三好達治の小田原──淡くかなしきもののふるなり

三好達治の小田原──淡くかなしきもののふるなり

詩への旅

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詩人石田瑞穂が一篇の詩を旅するように、国内外の詩人ゆかりの地を訪れ、土地と対話するように詩を読み、酒を呑み、また、呑む。読書と酒食に遊ぶ愉楽の紀行エッセイ。近現代の詩と詩人の魅力もわかりやすく紹介します。

三好達治の小田原──淡くかなしきもののふるなり

石田瑞穂

詩人石田瑞穂が一篇の詩を旅するように、国内外の詩人ゆかりの地を訪れ、土地と対話するように詩を読み、酒を呑み、また、呑む。読書と酒食に遊ぶ愉楽の紀行エッセイ。近現代の詩と詩人の魅力もわかりやすく紹介します。


 海山の頁に挿まれた神奈川県小田原市は、戦国時代には後北条氏の城下町、江戸時代には東海道屈指の宿場町、明治期には政財界人の別荘地として栄えた。その風尚を好む文人画家がおおく居住したことでも知られる。
 現代の城下町、小田原駅にはジブリ映画の劃割のごときポストモダンな和風商業施設minakaが隣接し、その南に小田原城がある。首都圏でも駅至近にお城があるのは小田原だけであり、ぼくが小田原を好むのも、巨きく美しいお城をながめていると、なぜか、こころが安らぐからだろう。今昔が混淆する庶民的な小田原の街で、夏制服を着て日焼けした少年少女たちの笑顔は屈託なく、開放的で輝いてみえる。きっと、いい街なのだ。
 その小田原に、風狂の詩人、三好達治が棲んだ。
 そして、梅雨時になると、ぼくにはつい口遊みたくなる三好達治の名詩があるのだった。

   乳母車

  母よ──
  淡くかなしきもののふるなり
  紫陽花いろのもののふるなり
  はてしなき並樹のかげを
  そうそうと風のふくなり

  時はたそがれ

  母よ 私の乳母車を押せ
  泣きぬれる夕陽にむかつて
  轔々と私の乳母車を押せ

  赤い総のある天鵞絨の帽子を
  つめたき額にかむらせよ
  旅いそぐ鳥の列にも
  季節は空を渡るなり

  淡くかなしきもののふる
  紫陽花いろのもののふる道
  母よ 私は知つてゐる
  この道は遠く遠くはてしない道

 三好がひととき居をかまえた鎌倉の明月院や小田原、そしてわが流寓の見沼桜回廊でも、紫陽花が咲くたびに、ぼくはなんどこの詩を誦じ歩いたろう。
 新型コロナ禍も落ち着きをみせたころ。ひさしぶりに偉大なるエドガー・アラン・ポーの眷属を自負する〈黒猫〉を召喚し、三好達治の暮らした小田原に遊ぶことにした。電話口の黒猫によれば「召喚の対価は相模湾近海の新鮮な地魚鮨である」……という。
 小田原駅に顕現した黒猫はもう小腹がへったそうで、食べ歩きがしたいとのこと。ぼくはミナカで蒲鉾の老舗〈鈴廣〉が手がける「箱根ビール」を喇叭呑み用に購入。黒猫の両手には人気店〈でん助〉の特大アジの唐揚げとタピオカミルクティーがあった。ぼくらは駅から小田原城へと歩きだしながら、
「旨そうだけど、梅雨の花見にアジフライ?」
「なにをいいだい御前さん。これがわっちらグローバル女子の風情でありんす」
 グロバーバル時代は関係ないとおもうけど……あと、なぜ、おいらんコトバ? などとかけあい灰色の街を十五分ほど歩く。旭丘高校をすぎて城址公園にはいった。





 ほどなく、梅雨空に白壁も鮮やかな小田原城、青々と巨きな枝ぶりの立派な松並木が眼前に聳えた。園内の菖蒲が満開で、まっ青や薄紫の花々が曇天をかき消すように咲き乱れていた。そして、もちろん、青藍、み空、薄水、紅、紫式部、金糸、淡黄…その花言葉のごとく色とりどりにうつろう紫陽花たちが咲き誇って。
「淡くかなしきもののふる、紫陽花いろのもののふる、でしたっけ」と黒猫がぼくらの沈黙をやぶる。
「うん。三好は母なるものをいいあらわすのにその詩的表現をつかったのだとおもうよ。散文的に薄暮の光とだけ解する小説家や識者もいるけれど」
「そういえば、万葉集で紫陽花を歌ったものはごくすくないですよね。藤はおおいけど。芭蕉や蕪村からも遠いかな」と黒猫のご明察。
「紫陽花はそれだけ昔からぼくらの側で咲いているわけだけど、日本の詩歌にとってはどこか余所余所しい異邦性の花かもね。花言葉も変節でよくないし。黒猫のイメージじゃないけど……魔女の国イギリスでは紫陽花は魔法の冠とよばれて不吉なのだそうだよ」。
 その花を三好は母と詩った。黒猫の指摘でおもいだしたが、釈迢空、折口信夫も紫陽花を深海の色と書いたのだった。三好も折口も母なるものと紫陽花にたいし、人知のおよばぬ深さと、それゆえの悲痛な思慕をこめたのではないか。

