『ラインズ 線の文化史』、クロスレビュー掲載されました!

発売中の「週刊読書人」2014年7月10日号に、クロスレビュー形式による『ラインズ 線の文化史』評が掲載されました。同じ本をふたりの専門の異なる評者が、互いの書評内容は見ずに評する実験的で刺激的な試み。評者は哲学・認識論が専門の金森修さんと、美学・表象文化論が専門の星野太さん。

◉ラインの変幻自在性 われわれの生も終らない途上の中にある(金森修)

全体を通読し終えたとき、或る種の戸惑いの中にいた。さて、この本のことをどう報告すればいいのだろうか。表層的には、まさに題名の如く、世に存在する多種多様な〈ライン〉に目を向け、それを列挙している本のように見える。しかもその列挙法が、単なる羅列なのか、それとも或る内的な選択原理に導かれているものなのか、その答えは自明な形ではみえてこない。さらにインゴルドは、一口にラインとはいっても、それを独自な概念対で切り分けるという作業を進める。例えば糸、軌跡、切れ目、亀裂、折り目などという概念だ。
(略)
全体から見ればライン論そのものへの序論としての位置づけなのだろうが、実は、第一章が読んでいてとても楽しかった。テーマは一見、迂回的なものにみえる。音楽と言葉の分裂。絶対音楽や標題音楽などに慣れたわれわれには、不思議な昔日の光景。昔は言葉のない音楽など考えられなかった。というより、言葉そのものが長短強弱などの律動性を含む、それ自体で一種の音楽だった。言葉と歌、音楽は、半ば渾然一体となっていた。それに繫がる話だが、昔の西洋人は記載されたものを音読することが普通だったのである。言葉が一つひとつ紡がれていく時、それは、孤独な書斎での沈黙の沈思黙考なのではなく、唄うような声を挙げ、周囲の人にも自分自身にも思考の生成を響かせながら突き進む、一種の共同作業だった。(略)こんな素敵な読書論を読んだのは、ほぼ初めてである。これに出会えただけでも、『ラインズ』に触れる意味はあった。
一挙には与えられず、行為者の行為と同期的に軌跡を残していくライン。遠景に一種のベルクソン哲学が隠されているのは明らかだ。(略)ともあれ、インゴルドが述べるとおりだ。われわれの生もまた、終らない途上の中にある。次の一歩を踏み出し、新たしいラインを描こうか。誰かが、紡ぎ直し、束ね直してくれるかもしれないのだから。
◉線、この限りない豊かさ 人類学者による破格の「線の文化史」(星野太)

掛け値なしの名著である。社会人類学者ティム・インゴルドによる本書『ラインズ』は、「線(ライン)」というあまりにもありふれた、しかし人類史にとってもっとも重要な対象をめぐって、全六章にわたり刺激的な考察を惜しみなく開陳している。
言うまでもなく、私たちにとって「線」はきわめて身近な対象である。というより、私たち人間にとって、「線」なしに世界を把握することなどほとんど不可能であると言ってよい。自然の中に「線」は存在しないという画家セザンヌの言葉は、逆説的にも、それがいかに人間にとって本質的な認識ツールであるかを雄弁に物語っている。そんな巨大な対象を前にするとき、私たちの思考はしばしば観念的な方向に傾いてしまいがちだ。だが、人類学をバックグラウンドとするインゴルドは、さまざまな図像資料をふんだんに用いながら、あくまでも具体的な事象を手がかりとしつつ議論を進めていく。そして、本書に登場する多くの魅力的な事例を導くのは、数多くの領域にまたがる広範な文献資料と、それらを的確に配置する著者の柔軟な思考である。(略)
本書には「糸」や「軌跡」をはじめとする分析的カテゴリーもふんだんに登場するが、その目的は「線」をめぐるさまざまな文化現象を分類することではなく、普段であれば見過ごされがちな「線」に目を向けることで、私たち人間の営みを根本から捉え直すことにあるのだ。
巻末の「解説」で管啓次郎が述べるように、本書は「さわやかな」書物である。さまざまな領域にまたがる堅実な学識に裏打ちされつつも、著者は「監獄」のような狭い学問領域に決してとどまろうとはしない。(略)
工藤晋による正確かつ流麗な翻訳、さらには洒脱な解説と美しい装幀によって、原著のもつ「さわやなか」気配は本訳書の隅々にも息づいている。

ありがとうございました! 書評の全文は「週刊読書人」でお読みください。