稲賀繁美先生に『プルースト、美術批評と横断線』を書評していただきました

10日に発行された「図書新聞」(2014年5月17日号)で、比較文化学者の稲賀繁美先生に、荒原邦博『プルースト、美術批評と横断線』を書評していただいています。

本書には、失われた時が封印されていた。このような遭遇体験は凡夫の一生には何度とない事件だろう。その驚嘆の一端を書評に託したい。まず序章「絵画と横断線」と題する先行研究批判を見ると、意外にも拙著『絵画の黄昏』(1997)に言及がある。片やマネの画業に「象徴革命」を認知することで近代主義者の地金を隠さぬ社会学者ピエール・ブルデュー。片や革命など歴史的事実としても是認しない修正主義者ピエール・ベッス。その両極端の間に拙著を位置づける見取り図は、秀逸を超えて過褒だろう。
(中略)
[『絵画の黄昏』の影の主人公であり、『失われた時』の脇役のモデルとされるテオドール・デュレの美術批評について]歴史画というジャンルが終焉を迎えたこの時代、マネらの即興制作が前衛avant-gardeの符牒となる。だが「仕上げ」を拒絶する作品をめぐる歴史=物語histoireなど、いかに仕上げられようか。物語作家プルーストも直面したこの桎梏に、本書は世紀末の地殻変動の断層現場を探り当てる。今日ルーヴル美術館に居並ぶ「名品」を当然の審美的基準作として、プルーストの美術観照を復元するような安易な迎合姿勢とは、本書はきっぱりと袂を分かつ。
(中略)
セザンヌやゴッホ、ゴーガンなどは『失われた時』に登場しない。それを不可解だと訝しがる向きも多い。だが著者によれば、これは設問の方が間違っている。そもそもPostimpressionismとは[モーリス・]ドニの「セザンヌ」論(1906)の影響下、マティスらも含む流派を包括すべく、英国の批評家ロジャー・フライが1910年に発案した用語に過ぎなかったのだから。もとより「二〇世紀」の前衛画家たちは「世紀末」社交界の舞台には似合わない。ここから虚実面妖なる褶曲が発生する。世紀末の耽美的頽廃への「反動」が古典再評価を呼び、ドガらによるアングル復権とも結託し、ロマン派のドラクロワや、その擁護者ボードレールの影を薄くした。世界大戦下、その痕跡はプルースト「印象主義」審美観にも影を落とす。むろん作家は偽装を施し、時に匿名化に訴えつつ『失われた時』に美術批評の装いを凝らした。だが傍らでモーリス・ドニが画策していた歴史への系譜学的・遡及的介入に目配せすると、プルーストの創作に隠された同調や反発の軌跡も、影絵となって浮かび上がる。

当時の美術批評の歴史への系譜学的・遡及的介入のありようと、それを『失われた時』の中に探ることで浮かび上がるプルーストの同調と反発。あるいは本書『プルースト、美術批評と横断線』から、世紀を横断して想起される『絵画の黄昏』へ。末尾に記された「隔絶された時空の内に散乱した幾多の「断片」。その相互には、無数の「横断」が張り巡らされる」ということばどおりに、プルーストの作品世界そのものと、本書ならびに『絵画の黄昏』の響き合う書評です。
書評全文ならびに本書を多くの方に手に取っていただければと思います。