第14回 バスク妄想行2 養 老 の 階 段

 レケイティオから時折迷いながら着いたフランス国境に近い20万都市、サン・セバスティアンは、享楽のための要素をすべて兼ね備えた街だった。
 眩暈が起きるような無限の陽光、ヨットの帆が交差しあう青い海、嬌声の絶えることのないビーチ。さらに芸術、音楽、美食……。快楽を味わうための条件を街が備え、孫の代から、その恩恵をたっぷりと受けて来たに違いない。だから、利子で生活できる人間のように悠然としていて、きのう今日の相場の上がり下がり、2年や3年の不況、好況の波、など一時期の趨勢にびくつくような小心さが感じられない。それが2日間の滞在の印象だった。
 もうひとつ、驚くべきことに「涼しい」のだ。
 市中心部に入り込み、ふとゴルフの温度計を見ると30度を超えていた。昨日は17度だったから、秋から真夏へ変わったようなものだ。車を降りてホテルを探すと、確かに日差しは強烈なのだが、あれっと思った。日陰に入ると急にひんやりとしたからだ。ホテルの部屋では冷房を動かすこともない。だからサン・セバスティアンは陽光、青い海、ビーチといったリゾートの必要条件を豪勢に身につけながら、「避暑地」でもあるのだった。沖縄と軽井沢が共存している。蒸し暑い日本では考えられない。

 下調べもなくふらりと訪れただけの私は、ガイドブックの「美食」のページばかりに気をとられ、到着するまでうかつにもこの街の「芸術」と「音楽」の面を失念していた。スペインはいまや食の流行発信地だそうで、とくにバスクには三ツ星レストランが三つもある。だが、私は大井町の立ち飲み居酒屋のように、道路にはみ出ながらワイワイガヤガヤと飲むバルのピンチョスのほうに興味があった。安上がりだし、落ち着ける。その話はあとで書こう。
 フランスでも、ポルトガルでも、イギリスでも、カナダでも、アメリカでも、これまでレンタカーで10日間程度の旅をする際に、ホテルの予約という行為をしたことはなかった。どこでも、行けば必ず「VACANT」「LIBRE」で空室があったからだ。だが、サン・セバスティアンでは、車を停めてどこのホテルで聞いても、「ノ(満員)」と断られる始末だった。そのうち次第に焦り始めた。こりゃあまず電話をかけてみないと、だめだな。
 結局、分厚いミシュランでさがした、オンダレータ海岸というビーチの前にあるガレージつきホテルに、幸運にも空室があった。1室100ユーロ以上は相当に高いが、高級リゾート地のこの混雑を考えれば仕方ない。スペインはとにかく全体的に物価が高い。しかも1ユーロ170円のユーロ高進行中に決行した旅なので、すべてが割高に思え、帰国後に日本の物価の安さを実感することになった。

 北スペインの旅の間中、どこへ言っても街中に警官があふれていた。「バスク祖国と自由」(ETA)は06年以来の政府との停戦協定を破って、今年になってまた小規模なテロを起こしているという。そのせいもあるのだろうか。「地球の歩き方」によれば、スペインではEU以外の外国人は、パスポートを携行することを義務付けられている。ホテルに泊まるたびにパスポートのコピーをとられる国は初めてだったので、聞いてみると、どんな外国人が泊まったか警察に聞かれることがあるのだという。
 交通警察官も多い。10分駐車違反をしても警官が飛んできて、反則切符をわたされそうだ。ヨーロッパの古い都市には「地下駐車場」があまりない。街中の住宅地でも住民の駐車場は路上が多い。そこで縦列駐車の技術が必要になるが、青山通りで1日10回くらい厳しい縦列駐車で腕を磨いているドライバーでないと、一瞬運良く空いたスペースに「確保」のハザードランプをつけて、手際よく入り込むのは至難の技だ。