 紫陽花を愛でつつ常盤木門から本丸へとすすみ、白亜の城壁と端正な屋根瓦が美しい天守閣をみあげた。入館料を払い、修学旅行の中高生らとともに入城。内はおもったより狭く、小暗闇に浮かぶ甲冑や刀剣を観て風魔忍者の気分を味わった。天守閣の展望台にのぼると、海風が頰に心地好く、灰色の市街の南方に梅雨の相模湾が鈍色に輝いていた。三好達治が仮寓した十字町、南町界隈も見晴らせる。天守閣をあとにふたたび紫陽花の小径を歩いて大手門へ。蓮池のそばの松並木の途中、樹冠を仰ぐと、大型の鳥がくりかえし飛来していた。青鷺だった。見沼でもよくみかける鷺が、こんな高い木のうえに巣を営むのを初めて知った。
 それから、ぼくらは藤棚の交差点を下り、東海道を西進して諸白小路を下る。南町一丁目交差点の北西の角には老舗らしき〈片岡美術店〉があり、覗いてみた。写真家の濱谷浩氏が撮影した三好達治の書斎には、渋好みの越前古窯壷がおかれていたが…散歩中の詩人も寄ったかもしれない。井伏鱒二の小説『珍品堂主人』のモデルこと古美術評論家の秦秀雄とも淡交した三好のこと。古唐津のぐい呑みなんぞ着流しの懐におさめ、飄々と歩き去ったやもしれぬ。
 そんな想像をしつつ諸白小路を下りはじめてすぐ。黒猫が「ありましたよ」と右手の新築住宅を指さした。そこには駐車スペース柵の一部のように、「三好達治旧居趾」と篆刻された目立たぬ石碑が建っていた。黒猫とふたり、感慨をこめて碑をみつめる。



 三好達治は昭和十四年(一九三九)早川口下河原二四番地に居を構えたが、早川の決壊で家財が浸水。昭和十六年に十字町三ノ七一〇番地(現在の南町四ノ九番地)に転居した。江戸時代の諸白小路は中堅藩士の武家屋敷が列んだ。明治からは田中光顕伯爵一族邸もあり、いまも豪邸が軒をつらねる通りである。一方、三好達治旧居の斜向いには、旧十字町の由来ともなった風情ある木造の小田原教会も建つ。
「昭和十五年、三好は神経衰弱気味の若き坂口安吾を気遣い、早川の家にまねいて同居しているんだ」
「後輩思いの方だったのですね。でも詩人だから生活はきびしかったのでは……」
「それが家賃の支払もくるしくて。鎌倉、小田原時代の随筆集『夜沈々』と『風蕭々』の題は、家賃家賃、貸せ少々、なんて借金苦をもじったものらしいね」
 諸白小路を五分ほど下ると、小田原文士たちの散歩道、西海子小路にでた。東海道に並行し閑静な宅地中をはしる通りには粕壁の豪邸が列ぶ。ひろい小路は石畳の屋敷路を模しており桜並木がつづいていた。漁師町の名残ある小田原市街とは異質な空間だ。まさに、風蕭々、一直線に若葉をゆらして潮風が吹きすぎてゆく。







