第16回 バスク妄想行4 最 初 の 顧 客

 バスク語は、謎に包まれた言葉だという。
 フランス語やスペイン語のロマンス語系とは違い、英語、ドイツ語のゲルマン語系言語とも異なる。
 たとえば、レストランを、英語とフランス語は「RESTAURANT」、スペイン語は「RESTAURANTE」と表記し、これならその国の言葉に通じていない旅人でも類推することができる。
 だが、バスク語ではレストランは「JATETXEA」だ。なぜかまったく違う表記で、これでは推理を働かせる余地はない。比較言語的には日本語と同じ、「孤立言語」になる。しかも、主語が文章のいちばん最後に来るというのだから不思議だ。
 以上は、月刊誌「PEN」(5月1日号)のバスク特集の受け売りである。「リスボンからバスで行く片田舎」とか、「シチリアの小さな宿」とか、そんな特集ばかりしている「PEN」や「FIGARO」はふだんバカにしていたが、この特集を読んで驚いた。中身が充実しているのだ。
 抽象彫刻のチジータの息子や、アメリカ在住のバスク語作家アチャーガなどバスク文化人の多くのインタビュー、それにバスク独立運動の歴史的経緯、ビルバオのグッゲンハイム美術館以外の面白い建築物、バスクの伝統楽器「トリキティシャ」を演奏する音楽家の横顔などが掲載されており、バスクについて旅情報以上のものを知りたい人間には欠かせない情報源となる。内容も面白くて仕方なかった。もちろん、バルやホテルの情報も詳しい。
 さて「サン・セバスティアン」は日本語の地図には「サン・セバスティアン」としか表記されていない。欧州の地図には「DONOSTIA—S・SEBASTIAN」というふうに、バスク語での地名「DONOSTIA」が先につく。街のどこを見てもバスク語が目立つ。だが、残念ながら バスク語らしき言葉を話している人には今回は出会うことはなかった。
 サン・セバスティアンの旧市街地へバスで出陣。最初に食べたピンチョスがこの連載の3回目の上から2番目の写真だった。エビとロースハムと、鳥の串焼き。そう、これはまるで、五反田とか恵比寿の立ち飲み居酒屋で食べられる串焼きそのものなのだった。軽くサングリアで食べ干して、12ユーロで2軒目へ。
 「12ユーロ」と書くと13、1400円くらいという感覚なのだが、このユーロ高で実際は2000円近い。大井町の立ち飲み酒場では2000円食べたら、もうおなかいっぱいなのだ。帰国後、8月からユーロは下がってきていまは1ユーロ=152円程度にまでなった。だが、8月末に来たクレジットカードの請求書では1 ユーロ=172円で計算されていた。このレートだと、12ユーロは2064円になってしまう。3年前、南フランスに来たときは、130円くらいだったから、旅行全体としては7,8万円は損しているような気がする。これぞ「為替損」だという感覚を何度も味わう旅ということになった。しかも、燃料高のサーチャージャーがつき航空運賃がいままでより、3、4万円高い。
 バルでの注文の仕方は、「これと、これと、これ」というふうに指をさしてもらい、食べ終わった後に自己申告でお金を払うのが正統的なやり方だという。だが、スペイン語の話せない東洋人旅行者ということで、先にレジでお金を払う方式で食べた。
 2軒目はもうすこし、料理に工夫を凝らしたグルメっぽい店へ、かなり混雑していた。ここではイカ串、キノコ串にヴィーノで15ユーロ。ここでもうおなかがいっぱいになった。それにこの日は、昼間にオンタリビアで、賞を取ったという創作タパスの店でけっこうピンチョスを食べている(第1回目の写真がそう)。そこで一流のピンチョスは味わってしまっていたのだった。
 それにしてもこのバスクの、お気に入りのバールをハシゴしていく食べ歩いていく文化は、日本の焼き鳥やおでんやで軽くつまんで、「じゃあもう一軒行こうか」という「ハシゴ文化」そっくりではないか。ほとんどカウンターでの立ち食いで、気さくなのも実にいい。観光客というより地元の一人客が多く、常連たちが楽しそうに会話している。
 たぶん、こんな会話をしているのに違いない。
