第6回 花 見 の 穴 場

 熱海のマンションを持つ知人の飲み会に1泊2日で参加した帰り、土曜日のぽかぽか陽気に誘われて、なんとなく小田原で降りた。気がついたら西口にいて、小田原競輪場行きの無料バスに乗り込んでいた。
 箱根湯本へ向かう上品な中年の夫婦連れ、伊豆の温泉へ遊びに行くにぎやかな20代のOL衆、70代以上の友達が集まったと見られる男女のグループ……ようやくめぐってきた春の恩恵を全身で満喫したい、といった風情の多くの人たち、と、このバスの30人の雰囲気は明らかに異なる。
 バス内には赤や黄色や青といった鮮やかな色彩が皆無だ。灰色やくすんだ茶色、黒といった色彩で覆われている。このままタイムマシンに乗せ、1948年の東京でおろしても、すぐ風景に溶け込むだろう。つまり、競輪場行きバスは、まだ戦後、なんである。
 それはともかく、小田原競輪場は一周333メートルの「33(さんさん)バンク」だ。そうは見えなかったが。傾斜が強いため、逆にまくりが決りにくいそうだ。ウィキペディアによれば、場内には桜の木が多く、「小田原市内でもっとも場所とりがしやすい桜の穴場」なんだという。
 その小田原競輪場で、私は、久しぶりに人間関係論と確率論と運動生理学の複雑な応用問題である競輪を5レースほど楽しんだ。やれワイドだ、連勝複式だ、とさまざま、手をかえ、品をかえ、したのだが、1レースしか当たらない。選手や、選手の人間関係についての知識、選手の体調を洞察できる経験もないので、これは仕方ない。
 1986年、まだドームになる前の前橋競輪場に通い始めた私には師匠が2人いた。そして、いまは2人とももういない。だが、2人は私に名言を残してくれた。
 1人は元競輪選手。彼は、色紙に「●●●●人生」といつも書いた。人生は競輪と同じで、●●●●だ、と。その4文字は「待ち伏せ」だった。人生も競輪も、用意周到、準備万端に、あらゆる機会に備えて、待ち伏せしているやつが勝つ、と言うのだ。
 もう1人は、東大出の医者だ。ジャンのカネがもろに聞こえる競輪場徒歩3分で開業しており、彼の名言は、「生活が堕落すると、競輪は外れ出す」だった。
 当時で80歳近かったと思うが、朝は5時におき、散歩し、食事し、競輪開催中はきちんと予想して、決められた時間内に決められた額だけ車券を購入し、復習と予習を怠らず、つまり自分を律することで、予想を極めようという人間だった。
 2人が言おうとしたことは重なる。競輪においては、準備せよ、学習せよ、推理せよ、想像せよ、だ。
 そうすれば、いずれ、凡人には「偶然」にしか見えない出来事も、必然の糸で固く結ばれていることがわかる。起きている事態にはすべて原因があることがわかる。すべてのレース結果は論理的帰結であることがわかる。だから、競輪がはずれる理由は、「待ち伏せ不足」であり、「生活堕落による勉強不足」なのだということである。必然を突き詰めれば、神の領域にまで近づくことは可能だ、という考え方のなんとセクシーなことだろう。
 ところが、そんな競輪を真の意味でスポイルするアイデアがもうすぐ実現されようとしていることを小田原競輪場で知った。この4月16日から、平塚競輪場を皮切りに、「新車券チャリLOTO」というのが発売されるのだと言う。
 後半の7レースの1着を全部あてる。つまり、競輪は9番まであるから9通りの7乗、478万2969通りの車券のうちの一つを買うのだそうである。問題は、サッカーのtotoBIGと同じで、推理して買うのではなくて、宝くじのようにコンピュータにはじきださせたものを、買うのだということだ。数字が気に入らなければ買わなくてもいいこと、ネット専用販売であること、がBIGとは異なるようだが、いずれにせよ、推理の王様のスポーツであるはずの競輪にさえ、宝くじの論理が侵入してきたのは間違いない。全部、偶然にしちゃえということか。
 などと思っていたら、大学教授で数理系トレーダーのアメリカ人が書いた『まぐれ』(原題「人生と市場における偶然の隠された役割」)に出合った。「偶然にだまされないように抵抗し、偶然に引きずられがちな感情をなだめすかし、現実の世界で不確実性を相手にプロとしての人生を送ってきた」という著者にして、プロのトレーダーの成功のほとんどは偶然なのだ、と力説している。
 私の師匠2人は、こんな身も蓋もない議論が横行する21世紀まで生きなくてよかった。

三沢順(みさわ・じゅん)