第11回 弱 者 の 一 手

 08年のヨーロッパ選手権が終わった。牛が食物を反芻するように、あるいは死んだ子の歳を数えるように、ちびちびと録画HDを見直し、味わいながら考えるのは、ロシアを準決勝まで勝ち進ませたフース・ヒディンク監督のことだ。
 ヒディンクについて考えることはフットボールについて、作戦や戦術について、勝負について、さらに考えるという思考そのものの質について、思いをめぐらすこととほとんど同義となる。だからヒディンクはいつも魅力的な材料としてそこにある。
 大会期間中、あるスポーツ紙で金子達仁がコラムを書いていた。要約すると、こんなふうになる。
 【Wカップで02年に韓国、06年にオーストラリアを、それぞれ率いて決勝リーグまで進ませたヒディンクが今回、ロシアを率いてオランダまで撃破した、その手腕(マジック)についてはもう驚かない。驚くべきは、相手の出方・やり方・弱点を発想の根本におき、そこから戦い方を進める「対症療法専門」の監督と考えていたヒディンクが、自分たちチームの能力を発想の根本におき、誰が相手でも「美しいサッカー」を堂々と進めさせる手腕にも長けていたことだ】
 「対症療法」と「美しいサッカー」が、二者択一的に並置されているのはどうだろう。極端な例をあげれば、「美しくセクシーなパスサッカー」と数年前に評判を取った滋賀県の野洲高校サッカー部が今日、スペイン代表と戦ったとして、「自分たちチームの能力を発想の基本に置く」ことができるかといえば、できるわけはないのだから。
 戦い(ゲーム)とは常に相対的な力関係であり、それは可変的である。ある溶液に違う液体を少量を投入しただけで微妙な化学変化が広がり、全体の溶液の性質を変えてしまうことがある。そんな、一手で力関係を変化させるアイデアこそ戦術なのではないか。
 アトランタ五輪で日本がブラジルを破る番狂わせを起こしえたのは、最終ラインのDFとGKの声の連携が悪い、というブラジルの唯一の弱点を分析しつくしていたのが大きいといわれている。予想通り、キーパーとDFの間に落ちる球に、GKが飛び出し、DFとぶつかった、そのスキに唯一の得点を挙げたのだった。 
 水泳や走り高跳びの選手が「自分の能力さえ出せれば」というのはわかる。選手が、芝生のピッチで、自分たちの能力を信じるのも当然だろう。だが、タクトをふるう最高責任者が、相手の弱点をつくための分析の努力を怠るようでは能無しというしかない。それは米国の戦闘能力を分析もせず、神国の力を信じて戦った大東亜戦争の発想そのものだ。

三沢順(みさわ・じゅん)