「確かに今シーズンは右の強打者はほしかったけど、FAの和田って併殺も多いし、ドラゴンズの野球に向いていないんじゃないかな」
「そうはいっても、守備がいい平田、藤井もまだ育ちきれていないし、英智も太もも肉離れから復帰途上、堂上や中村一生では役不足だろ」
「もちろんそうだけど、和田の守備範囲と肩はひどいよ。あれは三遊間ヒットで二塁から全部ホームに戻ってきてしまう」
 こんなような会話のリーガ・エスパニューラ版、つまりフットボール版だ。時間は前後するが、最後に寄ったビルバオでのバルでそう思った。
 ビルバオには「アスレチック・ビルバオ」というフットボールクラブのチームがある。スペインの「リーガ・エスパニューラ」の名門クラブで、レアル・マドリーやバルセロナには及ばないが、2部落ちしたことが一度もない古豪だ。調べたら、昨年シーズンは13勝11分14敗で、11位だった。
 赤い縦じまが緑のピッチに映えるユニフォーム。このクラブチームはすごい。何がすごいといって、EUの完成でサッカー選手の移動性・流動性が高まったいまなお、「バスク人以外はお断り」と全員バスク出身の選手で固めていることだ。「バスク純血主義」。たぶん世界でも、そんなチームはないと思う。時代の趨勢に反するともいえるだろうし、独立意識の強いバスクだからこそありえるともいえる。だから、補強といっても限りがあり、バスクの下部チームで育てた若い選手を鍛えるしかないのだ。
 ビルバオ旧市街で入ったバルには、そのビルバオの選手たちの集合写真が店内に、ところ狭しとべたべた張ってある。オヤジたちが派手な手振り身振りでかなり熱く議論している。テレビ画面には昔の試合の映像が流れていた。今回の旅は8月だったので、9月から始まる新しいシーズンについて、新戦力の評価や主力のコンディ ション、他クラブの動向などをきっと熱く語っているに違いなかった。
 記憶の中に一人、バスクのサッカー選手がいた。
 身長は170センチそこそこ。黒髪で精悍な顔つき。左サイドを豆タンクのような馬力で駆け上がってくる、印象的なサイドバック。この旅行中、どうしてもこの選手の名前が思い出せないのだった。そして、帰国して調べてようやく「だから思い出せなかったのか」とわかった。ビセンテ・リザラスだ。
 リザラスをなかなか思い出せなかったのは、スペイン代表をイメージしていたからだった。リザラスは、バスクのフランス大西洋岸のリゾート地サン・ジャン・ド・リュズの出身で、フランス人なのだった。記憶にあるのは、フランスが決勝でブラジルを破って優勝した1998年のフランス・ワールドカップだ。ジダン、デサイ ー、アンリ、トレセゲといった旧植民地の「外国」出身者が多く、試合前にラ・マルセイエーズもろくに歌えない、と右派のルペンから非難されたこともあった。そのとき「準外国出身」などという人間もいたのがバスク出身のリザラスだった。
 リザラスは調べたら170センチどころか、169センチしかなかった。ドイツのバイエルン・ミュンヘンでのパフォーマンスが良かったような印象が強かったが、やはりアスレチック・ビルバオにも所属していた。バスク人だからビルバオに入れたとはいえ、国籍はフランスだったので、「ビルバオ史上初の外国人選手」になったのだという。
 わたしはリザラスを最初にテレビで見て、「そういえばあいつもこんな顔をしていたな」と、昔出会ったフランス人を思い出したからよけいに記憶に残ったのだ。いま写真を見ると、リザラスはバスク人と言われれば「そうかな」と思うような顔をしているといえるし、ただ、スペイン人といえばスペイン人に、イタリア人といえばイタリア人に見える、そんなラテンの顔だ。背が低く、胸板が厚い。
 それは、私が人生で最初に出会ったフランス人の顔だった。職業は、リゾートホテルのマネージャー。名前は忘れてしまった。1988年12月31日午後6時過ぎ、カリブ海のセント・マーティン島でのことだった。これまで過ごした50回近い大晦日のなかでも、この1988年の一日の出来事は、いまとなってはばかばかしい笑い話として突出している。だが、ひどい話ではあった。