「ここは、たしかに箱根の山風と相模の海風が出逢う風の通り路だね」
「西海子と書いて、さいかち、という名がまた詩的ですよね。昔は西海子が植えられていたようですね。それにしても、この道はまさに「はてしなき並樹のかげを/そうそうと風のふくなり」ですね。そういえば、街中からここまでずっと、海からの風がそよそよ吹いててきもちよかったなあ。暑さをかんじませんでした。小田原は風の街ですね」と黒猫。
「この小路を北原白秋、牧野信一、坂口安吾も毎日のように歩いたんだ。「乳母車」が書かれたのは大正十五年六月。小田原時代の詩ではなく、丸山薫ら東大文士の同人誌「青空」に発表された作品だね。三好達治の事実上のデビュー作で、いきなり後世にのこる、詩人の生涯でも随一の名詩を書いちゃった」
 それでも、ぼくらの意識のなかで、詩の並木道の情景と西海子小路はかさなりあう。心地好い海風に吹かれ小田原文士たちの道を東へ、海へと歩く。こんどは小田原文学館がみえてきた。館は旧田中光顕伯爵別邸で、二階に半八角形のサンルームがあり、海緑のスペイン瓦で屋根を葺いたという昭和初期のモダニズム建築。ちょうど、小田原文士のひとり、川崎長太郎の小説「独身返上(ローソク)」の原稿展が催されていた。観覧のあとは、おなじ敷地内の北原白秋童謡館と移設された尾崎一雄邸書斎を見学。昭和文士好きの黒猫は大興奮だった。
 西海子小路をでて早川をわたり、湾岸道路をくぐってぼくらは相模湾にでた。砂浜はちいさめだが海はひろい。梅雨空だが光はつよく、額に手をかざし北東から江ノ島、三浦半島、南西に真鶴岬をぐるりとみまわした。瀬がしらのむこうにトンビの風切羽と蜃気楼がみえる。詩人の海にとどいたぼくらは、どうしたって、三好達治の名詩「郷愁」の最終行を口遊むほかはない……。

  ──海よ、僕らの使ふ文字では、お前の中に母がゐる。そして母よ、仏蘭西人の言葉では、あなたの中に海がある。

「ふふ、お約束ですね」と黒猫も含羞の笑をこぼした。

 ぼくらは小田原駅にバスでもどる。栄町の、その名も「おしゃれ横丁」なのに、昭和のニオイがぷんぷんするセマキタナイ飲屋街へと潜り〈潮り〉という鮨屋の暖簾をくぐった。近海の地魚を握ってくれる店である。
 とりあえず、生ビールで再会を祝した。お通しは早川漁港の生しらす。身はきらきら透きとおってい、口にふくむとしらす特有のねっとりとした食感、苦味が旨い。
「早川のしらすを三好達治も食したろうね。酒のアテに最高だもの。大阪生まれで美食家だったから、魚貝もお好きだったそうだよ。東京を退いてからは鎌倉、小田原、三国と魚が美味い土地ばかりで暮らしてた」
「小田原で通ったお店はあったのかしら」
「鮨は好きだったみたいで、もう閉店した南町の鮨屋をよくお遣いだったと、さる老詩人から伺ったことがあるな。戦後に独り身で再上京してからは銀座、日本橋、新橋で呑んでいたらしく、石川淳、吉田健一、河上徹太郎の通った新橋烏森〈若竹〉、おなじく昭和文士たちの通った銀座十三間堀出雲橋〈はせ川〉、久保田万太郎と三好が通い暖簾も揮毫した銀座〈はちまき 岡田〉。いまは無き渋谷〈六兵衛鮨〉、渋谷川〈とん平〉。古本屋で『しぶや酔虎伝 とん平・35年の歩み』をみつけたら購入すべし。三好をはじめ世田谷文士と店の淡交……というかやや迷惑な酔虎譚が小可酔く味わい深く書かれているよ。酒は秋田の高清水を好んだそうな。小田原にも鰯御殿のような〈だるま料理店〉、箱根蕎麦〈壽庵〉、江戸時代からつづく鰻や〈松琴楼〉といった名老舗があるから入店されたかもね。とまれ、三好の小田原時代は戦時下だったから物資も家計も裕なく、自分より家族の胃をみたすので精一杯。でも戦争期に魚貝の豊かな海辺を転々したのには、せめて家庭で美味しい地魚を食べて呑みたい願いがあったのかもね」
「ふむ。詩人の饒舌で場も胃も暖まったので…そろそろ地魚のお鮨、いただきましょう。お酒はどうします?」
「……じゃあ、地元〈久保田酒造〉の銘酒〈相模灘〉で。あと、真鶴揚りの本鮪のお造里、もらおうかしらん」

