第12回 真 夏 の 希 望

 「美しく生きる」ことと、「美しい生き方」は決定的に違う。「論座」という月刊誌の7月号で社会学者の2人、宮台真司と堀内進之介がそのことを論じている。
 「美しく生きる」とは「私の強い意志による決意」である。それに対して、「美しい生き方」とは「美しくない生き方」が対比されるような社会的関係性だ、と堀内は言う。
 宮台のほうは、「美しく生きる」とは〈世界〉に接触して生きること、「美しい生き方」とは〈社会〉に接触して生きる生き方、という言い方をする。〈世界〉とは何か。ありとあらゆる全体だ。では、〈社会〉とは何か。ありとありうるコミュニケーションの全体だ、という言い方をする。
 新自由主義に抗するはずの最近の「アラ35」の左翼のひ弱さを、「決意」がなくて「ポジショニング」をしているにすぎない、と二人は、こうして皮肉っているわけだが、「人生より甘い」(sweeter than life)ものに目がない私は、すぐにこういう論理は換骨奪胎したくなる。
 もっと簡単に言えるではないか。「美しく生きる」のは落合博満で、「美しい生き方」を求めるのは星野仙一だ、と。
 落合の、社会に安住せず、世界という全体に接触しようと言う意志、それは不可能性の意志であるともいえる。だから、落合は「理想の野球」として、〈1回表、誰もアウトにならず、永遠に続く攻撃〉などと言う。落合が「世界」派ではなく、「社会」派だったら、50も過ぎて、こんなたわけたことを言う野球人にはならなかっただろう。そんな野球は現実にはあり得ないし、誰もそんなことを聞きたいわけではないからだ。だが、そこで1回表に1,2番が出て、先取点を取ってなどといったとたんに、落合は凡百の野球人になるだろう。
 そして、いったんそこで、「社会」のコミュニケーション総体と妥協したら、そこから落合の大嫌いな「名球会」の世界までは、逃れることのない誘惑の道が敷き詰められているかもしれない。「社会」はほころび始めた小さな穴から決意を食いちぎり、どこかにポジションをとるよう求めるかもしれない。
 星野は落合を、「勝たなければ評価されない監督だ」と評したことがある。その内容のばかばかしさはともかく、この意味するところは、落合は、自分とは違って、社会に歓迎され、社会に尊重され、社会へ可視的な価値を提示できうる振る舞いの場所、ポジショニングのない監督だ、と言っているのだ。
 もちろん人は、おおかれ少なかれ、いつしか「美しく生きる」決意を捨て、「美しい生き方」をどこかに探すようになるのだ。なぜなら、「美しく生きる」ことは永遠に届かないゴールへの疾走のようなもので、マクロで見れば敗北への意志と変わらないからだ。
 首位阪神に13ゲーム差をつけられ、今日にも巨人、広島に抜かれて落合政権発足以来にBクラスの可能性があるから、こんなことを妄想しているのではない。
 マスメディアを総動員して、「星野ジャパン」の大合唱が起きている現在、落合は北京へドラゴンズの選手専用のトレーナーを派遣することを決めている。日本選手だけではない。韓国の李、台湾のチェン……各国代表として星野ジャパンをつぶしにくるドラゴンズの選手たちについても、そのトレーナーが筋肉の疲労回復などについて面倒を見る、と明言しているのだ。
 それは、星野にしてみれば、コミュニケーションの総体である「社会」の、さらにわかりやすい表象である国家に対する侮辱であろう。だから、いずれ星野周辺からこのトレーナー問題への批判や皮肉がきっと起きる。「敵国の選手のマッサージをするのか」「落合はなんてせこいやつだ」と。
 だが、社会を包含する世界の永遠性を志向する落合は、決して動じることはないだろう。私もかくしてこの夏は、今中2世を思わせる美しいフォームで知られる台湾のチェンが、左腕からの速球で、日本打線を完璧に抑えることを夢見る。

三沢順(みさわ・じゅん)