第7回 映 像 の 犠 牲

 浅草で酒を飲み、午後11時前に都営浅草線に乗った。「きょうは早く帰って仮眠して、朝の3時からカブスの試合をみよう」と思いながら、睡魔に誘われ、ふと気がつくと、三浦半島の京浜久里浜駅にいた! 浅草線に乗り入れている京浜急行でずんずん運ばれて行き、その間、1時間以上はあったはずなのにまったく目をさまさなかったのだ。
 すでに上り電車はない。横須賀中央までタクシーで行き、小さなビジネスホテルで泊まった。1万円以上の出費である。
 スポーツの季節になると、睡眠が足りなくなる。今年は例年以上に、その覚悟をしなければいけない年になりそうだ。
 まず、福留孝介が移籍したシカゴのカブスとのきつい時差の問題だ。ナイターなら昼夜逆転して、ちょうどこちらの午前中になる。だが、本拠のリグレーフィールドはデーゲームが多く、CSのMLB放送では、日本時間3時30分から始まる試合が目立つのだ。
 6月7日からは、これに4年に一度のサッカーの欧州選手権が加わる。ここ4大会は、全32試合のうち20試合以上は見ているだろうか。今回はオーストリアとスイスが共催する大会で、試合開始は現地の18時、20時45分が多い。つまり、日本時間では2時、4時45分からの試合になる。
 きつい。相当きつい。ライブで試合を楽しもうと思うと、かなりの苦行を強いられる。それを覚悟しなければならない、春から夏になることは間違いない。
 もちろん仕事もあるし、「本業」のドラゴンズ観戦もある。東京近郊で巨人、ヤクルト、横浜と試合があると、だいたいスタジアムに出向いて観戦後は同志と酒を飲み、家に帰って、CSで録画した試合で「第2次反省」をしなければならない。時間的には、2試合分見ることになるときもある。
 こうなってくると、5月、6月をどう乗り越えるか、生活全体についての戦略的構想、覚醒と睡眠のバランスについての戦術的配分が真剣に必要になる。
 だが、どんなに頭がふらふらになろうとも、ライブ、生で見ることだけは自分に強いる。なぜだろう、「録画」で見ると、たとえ結果を知らずにいても、なんとなく興奮しないのだ。だんだん白けてきて、そのうち早飛ばしを始め、「結果」を求めるのがオチだ。結局、ニュースでダイジェストを見るのと変わらないことに気づく。
 地球上のどこかですでに終わっている試合、もう、時間に追い越されていて、人々の記憶にインプットされた試合、そのことを人々が過去の出来事として語り始め、すでに歴史(物語)の一部に変わり始めたような試合、には、いくら疑似ライブで見ても人を興奮させる要素に欠けるように思う。
 「いま、この瞬間に起きていること」の手触りがない。過程がない、というのかな。録画映像は、煎じ詰めれば結論しか映さない。
 15年ほど前、まだ身近に、インターネットも、衛星放送も、携帯電話も存在しなかった時代。高田馬場のスポーツバーへ、イングランド—イタリア戦を見に行ったことがある。試合は終わっていたが結果は知らない。入り口に「万が一、あなたが結果を知っていても、決して口外してはいけない。口外したら殺すよ」と英語で張り紙がしてあった。
 店では「過去の試合」の疑似ライブを、70人程度の日本人・イギリス人が興奮して見ていた。記憶をたどると、そのときは、違和感なく録画映像に「乗れていた」と思う。今乗れないのは、世界が完全にひとつの時間の中で、つながっていることを、電子メディアなどで日々確認しているからだろうか。
 5月にはサッカーの最高峰、欧州チャンピオンズリーグの決勝もある。私はサッカーの神様に敬意を表し、毎年、この決勝を見終わると、儀式として赤ワインを飲むことにしている。何かを犠牲にしても、いま、こうして、海の向こうの至福の快楽と切り結んでいるという感覚。その刹那を味わうという興奮。多幸感に沸き立つ頭を、ワインが急速にしびれさせてくれる。
 この犠牲感、仕事やら睡眠時間やら、何か貴重な価値を引き換えに差し出している犠牲の感覚が実は、録画では味わえない興奮剤なのかもしれない。時差が9時間—10時間近くなるヨーロッパの都市での決勝で、PK戦にでももつれ込もうものなら、決着がつくのは朝の7時近くなる。放映するフジテレビも早朝番組にずれこむ。だから、いくつものドラマティックな決勝を思い出そうとすると、なぜか興奮した大塚範一と高島彩といった「めざましテレビ」の顔が、もれなくついてくるのである。

三沢順(みさわ・じゅん)