「いまが旬、白身魚の王者、すずきです」
 若大将が威勢よく鮨を下駄にさしだす。相州魚の奥座敷、鱸。梅雨のすずきは一年でも脂のノリがよいという。身は弾力がありながら、やわらかな歯ごたえ。程好くほどける鮨メシとともに噛んでいると、仄かな甘味が口中にひろまる。白桃のように身が淡透したすずきほど、新鮮でくさみがない。それから、小田原漁港、早川漁港、真鶴漁港揚りの石鯛、的鯛、金目とつづき……、
「話を「乳母車」にもどすけれど、三好達治の出自は複雑なんだ。実家は大阪市内で特殊印刷業を営んでおり、実父の政吉さんが変わった御仁だった。まず、達治少年は六歳のときに、長男であるにもかかわらず「ふとしたことから」政吉さんの気紛れであるかのように京都府舞鶴町の佐谷家に養子にだされてしまう。実母のタツさんも抵抗しなかったらしい。翌年には祖父母のいる兵庫県有馬郡三田町へあずけられた。それから、実家のほうは、達治少年が小学五年生のときに三田町から大阪市内の靭尋常小学校に転入するまで、九回も引っ越して市中を転々している。生まれついての漂泊者なんだ。三好は唯一の自伝的随筆「自伝(自分のこと)」のなかで作家安岡章太郎の言葉を借りながら、去留定めなき幼年時代をふりかえり「あいまいな故郷」と書いているね」。すると……、



「はい、小田原といえば、かます、ね。身は多少水っぽい魚ですが、皮のしたに旨味がぎゅっとつまってやす」
と、若大将が破って入った。皮を炙られ岩塩をまぶされた梭子魚を頬ばると、揚がった皮はパリッと香ばしく、口のなかに脂と旨味が蕩けでて、舌のうえでシャリと混ざりあう。魚はご飯にあう、という一心が鮨の本質なのだろうか…おもわず瞑目し味わうと、
「のようなもののふる、という比喩表現の本質も三好さんの失郷にあると。淡く寂寞な情景は詩人が幼年期に懐いた喪失感からもきているのね」と黒猫も半眼で、
「そうだね。それとさっきもいったように「乳母車」は詩中の詩、詩で詩を語るメタポエトリーとしても読める。「赤い総のある天鵞絨の帽子を/つめたき額にかむらせよ」の部分。これは三好が訳したボードレール『巴里の憂鬱』の引喩が変容したイメージだね。ボードレールが愛用したビロードハット、赤ん坊であるにもかかわらず「つめたき額」は、冷めた視線で世界を詩的理知で分解するボードレールの詩論のごとき肖像でもあって」
「三好さん、自分は生まれながらの詩人であると……」
「うん。いわば詩人の誕生宣言なんだ。「乳母車」が三好のデビュー作であることも鑑みよう。こうして、三好達治は若年詩人にしてすでに詩と文学の「遠く遠くはてしない道」を「母」に手をひかれて歩んでいくしかない宿命と願望をわがものとしている。さておき、新人にしてこれほど洒脱に詩を書くのだから、三好達治は早熟な詩人だったのだなあ」
「ん? なぜお母さんと? この詩の「母」とは?」
「海辺で口遊んだ詩「郷愁」が教えてくれるよ」
「ああ、言葉が、母なんですね」
「そうだとおもう。三好には言葉のほかに母性はなかった。三好達治は誕生の瞬間を、雷鳴とともに生まれた、とも書いたけど、生誕時から自分の生涯は不穏であり無頼であり孤独である、という認識だね」
「だから母をもとめる気持ちも人一倍つよくて。母としての言葉を探究する詩人になるほかなかった」
「そんな三好達治のごとき詩人がナイーヴな抒情詩人であるはずもない。抒情的であるとともに、フランス文学にたいする造詣もふくめ、知的で深い教養を湛えた怜悧な詩を書く詩人だった」
「三好さんの詩師、萩原朔太郎以降かしら? 抒情詩と主知詩は対立的に論じられるけど」
「頭の固い教科書的分類だよね。三好達治の詩は双方を一身に証明してみせた。ここで語る時間はないけど、たとえば戦時下の小田原で書かれた詩集『花筐』ね。あれは萩原朔太郎の妹アイをめぐる単純な恋愛抒情詩ではなく、人間・歴史・社会の宿命を詩う悲歌にちかい。謡曲「花筐」を詩的ペルソナに与謝蕪村から萩原朔太郎へ、萩原アイと亡き朔太郎への思慕が切なく絡まりあう複雑な螺旋構造をもつ詩集だと、ぼくは愚考するな。しかも詩形式としても、フランシス・ジャムから学んだ四行詩と万葉歌や古典俳諧の日本的言語美が音叉のように共鳴した妙なる翻訳のポエジーが……」
「酔ったのかな? つめたき額をとりもどして、いつか三好達治論でも書いてくださいね……」。


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