 ガレージ付きのそのホテルGは、ビーチから海岸通りをはさんで2軒目にあった。幸運なことに、通り沿いの建物が取り壊され何もなかった。だからベッドに寝転んだまま、青い海が見えた。
 ベランダに立つと海が見える、のは驚かない。ソファーに座ったまま海が見えるというのも、そう珍しくない。だが、ベッドに横たわって体を起こさなくても海が見えるのは、やってみるとわかるが、好条件が重ならないと難しい。ベランダからの視界が完全に開け、海が彼方まで180度広がりきっていないと見えないからだ。
 気を良くしてさっそくビーチに出て、海の家へ入った。ポルトガルのヴィーニョ・ヴェルデ(若い発泡系ワイン)にあたるバスクの発泡ワイン「チャコリ」と、カラマリ・フリットを注文した。強い日差しで肌を焼き続けるヨーロッパ人には、皮膚がんという病気は存在しないのか、と思った。サマータイムの採用もあり、この地では22時近くまで外は明るい。ディナーは21時過ぎからが普通なのだそうだ。日本との時差は7時間である。Iモードでチェックすると、また今日もドラゴンズは負けている。Bクラスの危機さえ現実味をおびてきた。
 フロントの女性に「ミュージカ?」とか聞かれ、ようやく気づいた。明日から、サン・セバスティアンのジャズ音楽祭が開催されるのだった。だから、ホテルがどこも満杯なのか。そうか、サン・セバスティアンとは、あのサン・セバスティアンなのか。この街のジャズ・フェスティバルと映画祭は、その質と規模で世界的にも有名だ。不覚に思いながら、渡されたパンフレットを見ると、18時30分からの演奏は、キース・ジャレットだった。

 30年近く前、大学3年生の私に、ひげだらけのKは皮肉っぽく命じた。
「キース・ジャレットの『ケルン・コンサート』と、マル・ウォルドロンの『レフト・アローン』のリクエストが入ったら、いやそうな顔をして、かけなくていい。いかにも、『この素人め』って、つまらなそうな顔をしなきゃだめだよ」
 今でも開いているジャズ喫茶A(実態はジャズバー)の、当時の雇われマスターがKだった。オーナーは美人ママのMで、彼女はこの都市のジャス関係者の間では、そこそこ名前が知られた人だった。カウント・ベイシーの講演の際には、壇上へ登って花束を渡したりした。Mのもとで、近くの大学を中退した気むずかしいKが働いていた。Kの注意にうなずき、毎週日曜日の夕方から深夜までの5時間、私はこの店でアルバイトを始めたのだ。客はあまり来ないので、留守番のようなものだった。実家からAまでは5分だった。
 さらに6年、さかのぼる。中学・高校時代、私はこの店のまん前のバス停から、市営バスで通学していた。1階には「養老乃滝」があり、その横に2階の店への入り口となる暗い階段があった。買い物や散歩でいつも通る道で、高校1年の4月ごろ初めてシャッターの「JAZZ」の文字に気づき、店の存在を知った。
 通学時、朝の7時すぎなのに、まだシャッターが上がったまま店が営業中だったり、午後7時なのに店が開いていなかったりした。店の予測不能な時間のリズムは、一筋縄ではいかない夜の世界の妖しさを感じさせた。「ラディゲならもうコクトーに紹介されている年齢だ」と15歳を定義し、何かに急き立てられるように「開幕」の必要を感じていた私は、バス停へ向かうたび、階段のうえの世界で起きているであろう、あらゆるストーリーを妄想した。
 眠たい朝は五木寛之ふうの性と冒険の物語だった。決意に満ちた朝は、妄想は長田弘の色彩とリズムを帯びる。感傷が断定につながり、強く脈を打つのだった。啓示を受けたような例外的な朝は、階段の向こう側に行けば、革命と堕落の、チェザーレ・パヴェーゼふうの叙情的な物語が動いているにちがいない、と感じ、灰色の曇り空を眺めて、階段を上る日へ向け、息を整えた。