 これは、バスク妄想行の第1回目の「前日譚」にあたる。DCの大学院に入ったのは1989年9月だから、その前の88年の話だ。企業派遣の留学生としてワシントンへは行ったものの、予定していた大学院には英語力不足で入れなかった。そんないい加減な企業派遣留学があるのかと呆れる向きもあるだろうが、現にあった。
「まあ、英語学校でも行っていれば」の上司のアドバイスで、大学付属の英語学校に通ったものの、ばからしくなってこれも通うのをやめ、毎日ぶらぶらとしたひまな時間を過ごしていた。
 洗濯屋に行けば韓国系アメリカ人に何度も英語を聞きかえされ、郵便局で切手を買おうとすると、黒人のお姉さんに呆れた顔でため息を漏らされ、「こっちなの? それともこっち?」とボディランゲージで問い直された。マクドナルドで、愛想がいい若者が言ったほんの一言の冗談を何度も聞き返して「フォゲット・イット」と笑われる。こんなことで毎日小さく傷つき、気分が沈む。そんな日々を過ごすうち、そもそも外交的ではなく、英語力向上へのモチベーションもない人間は、どんどん引きこもっていく。家にいる限りは、「日本」がやさしく取り囲んでくれているから傷つくこともない。
 ジョージタウンの裏側にあたるグローバーパークという公園わきのアパートに、私は住んでいた。リスがよく道路を横切るような、緑あふれる美しい住宅街だ。英語学校を辞めてすることもなく、自由自在な生活が待っていた。
 朝起きて、気が向くと、来年1年コースの大学院に入るためにTOEFLの勉強はした。気が向かないと、日本食材店で買った品物で料理をつくり、昼からバーボンを飲んで酔っ払い、日本の友達に電話をかけ、村上春樹の新作を送ってくれるよう頼んだ。英語の勉強と称して、レンタルビデオ店のブロックバスターズで何本もビデオを借りた。リチャード・ドレイファス主演の刑事映画「STAKEOUT(張り込み)」、トム・クルーズとエリザベス・シューの「COCKTAIL(カクテル)」などは巻き戻しながら何度も見て、セリフを聞き取ろうとした今でも愛着があるB級映画だ。
 深夜にはラジオの人生相談を聞いた。ラジオは英語の発音が聞き取りやすい。そうか、いまこの女性はボーイフレンドが昔の彼より「小さいと思ってしまうのです」と、DJのカウンセラーに相談しているのだ、と聞き取れたときは、アメリカも悪くないじゃないか、と一時的には晴れ晴れとするのだった。
 冬休みになって、知り合いはヨーロッパへ旅行したり、西海岸やフロリダにドライブに出かけたりと一人また一人と、消えて行った。バケーションはふだんまじめに学業に励む人間だけの権利だった。
 キリギリスのわたしは一人、寒さが厳しくなってきたワシントンDCに取り残されていた。そもそも時間を無為に過ごすのが苦手ではないし、暇なのは全然苦にもならない。このままでもかまわない。ただ、「どうせなら攻めろ」という声もどこからか聞こえてきた。アクションを起こせ、と。そんな思いでいるとき、テレビで旅行会社のCMがよく流れ、青い海が何度も何度も映るのはうらやましかった。
 12月29日のお昼すぎだ。何かに啓示を受けたように、ソファーから立ち上がり、コートを着た。ウィスコンシンアベニューまで出て、ベセスダ行きのバスに乗った。15分で、スーパーのシアーズの近くにある旅行エージェンシーの前に立った。 
「とくに場所は決めていないのだけれど、青い海がきれいでのんびりできる南の島へ行きたい」
 アメリカ人は、金を持つ客の英語力は笑顔で不問にふする。年末間際で今年の商談はもうそうはないだろうと思っていたのか、担当者はニコニコと笑いながらのんびりとパンフレットで、カリブ海の島を紹介した。「ここなんてどうですか。フランス領とオランダ領に分かれたセント・マーティン島です。ジェットスキーやスカイダイビングもできますし、マリンスポーツは楽しいですよ」。
 当時出始めたコンピュータの大型画面で次々にホテルを見せながら、ここなんかいいのでは?と言っていた彼が突如、驚いた表情に変わったのは、「それで、いつごろ行くんですか?」との質問に、私が「明日でもあさってでも、早ければ早いだけ」と答えたときだった。当時、いくらジャパンマネーがアメリカを席巻したにせよ 、まさか、普通のアメリカ人が2年がかりで少しづつ積み立ててようやく実現できるカリブ海のバカンスを、この日本人が「アズ・スーン・アズ・ポシブル」と言い放つとは思っていなかったのだ。
