今週の本棚:川本三郎・評 『敗れし國の秋のはて…』=柏倉康夫・著
◇『敗れし國の秋のはて--評伝 堀口九萬一』
左右社・1890円)
◇「日本最初の外交官」の数奇な生涯
詩人、堀口大學の父親が外交官だったとは知っていたが、こんな特異な経歴の持主だったとは。今日、一般の人名辞典に大學の名はあっても父親の九萬一(くまいち)の名はない。
著者は今日、忘れられている九萬一の生涯を明らかにしてゆく。帯の惹句(じゃっく)に「日本最初の外交官」とある。明治二十七年(一八九四)、二十九歳の時に、第一回外交官領事官試験に合格(合格者は四人)。近代日本国家を支える外務官僚の道を進むことになった。
慶応元年(一八六五)、越後長岡の生まれ。長岡藩の重臣、河井継之助を主人公にした司馬遼太郎の『峠』で描かれたように、長岡藩は戊辰戦争の時、会津藩と共に幕府側となり官軍に敗れた。この戦争で、長岡藩の足軽だった九萬一の父は戦死した。
明治になって、戦争に敗れた側の人間が世に出るには、勉強する以外にない。少年時代の九萬一は「勉強さえ出来れば」という思いで刻苦勉励する。ひたすら立身出世を望む。「賊軍だった長岡藩士卒の遺児は、教育をたった一つの武器として逆境を乗り越えよう」とした。
努力の甲斐(かい)あって明治十八年(一八八五)、二十歳の時に司法省法学校(のち東京帝国大学法科大学)に入学。前述したように明治二十七年には第一回外交官領事官試験に合格し、外交官となった。
敗れた側の人間として権力者に縁故、伝手(つて)を持たない青年は、世に出るためには試験こそが唯一の手段だったという指摘が面白い。公務員試験は学力だけが問われる公正、平等な制度だったといえる。
外交官となった九萬一は任地でさまざまな歴史的事件と関(かか)わってゆく。なかには生臭い事件も多い。サマセット・モームが『アシェンデン』で描いているように、この時代の外交官はスパイのような工作もしている。
最初の任地、朝鮮(当時は李朝)では、明治二十八年(一八九五)に起きた閔妃(びんぴ)殺害事件に関わる。李朝の第二十六代高宗の妃、閔妃が、朝鮮半島をめぐる日本とロシアの覇権争いのさなか、親ロシアと見られていて殺された。日本が、そして九萬一が何らかの形で関わっていたのではないか。
九萬一はこの事件については生涯沈黙を守ったという。フランス象徴詩の訳詩集『月下の一群』で知られる堀口大學の父親の名が、こういう血なまぐさい事件で出てくるのは意外。
明治三十三年(一九〇〇)には、ブラジルに単身赴任。日露戦争直前に、ロシアに先んじて隣国アルゼンチンから軍艦二隻を購入。これが日本海海戦勝利の一因となったというあたりはどこか冒険小説の趣(おもむ)き。
さらに明治四十二年(一九〇九)にはメキシコに赴任(長男の大學も共に)。四年後にはメキシコ革命に遭遇。この時、殺害されたマデロ大統領の家族を義〓心(ぎきょうしん)から日本公使館に保護している。このあたりも劇的。
ちなみに、サム・ペキンパ監督の傑作「ワイルドバンチ」(69年)は、このメキシコ革命時を舞台にしている。九萬一は彼らアウトローたちと同時代人だったわけだ。
最初の妻(大學の母)は若くして病死。再婚相手はベルギー人というのは国際人らしい。昭和二十年(一九四五)、敗戦直後に八十歳で大往生。
生涯、日本の国家体制を信じたが、任地がブラジル、メキシコ、最後のルーマニアなど大国とはいえない国だったのは、賊軍長岡藩生まれという出自のためだろう。そこが悲しい。
毎日新聞 2009年2月8日 東京朝刊