 1975年12月。中日ドラゴンズが巨人のV10を阻止した歴史的な年、の翌年だ。16歳になった直後の冬休み、私は勇気と動機をすべてかき集めて、この店に足を踏み入れた。階段をあがって扉を押し開くと、黒い壁の20畳程度の店内の奥に、レコードボックスとカウンターがあった。ピアノもあった。この密閉空間には外の光は届かず、ジャズの大音響ばかりで通りの車の音もまったく聞こえなかった。緊張してコーヒーを注文した。そこで応対したのが当時29歳で、美しく艶やかなMだった。
 Aは朝5時まで営業しており、夜の11時を過ぎると最低料金が550円。高校生には高かったが、家庭内泥棒に精を出し、以来、この店にひんぱんに出入りし始めた。まず「常連」と認識される必要があると思った。1年後には、自分が朝6時に酔って階段を下ると、バス停に並ぶパン屋の息子Kが目を丸くしている、という待望の堕落の日が訪れた。
 階段は誘導路で、その向こうには確かに未知なる世界があった。幕が開いたのだ。酒や煙草やジャズの暗闇があり、さらにアングラ演劇や新左翼や実験映画が隣接していた。扉を開き、「文化不良」の戦線へ、自ら志願兵として踏み込んでいったのだ。

 翌日、中心街からバスに45分乗り、オンタリビアという国境の街へ向かった。2ユーロ弱、バスは安い。国境という言葉を聞くと、いつも「国境の南」を連想する。「国境の南」を思うと、いつも幸福なメキシコの匂いをかぎたくなる。サム・ペキンパー映画の中ではいつも国境の南側のメキシコは「楽園」だ。股ぐらのしらみを掻きながら、悪党たちは国境を逃げこえて、メキシコで束の間の安息をえる。
 ペキンパーへのオマージュと言えなくもないトミー・リー・ジョーンズ監督の「メルキアデス・エストラーダの3度の埋葬」の中の、アメリカ側の国境の街には限りなく単調な時間が流れていた。主役のカウボーイと元国境警備隊員は死んだメキシコ人を馬に乗せ、彼の故郷の村「ヒメネス」へ向かう。ヒメネスという語感が美しいと思った。すべての哀しみを癒しきるような名前だ。ブローティガンの「愛のゆくえ」で描かれたサンディエゴのむこう側の街・ティファナも、その語感が好きだ。ティファナはソダーバーグ監督の「トラフィック」の中では麻薬コネクションの拠点として描かれた大都市だが、メキシコのいくつかの地名は、なにか切なさをかきたてるような音感がする。
 10年前、テキサスのエル・パソから何気なくリオ・グランデ川をわたってメキシコに入った。猥雑さと生活感と眩しい色彩に満ちたメキシコへはフリーパスで行けるのに、帰りは長い再入国の列。入国カードのI94を車の中で一時的に紛失してひどい目に会った。「疑わしきは犯罪者」。車の隅々まで徹底的に調べられた。「行きはよいよい、帰りはこわい」とはこのことだった。9・11以後の厳重さはあんなものではないはずだ。
 だが、2008年の南ヨーロッパには当然、国境は存在しない。だから、国境の南も北もない。スペインとフランスの間の川を結ぶのは、30分に1本出るのどかな渡し船で、船賃は1・5ユーロ。7分ほど揺られると、何の国境越えの感慨もなく、フランス側のエンダイヤという街に着いた。
 たった7分なのに、フランス側へ渡ると、何となくアンニュイな雰囲気が漂っているように感じた。 
 この川を挟んで、スペイン側は荒々しく、男性的で、生命力にあふれている。活気があり、議論が聞こえる。だが、フランス側は優しく、女性的で、静かな疲労感が漂う。飽きていて、沈黙まで退屈している。その変化に合わせるように、「オラ!」という元気のいいあいさつが、「ボンジュール、ムッシュ」のささやきに変わる。
 もっともこういう感想こそ、一時通過の外国人旅行者のありきたりの先入観なのかもしれない。(続く)

三沢順(みさわ・じゅん)