの視野をいったん広々とさせるだろう。一転、柳田國男が幼少期に地蔵堂で見た一枚の絵馬のおどおどろしい絵に描かれているのは、「産褥の女が鉢巻を締めて生まれたばかりの嬰児を抑えつけているという悲惨なものであった。」というクローズアップの妙。ここでは、民俗学がいやおうなしに、死と共同体という、現代がすっかり隠蔽してしまった暗部へ手を突っ込まざるを得ないことを、文化人類学者である著者が自らへ突きつけているかのようだ。
 誕生というものは、希望であり祝賀であり明るさの極みだが、背中合わせに苦痛があり出血があり叫びがあり暗部がある。そのことから目を逸らすまいという著者の自戒かもしれないが、「ちなみに古今東西、女性による殺人でもっとも多いのはわが子殺しだ。」という一行は、なんとも衝撃的ではないか。さらにこちらをぐらつかせる攻撃が止まない。
「時代を問わず夫婦・家庭・親族の間での殺人は一定して発生する。このことは、殺人統計における一般的パターンで「ヴェルッコの法則」として知られている。」
 このプロローグには、意表を突かれた。すぐに思い浮かべたのは、ミッシェル・フーコの『ピエール・リヴィエールー殺人・狂気・エクリチュール』という論考のことだ。「汚辱にまみれた人々の生」を掘り起こして泥を拭った知の考古学のひそみに倣って、卑しめられている暴力をなんとか救済しようというのだろうか?けれど、いったん深淵をのぞいてからは憑き物がおちたように著者はくつろいで、闊達に自在に話を進める。(このプロローグには、おそらくいくつもの選択肢があって、どっちへ舵を切ろうかと逡巡があったのだろうと推察する。)
 ーアリ、ロラン・バルト、にらめっこ、聖セバスチャン、三島由紀夫、マイク・タイソン、ハイデッガー、裸の猿、オルテガ・イ・ガゼー、ホイジンガ、日本書紀、ジョージ・フォアマン、ロッキー、マーロン・ブランド、具志堅用高、拳闘士の休息、ガッツ石松、ルンピニー・スタジアム、辰吉丈一郎、海老原、グーの拳固、マルセル・モース、生殖器崇拝、オバマ、鉄腕アトム、船越義珍、スーパーマン、セオドア・ルーズベルト、ターザン、あしたのジョー、オデュッセイア、黒船、メリケン練習所、グレート東郷、ピストン堀口、槍の笹崎、白井義男とカーン博士、大場政夫、ジョイス・キャロル・オーツ、たこ八郎、福島泰樹、スタブローギン・・・・・、あらゆる人物が召喚され、万巻の書がひもとかれる。ペダンティックな知識のひけらかしではさらさらない、ボクシング好きな少年の抽斗にゴチャゴチャに詰め込まれたものが総ざらえになっているようで、そのたのしさは無類だ。

 いくつもの新しさを感じた。
 ボクシング好きというと、インテリの一捻りしたsnobbismの匂いがするが、そういうところは皆無だ。さらに、自身リングに上がっているけれど、そのことに自己陶酔しているところがない。タイでの試合などへの言及はあるが、そこでの焦点はホームタウンデシジョンについてだ。
 釣りが好きな人が、釣りのことを書いたという趣があって、典雅でさえある。釣りの起源、釣り具のこと、釣り人の心理、魚の生態、川のこと、そういう風に話が自在に転がっていく。構成が緩やかなのがこの本の良さで、学術書の硬さがなくエッセイのたのしさが醸し出された。
 ソクラテスが拳闘をしていたとは!ピタゴラスが拳闘が強かったとは!15世紀に男性と女性のハンディキャップマッチがあったとは!(男性は腰まで穴に入って、棍棒を手にしている。女性は、重い石の入った袋を武器にしている。小さな図版だが、まじまじと見てしまった。)
 ボクシング好きな友人と、この本をネタにして大いに盛り上がりたい。トリビア満載だから、そういう効用がある。この本で盛り込まれた知は、人を孤立させないで、むしろ他者と向かいあわせるように励ます。自閉したり自傷したりするよりは、異質な他者とボックスしレッスルしよう!
 知らなかったことばかりで、笑いたくなった。ずっと動物行動学の祖コンラード・ローレンツの説くようにヒトには暴力衝動があると思い込んでいたが、その説は退けられたという。
――たとえば武器を用いた狩猟技術が人間の攻撃性を高めたという仮説は、アフリカの狩猟採集民に関する実証的な研究が進むとともに否定された。今では狩猟技術の工場が、むしろ争いを抑止する社会性を発達させた発達させた面の方が強調されているのだ。(p044)

 では、なぜヒトは殴り合うのか?いかな著者も究明しきれるものではないので、これは永遠の謎として残される。難問(アポリア)は、人を立ち止まらせ困惑させるために存在するのだ。なぜヒトは殴りあうのか?それはなぜヒトは愛するか?という問いかもしれない。
 エディット・ピアフの恋人は、マルセル・セルダンという第一級のボクサーだったが、ピアフが「どうして殴り合うの?」と訊いた時、そうしないと愛せないからと答えた。アメリカの女流作家でノーベル賞候補にもあげられるジョイス・キャロル・オーツの「オン・ボクシング」にも、それに似たことが書かれていた。あまりにロマンティックだろうか?あまりに霊的だろうか?ひょっとすると、ボクシングは途方もなくスピリチュアルな祭祀なのかもしれないと、極言したい誘惑にかられる。
 樫永さんは、そこを踏みとどまる。慎重に詩的な傾きを避けている。叫んだり、昂奮したりせずに、平衡感覚をとりながら、ボクシングのことを平叙体で語り続ける。そこが賞賛されるべきだ。
–恐れをコントロールして勝ちを取りに行くことこそが、まさにボクシングの醍醐味ではないか。拳で人を殴る野蛮な暴力の闘争に淵源があるボクシングが、これまで長い間人々を熱狂させ、人々に陶酔と幸福をもたらしてきた理由は、まちがいなくそこにある。幸福のためにボクシングがあるのだとすれば、幸福なボクシングもきっとあるのだ。(p361)

