第15回 バスク妄想行3 早 朝 の 葬 送

 北スペインに来て以来、毎朝8時からのテレビニュースを熱心に見た。目的は天気予報だ。17度から30度まで気温がずいぶん上下するので、朝の天気予報でバスク地方の温度を確認し、その日、短パンTシャツで出かけていいのか、それとも長袖長ズボンで行くべきかをまず決める。また、バスクは雨が多いので、一日の計画を固める前に、降雨の見通しを知っておく必要があった。雨の中、車を走らせるのは神経を使うし、疲れる。
 スペイン滞在中、何度も見たのは、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争時のセルビア人指導者で、イスラム教徒虐殺の罪を戦争犯罪法廷で問われていたカラジッチが、ベオグラードのアパートでひげもじゃの変装姿で拘束されたという話題。あと、詳細は理解できなかったのだが、スペイン国内の爆弾事件のあと、現場付近にビデオテ ープに姿が映っていたという「バスク祖国と自由」の活動家が逮捕された、というニュースも繰り返し流されていた。
 フットボールはシーズンオフだったので、スポーツニュースはちょうど開催中だった自転車の「ツール・ド・フランス」に集中していた。フランス国内を中心に3500キロを走るオフ・ロード・レースだ。スペイン人が2年連続優勝しており、今年も結局、カルロス・サストレというスペイン人選手が買った。最後のコースはパリの凱旋門に向かうのだが、すでに総合優勝は決まっているらしく、シャンパンを飲みながら走っている選手までいた。
 スペインの道路を走っていると、自転車を何百台も追い抜いていく。自転車はみな堂々と道路を走っていて、むしろ自動車のほうが遠慮がちだ。日本のドライバーのようにいかにも迷惑そうな感じで抜いたりはせず、自転車の動きを最大限尊重しながら、無理のない地点でウインカーをつけ、反対車線に膨らみ、「お先に」という感じで礼儀正しく抜き去る。
 道路の形状から反対車線に膨らめず抜けそうもないときは、じっと自転車の後ろで我慢している。
 オンタリビアからサン・セバスティアンへ帰るバスが時折、どうしたことかと思うほどノロノロ運転に減速するのは、前方を走る自転車の後ろで、抜き去るタイミングを計っているからだった。
 スペイン側のオンタリビアで飲んだカーニャ(生ビール)と、チャコリ(発泡酒ワイン)、さらに渡し舟でフランス側にわたったエンダイヤで、ムール貝をつまみに飲んだ白ワインと昼下がりの深酒がかなり効いていた。18時半からのキース・ジャレットはビーチからなら無料で聞けるという。それに合わせて帰ろうと思ったが 、バスに揺られているうちに面倒くさくなった。それよりホテルへ帰り、夜にバルへ出撃するための遅めのシエスタが必要だった。
 ジャズ喫茶AのマスターKが、リクエストを無視しろと忠告した2枚のLPのことは前回書いた。私が何度も聞いたのは、「ケルン・コンサート」ではなくて、「レフト・アローン」のほうだった。

