第13回 バスク妄想行1  激 論 の 因 果

 7月19日20時。72人乗りのAF5968便で、銀の翼を広げたような現代建築風デザインのビルバオ空港に降りた。近くのホテルで一泊。翌朝、空港に戻って、AVISでゴルフの2リッターカーを借り、ミシュランの地図を広げて、まずビスケー湾を目指すことにした。
 特別な目的地はないし、これといった予定もない。眩しいスペインの太陽がフロントグラスに反射し……と言いたいところだが、曇りで気温は17度だった。涼しいというよりは肌寒い。朝の天気予報によれば、マドリッドやセビリアは35度前後だった。だが、北スペインは事情が違う。バスク地方を訪れた人はみな、雨が多いところだねという。その水がこの地域に緑の恩恵をもたらしているのを、後に実感することになった。
 「バスク」。1カ月前、出張先の飛騨高山のホテルで、不意にバスクが浮上してきたのだった。NHKのBS放送で、過激な民族独立組織「ETA(バスク祖国と自由)」のニュースを見たのが直接の契機だった。1人の学生のヨーロッパ訛りの英語を急に思い出した。以来、バスクの3文字が頭にこびりつき、伸びたり膨らんだり形を変えながら化学変化をおこし、そのうち誘惑を始めた。
 ある酔った夜、デルのスイッチを入れ、HIS、AVIS、ホテル・ドット・コム、ドコモと次々と予約していった。バスクについての妄想の起点を探すと、1989年9月のワシントンDCになる。この話は長いし実りがないが、ここから始めよう。

 当時29歳で、日本語に訳せば、「高等国際問題研究大学院」とたいそうな名前になる大学院に身をおいていた。DCのど真ん中に殺風景なビルが二つ、それがこの研究機関のすべてで、教える側は学者のほかに、CIAの研究職や国防総省の軍人、外交官といった「現役」の政府役人たちもいて、学生たちも各国のエリート官僚、学者のタマゴ、ジャーナリストが多かった。朝11時前に最初の講義が終わると、17時まで授業はない。みんな、日中は働いているからだ。
 日本人留学生も7、8人いた。いまは衆議院議員になっている元外務官僚や、某県の知事選でこの前、敗れた元通産省課長もいた。彼らはすぐ近い将来の「利益」を求め、人脈作りに余念がないように見えた。そういう態度を、勝手に「マス・アヴ・アティチュード」と名づけていた。大使館が建ち並ぶDCのマサチューセッツ・アヴェニューから採用したインチキ英語で、上昇志向、向上心、意欲などが屈託なく満ち溢れているのが特徴だった。
 彼らと話をするのは苦手だったが、あらゆる正義は向こうにあり、道徳も礼儀も人間性も、もちろん勝算も、私よりは彼らに所属していた。28歳まで外国へ出たことがなかったうえ、海外で暮らしたいという気持ちも薄かった。そんな人間がいくつかの偶然の重なり合いでここにいる、その事実にいつまでも落ち着けず、落ち着けない自分への意識が過剰で、ありていに言えば居場所がなかった。
 たまたま知り合った別の大学のMBA留学生と週末にジョージタウンでよく遊んだ。「マンハッタン」というバーで、おたがい自嘲のソースをたっぷりかけた話を絡ませあって、笑いあった。「日本の兵器製造産業に従事する人間としてはさ……」と向こうが言えば、「ジャーナリズムが反革命なのは、明治時代からわかりきってるでしょ」と応じた。
 彼は大学時代にパリに留学した経験があり、フランスの話が好きだった。育ちがいいためだと思うが、おおらかさと繊細さが結婚をしたような人で、サガンなら「冷たい水の中の小さな太陽」、ルネ・クレマン監督なら「狼は天使の匂い」を断然選ぶような「枯れ系・失敗作」志向の私と違い、サガンなら「悲しみよ、こんにちは 」、クレマンなら「太陽がいっぱい」をきちんと好む真っ当さを持ち、しかも失敗作志向のマインドを理解できる人だった。
 9時過ぎまで明るい街でよく飲んだ。「ワイルド・ターキー」と注文しても英語が通じたためしがないから、いつからか「ジャック・ダニエル」ばかり好むようになったよね、と、そんな自分たちのことを自嘲的に話すのが大好きな、カネに困らない企業派遣の留学生、それが当時の私たちだった。
 