 一時期ゴールデンという名を冠せられたデラ・ホーヤという中量級のボクサーがいて、彼の試合で見事だったのは、自分を見せるというよりボクシングそのものを見せるような戦い方をしたことだった。たまたま観た一試合だけだったのかもしれないが、世阿弥の「離見の見」を体現していると感服した。ボクサー樫永真佐夫の試合は観たことがないが、おそらくそんなクレバーな戦いをするのではあるまいかと推測している。
 ボクシングは、観客なしでは成立しない、ひっきりなしに見ることを問いかける高度なスポーツであり、数少ない古典的な骨格を持つスペクタクルでもあるのだ。歌舞伎などと同様、見巧者というものでなければ、隅々までたのしむことができないだろう。後楽園ホールで、飛び交うヤジは、舌ったらずで荒っぽくはあるけれど、あたりさわりのない解説の遠く及ぶものではない。
 ところで、ボクシングにつきもののマチズモについて、著者は一定の距離を置いているように思える。それはポリティカルコレクトネストからではなく、紳士の嗜みからだと推察した。女性とボクシングという一章が用意されていて、読者が女性ならそこから読むことをおすすめしたい。イーストウッドの映画「ミリオン・ダラー・ベイビー」への言及もあり、格闘技での女性のめざましい進出、そのクォリティの高さは加速度的に進んでいて、いまさらジェンダーを持ち出すのは旧弊なこととなった。ブルックリンのボクシングジムを訪ねた時、入り口に日本人女性ボクサーの写真が飾ってあって、意表を突かれたことがあるが、彼女は現地では人気も実力も出色のボクサーだと教えられたことを思い出した。
 あしたのジョーについてもたっぷり語られていて、硬直しかねない長広舌にメリハリがあって飽きさせない。ややもすれば秘教的になりがちなボクシング論を、平明に語っていて、これまで食わず嫌いだった人の胸襟をひらくだろうと思う。その一方で、錘を深いところへと下ろすこともためらわない。著者の知人の元プロボクサーが語った言葉が、さりげなく挿入されているー
「ボクシングは人間の尊厳を破壊するスポーツだ」
 震撼するような怖い言葉だ。まだ、その真意を掴みかねている。著者は、他のところでも、「カラマーゾフの兄弟」の一節、修道僧ゾシマの言葉を引用して、ボクシングの中にひそむ暗黒について一瞥しているー
「人間は正しい人の堕落と恥辱を好む」

――なぜ、こんなに平和を希求しているのに、地上から紛争が絶えないのか?愛し合うことを願っていながら、どうして存在を否定するほどまで相手を傷つけてしまうのか?その二律背反をもてあそぶことをしないで、ボクサーでもある著者は論述のポイントを「拳」にしぼり込む。
なぜなら、
「拳で殴る暴力、拳での殴り合いが、人間の身体のみならず、共同体、宗教、芸術、心理その他、あらゆる文化の諸相と関わり合っていることが、実感できるはずだ。それもそのはず、太古から現代にいたるまで人間が、このきわめて「人間的」な暴力とともにあったからだ。いや、その歴史は、人間の歴史そのものなのだ。」(序)
 どんなに血まみれになっていても、殴り合うことの根源には「きわめて人間的な」ことがある。
 この大著は、そのことを根気強く説いている。「野郎、拳固で来い!」とカンシャクを起こしたりしない。
 最終章は「女性化する拳」で、ここで著者は公平に存続論と廃止論を扱っていて、スプリットディシジョンというところで止めてある。そして、AIによるゲームまでを見すえて「殴り合いの未来」についてこのように遠望する――
――つまり、たとえ仮にボクシングのような拳で殴り合うスポーツがなくなっても、拳で殴り合うゲームは、どこかしらで、何がしかの形をとった文化としてまちがいなく存在し続ける。そのゲームの形態には、生身の人間同士によるものだけでなく、ヴァーチャルなもの、人間型戦闘ロボットによるものその他、無限の可能性が開けている。科学技術の発達が可能にするどのような身体の拡張を受け入れようと(あるいは拒絶しようと)、この類のゲームが、喜怒哀楽という感情、欲望や怨恨といった深い情念をひたひたにしみ込ませ、名誉と不名誉の歴史を人間に蓄積させていくことはまちがいない。(p405)

 古代ギリシャの拳闘士の彫像があって、そこに漂うのは野卑な血生臭さではなく、神々しいまでのメランコリーだ。生きることは、畢竟、絶えざる闘いだと、少し辛酸を舐めれば思い知る。だとすれば、ボクシングは、直視すべき実相に他ならない。ボクシングを忌避する文化は、偽善的であり上っ面でフェイクだと抗議してやろう。それでも聞かないなら、この本を投げつけてやる!