 1978年1月1日の朝5時すぎ。
 大学受験を控えた新しい年の明け方、私の実家の前の路上でサックスを取り出し、マル・ウォルドロンの「レフト・アローン」のジャッキー・マクリーン部分を演奏したのが、友人のSだった。Sは、もう一人の友人Fと二人でジャズ喫茶Aの大晦日のコンサートに行ったあと、私の家の前まで来て、「やめたほうがいいよ」と注意するFに耳もかさず、真剣な顔で演奏を始めたのだという。
 熟睡していた私は目を覚まさなかった。隣の部屋の姉は不意の「騒音」に起きた。近所の人が雨戸を開け、「なにが起きたの?」と驚いたらしい。
 Sは、私の「文化不良」仲間だった。生まれてきたのが15年遅かったような男で、コルトレーンやエリック・ドルフィー、小川紳介に高見順、ロシア文学、そして埴谷雄高が大好きな男だった。「死霊」を「しりょう」と私が言うと、渋い顔をして「しれい、だ」と注意し、「自同律の不快」について話し始めた。これは大学に入った後だったからかもしれないが、渋谷のパルコ近くで埴谷の講演を聴き、帰りに追いかけて呼び止め、握手してもらったと言っていた。私とSは中学3年の終わりごろから仲良くなった。やや神経質で、思いつめるタイプだった。
 その大晦日の1年前、高校2年生の11月、SやFも含めた私たちの映画研究会メンバーが、喫煙・飲酒などで一網打尽になる事件があった。
 いまはある大学の商学部教授に収まったWという男が朝、遅刻しそうになって靴を脱がぬまま廊下を走っていたのを体育の教師が現認した。拘束して、持ち物を調べると、カバンからショート・ホープとボトルキープのカードが出てきたのだった。
 Wは映画研究会員だったので、そこに悪の巣窟の疑いがかかり、メンバーが午前中、次々と会議室に呼ばれた、みな簡単に自白した。調べたのは東京教育大で昔、左翼運動を戦闘的に牽引していたという生活指導の教師だった。当日、学校を休んでいた2人の部員が私とSだった。
 私は単にそのころピークを迎えていた夜遊びで起きられず、家で寝ていた。Sは、反独レジスタンスを描いたJ・P・メルヴィル監督の「影の軍隊」を、飯田橋佳作座へ見に行っていた。「リスボン特急」の「枯淡」を本当に理解するには、「影の軍隊」の「未熟」を認識しないとわからない、と私が強く薦めたからだ。映画についてSは私の水先案内を歓迎していたので、私はいつも知ったかぶりをした。
 この「事件」では、部長だった私の責任はいちばん重いとみなされ、無期停学処分になった。一時は不純異性交遊の嫌疑もかけられたので、ひとりだけ退学になる可能性もあったらしいと卒業後、担任教師に聞いた。映画研究会は解散させられ、1週間後に控えた文化祭での自主映画上映は禁じられた。
 私の製作した映画は、六本木の夜景を30分、車の中から手持ちカメラで撮るというだけの、三流の自意識が酔ってさらにたち悪く感傷的になったような、いま思い出しても抗弁できない代物だったが、文化祭での映画研究会の宣伝用に作ったポスターだけには自信があった。いまでも傑作だと思う。
【いま、サン・フランシスコで冷たい秋風に吹かれて、二人はかれらの将来には二つの道があるきりだと考えていた。蚤のサーカスを始めるか、それとも精神病院へ行くか 映画研究会】
 ブローティガンの「アメリカの鱒釣り」の中にある文章だ。受験を控えた当時の「文化不良」としての切迫感からなのか、「精神病院」へ行けないので、「蚤のサーカス」を始めるしかないという意味で受け取った。生は「蚤のサーカス」側にある。敗北は不可避なのだ、と。ヴィスコンティは、「私の映画がいつも敗北について語っているのは、それが最も美しい人間的な栄光だからだ」と言っているではないか。
 Sにこんな妄想的解釈を力説すると、「センスがあるコピーだ」と賞賛してくれた。私が無期停学になっている間、復学を許されたSは、親とともに「反省会」に呼ばれた。その席で、担任教師から「4組の●●(私の名前)、あんなクズと付き合っちゃいけません」と言われてふきだしそうになった、と依然、停学中だった私に電話で笑った。

 Sが高校3年生の元旦に「レフト・アローン」を私の家の前で演奏したのには、理由があった。
 当時、私の隣家の人間が、首輪もせずほとんど放し飼い状態にしていたシロという雑種のメス犬がいた。ろくに食べ物もやらないため、うちの食事の残りを食べさせていた。エビフライのエビの尻尾などを喜んで食べた。私は毎日遊んでいたし、よく私の家に出入りしていたSも可愛がっていた。
 そのシロが12月に、病死したのだ。高校3年生の12月はもう講習しか授業はない。Sと会う機会も減っていたので、私は電話で悲報を伝えた。大晦日にジャズ喫茶のAに久しぶりに来たSは、その帰り、私の家に寄り、ビリー・ホリディを送るマル・ウオルドロンにならい、「レフト・アローン」を奏でたというわけだった。早朝の葬送だった。
 シロの写真はいまも手元にある。本当はきれいな白い毛がいつも汚れていた。その存在は、貧しく、育ちはよくないけれど、一生懸命に働き、笑顔が可愛いけど胸は薄く、人柄はよく、選挙では社会党に投票する、という昔いたタイプの女性を思わせる。そういえばいつからか、どこも「ペット」だらけになり、毛の汚れた犬をあまり見かけなくなったような気がする。
 学校からの帰り、バス停で降りて、県道をわたり、踏み切りをわたり、家の前の道に入って口笛を吹く。「今日もちゃんといるかな」と思うまもなく、必ずシロは迎えに飛んで来る。そして家まで私の後ろをついてくるのだが、そのとき背後で聞こえる、アスファルトに小さく響く爪の音は、私の10代を通して、もっとも心が休まる音楽だった。
 家に誰もいないときは茶の間に上げて、歌番組を見せた。Sは「犬でもメスなら男の演歌に反応するから聞かせてみろ」と言ったが、八代亜紀よりも北島三郎の声に関心があるようには見えなかった。
 シロの葬送のほかに、「レフト・アローン」にはもうひとつの意味もあったという。高校3年生の秋、ようやく浪人の危機に焦っていた私はともあれ「文化不良」活動を中断し、受験勉強にそれなりに打ち込んでいたのだ。反町ロマン座や自由が丘武蔵野推理劇場、蒲田の直立猿人や自由が丘のアルフィー、渋谷のプルチネラ、天井桟敷地下劇場、そういった場所へ行く生活は控えていた。だが、Sはといえば、私より禁欲が苦手で、制御が嫌いな人間だった。
 Sは私を、シロの死にさえ心を痛めることなく受験勉強にまい進する「転向者」と思いこみ、その厳しい指弾の意味もこめ、大音響の「レフト・アローン」で何よりも「心」を目覚めさせようとしたのだと、何年か後に本人から聞いたことがあった。