 もう少し駆け足で、妄想のバスクに近づきたい。
 私は大学院でユダヤ系アメリカ人のR教授が教える「テロリズム」という講義を選んだ。そして期末に出す40枚のミニ論文のテーマを、モロ元首相暗殺で世界的に有名になった70年代イタリアの新左翼過激派「赤い旅団」に決めていた。
 日本赤軍、バーダー・マインホフ・グループ(西独赤軍)とともにテロリズムの時代にイタリア全土を震撼させた組織だ。(1)なぜトリノのフィアットを中心とした未組織労働者層にそれなりに食い込めたのか、(2)なぜ多くの大学で教授層にシンパが多かったのか、(3)日本赤軍、バーダー・マインホフ・グループと異な り、なぜ、つかまり始めるとあっさりみんな自供し、粘りなく一網打尽になったのか、などに下世話な関心があった。
 いや、本当は日本赤軍を調べたかった。だが、くだんのR教授が「重信房子がPFLP(パレスチナ解放人民戦線)のジョージ・ハバシュのセックスに参っただけだろう」などと真顔で言うのである。実際、図書館でどれだけ資料をかき集めても、英語文献での日本赤軍の評価の低さは、民族の怒りで愛国心をかき立てられるほどだった。
 学生は15人。唯一、友達といえたシンガポール人の情報部員(!)はイスラエルの治安問題(セキュリティ)をテーマにしていた。「イスラエル大使館に取材インタビューに行ったら、中がすさまじい迷路でさ」と興奮していた。ほかに人気が高かったのはIRA(アイルランド共和国軍)。アメリカ人の左翼マニアの女の子は たいていIRAが好きなのだ。
 英語は進歩せず、私が理解できるのは授業のほぼ6割程度だったのだが、あるとき、R教授の発言に一人の学生が噛み付くという事件が起きた。激しい論争が30分以上続いた。「バスク」についての議論で、「バスク祖国と自由」(ETA)の運動の性格についての衝突だということまでは理解できるのだが、その学生のヨーロ ッパ訛りがきつすぎて単語の意味を聞きとれない。そこで瞬間、考え込んで、話し全体が見えなくなるのだ。
 バスク、バスクという言葉を聞きながら、私はアラン・レネ監督の「戦争は終った」を思い出していた。イブ・モンタンが演じていたパリで亡命中の革命家はバスク……いや、あれは反フランコの活動家で、バスク独立とは無関係か……。
 一瞬でもぼんやりすると、英語の議論はたちまちわからなくなる。そして、この論争も永久に理解不能なものとなった。帰り際、シンガポールの情報部員に内容を聞いても、彼は「ボアリング(退屈だよ)」と言い、教えてくれなかった。
 誰かが激しい議論を長々と続けているのにその内容が理解できないというのは、相当に想像力を刺激するものだ。私は妄想を奏でた。妄想のなかで、学生の怒りに共感し、そして自分と重ね合わせた。R教授よ、米帝国主義とシオニズムの手先よ、重信房子と日本赤軍をバカにすると絶対に許さない。そして、「バスク祖国と自由 」をなめてはいけない。さもないと、いまに正義の鉄槌が下ることになろう。IRAだけがクールな組織なわけではないぞ。

 現実のバスクの道路に戻ろう。
 ゴルフは快調に走り続けたものの、昼過ぎからさっそく雨の歓迎を受けた。BL631(市道)でベルネオを経由して、レケイティオという小さな港町に着くころには本格的な降りに変わっていた。
 この程度の小さな地方都市には中国人も住んでいないのか、東洋人は珍しいようだ。雨宿りもかねてカフェで食べ物のメニューを見ながら白ワインを飲んでいたら、隣の男2人組が「英語ができるか? この店で食べられるのはこれだけだ」と教えてくれた。
 そして「スペイン旅行に来たのか、バスク旅行に来たのか」と尋ねる。「バスクだ」と答えると、「それなら、こんな観光客相手の店じゃなくて、もっとうまいものを食え」と笑った。
 バスクは美食で有名な、世界でも指折りの地域なのだった。そして、バスク(スペイン側)は、独自の言語・文化を持ち、独立・分離をめざすという意味では同じであるクルドやチベット、コソボや北アイルランドとも違って、一人当たりのGDPがEU平均より25%も高いという、何よりも豊かな土地なのだった。
 店を出て、ホテルを探す道すがら、「ここはスペインでもフランスでもないぞ」という落書きに出会った。(続く)

三沢順(みさわ・じゅん)