 実家が千葉に引っ越したこともあって、大学生になったSは、私の家の近くにアパートを借りた。オートバイを買って、ブロック紙の新聞社で「少年さん」という庶務のアルバイトを始めた。
 4畳半のアパートの机の上には、「われ無用者の思考と、決然と発語す」という張り紙があった。隠者然とした風貌も板につき、感性も次第にとぎすまされているように見えた。新聞社のバイトで一月20万円近く稼いでおり、当面の生活に困ることはないようだったが、3年生になって大学の学費も払うのをやめ、中退してしまった。そのころになると、アパートに「話は決まった、味噌汁はない!」という張り紙がもう一枚、加わった。
 Sの事故死の知らせがあったのは大学4年、1981年の8月10日過ぎで、現在横浜ベイスターズにいる工藤公康が名古屋電気のエースとして甲子園で登板している試合の最中だった。あわてて川崎警察署に向かうと、友人たちが顔をそろえていた。急に国道に出てきた26歳の非番の警察官の白いスカイラインに衝突し、ほぼ即死状態だったという。
 彼は一人っ子だった。父親は高卒で自動車会社の販売店に長く勤める実直な人で、ごく一般的な家族と同様に、「情感担当」は母親だった。母親は、息子を理解していなかったことよりも、理解のための材料となる「情報」も持っていなかったことに気づき、死後「息子のことを何でもいいから知りたい」と痛切に思ったようだ。 私はその日から、Sのエピソードを語り続けるという役割を負うことになった。
 大学を辞めたはずなのに、神奈川新聞の死亡事故の記事は「●●大学4年」という肩書きだった。あとで、両親がSに内緒で学費を払い続けたからだった、と知った。
 何日かしてから、Sの母親にこう聞かれた。
 「M(名前のほう)は、女の人を知って死んだのでしょうかね?」。
 私たちは「文化不良」の同志だった。パンツの中身まで見せ合ったサッカー部の不良仲間でも、そのへんの女を後部座席に乗せて一緒に走った暴走族のダチでもなかった。ホンネよりレトリックを優先する国で仲良くしてきた友人だった。だから、その問いへの○かXかの100%正しい回答は正直、知らなかったというのが事実だ。
 だが慎重に、嘘をつかないように私がその問いに向き合おうとして、さまざまな事情を吟味してみたなら、母親の望まない答えになると思った。私は結局、母親を喜ばせた。「真実」でなくても、これが「正解」だろうという返答で。
 Sの墓は、千葉の八柱霊園にある。何年か前、赤いプジョーを買って2、3日した休日、なんとなくNAVIに八柱霊園と打ち込み、試乗がてら行ってみた。場所は松戸なのになぜか東京都立の霊園で、南側に大きな「マブチモーターズ」という大きな看板があり、昔のように、その下から2番目の文字「—」を目指していくと、 すぐにたどりついた。
 Sが死ぬ間際に書いていた走り書き、メモ、ノート類は、新聞社の名前が入った茶封筒の中にある。入社したり、転勤したり、留学したり、マンションを買ったり売ったり、結婚したり、離婚したりして、住む場所が変わるたびに持ち歩いている。
 Sは21歳で死んでしまったので、少なくとも「蚤のサーカス」で頭を悩ます必要は、それが幸か不幸かはわからないけれど、なかったのだ。

 いくらバスクは雨が多いとは言っても、70年代の湿った記憶からはそろそろ戻ってこないといけないだろう。18時にはホテルに戻った私は、キース・ジャレットはあきらめ、ベッドにもぐりこんだ。昼のアルコールのおかげで深いシエスタだった。目が覚めると、すでに21時半をすぎていた。もちろんまだ外は明るい 。意識は明瞭で、覚醒していた。
 夜の街への出撃態勢は整ったと、脳が信号を送ってきた。(続く)

三沢順(みさわ・じゅん)