 彼は驚き、そして大喜びし、あわてた。このパニックが後に「喜劇」をもたらすことになった。
 だが、とにかく、担当者はおおあわてで、旅行を手配し始め、12月31日の午前中ボルティモアから出るセント・マーティン行きの旅行チャーター便の席をおさえた。帰国日は1月6日。たしか飛行機で7、8時間程度、南へ下っていくだけで、時差はそれほどなかったような記憶がある。言うなれば、成田からバリに行くようなものである。
 彼はホテルも「いちばん新しい北のエリアにあるゴージャスなリゾートホテルにしましょう。そんなに高くないのですよ、このパックだと」と、予約してくれた。こちらは海で泳げ、プールもあればどこでもよかったのだ。たぶん、6泊7日で10万円程度ではなかっただろうか。アメリカ人は徹頭徹尾ケチなので、安いパック旅行に事欠かないのだ。
 海水パンツ、日本から届いた村上春樹の新作「ダンスダンスダンス」、ジェイ・マキナニーの新作ペーパーバック、英語の辞書、ウオークマン、当時よく聞いていたピアソラやコルトレーン、日記用のノートなどもろもろを詰め込み、大晦日の朝、当時乗っていた3000ccのビュイック(馬で言うなら完全にステイヤータイプの長距離向け自動車)をボルティモア空港へ走らせた。
 少しづつカネをため続けてようやくご褒美の旅行を手に入れたといった感じの、やかましい農協団体旅行の中に一人入った謎の東洋人。きっと私はそんな感じだったのだろう。ただひたすら本を読み、機内の時間を過ごした。
 セント・マーティン島は北半分はフランス領、南半分はオランダ領という小さな島だ。フランス語読みだと、サン・マルタン島という。
 空港へ到着すると、現地の旅行会社のエージェントが「島へようこそ。いい年をお迎えください」と迎えてくれた。だが書類を渡すと、不思議な顔をした。なぜそんな顔をするのかわからなかった。そして、空港の事務所に戻り、なにやら電話をしてまた戻ってきた。「手違いかもしれませんが、ご心配なく。この車のドライバーが連れて行ってくれます」。 
 現地人の英語だから聞き取りにくい。手違いの意味がわからず、とりあえず送迎車に乗ると、車は北へ向かって走り出した。そのときの私の気持ちを表せば一言、「思えば遠くへ来たもんだ」であった。
 それはそうだろう。1年目の大晦日のいまごろは、正月を実家の横浜で過ごすため、関越自動車道を練馬インターへ向け、プレリュードを走らせていたのだから。そのときは外国にも行ったことがないし、行きたいという欲望などない完全ドメスティックな28歳だったのだ。1年後、カリブの島でガタゴト揺れる送迎車の後部座席に座っているとは、これこそ正直思わなかったのだ。
 立派なリゾートホテルの外観が現れるたびに「ようやく着いたか」と思うと、車は通り過ぎていく。そんなことが何度か続き、次第に半島のかなり岬の部分まで近づいているのがわかった。そして、ようやく工事現場の横で止まった。
 「ここか」と聞くと、ドライバーは肩をすくめる。待ってもらってエントランスを入っていくと、建設中のホテルの工事現場だった。「メイ・アイ・ヘルプ・ユー、サー」と生まれて始めて聞く訛り、それはすぐにフランス語訛りとわかったが、そんな英語で男が近づいてきた。私が、宿泊予約確認書を見せると、彼はじっとそれを見つめ、驚いたように名刺を出してホテルのマネージャーと自己紹介し、笑いながらこう言ったのだ。
 「ウエルカム・トゥー・マイ・ホテル。ユー・アー・ザ・ファースト・カスタマー。バット・イッツ・トゥー・アーリー。ホテル・イズ・スティル・アンダー・コンストラクション(まだ建設中です)」
 ここがホテルの建設現場であることはわかりながら、私の泊まるはずのホテルが建設中だという事実が認識できなかった。怒るより前に呆れ、DCの旅行会社の担当者の驚いた顔を思い出した。ファッキング・アメリカ!と罵るよりも前に、まず情けなくなり、そして、弱気にも、無性に紅白歌合戦が簡単に見られる世界へ戻りたくなった。
 そのフランス人マネージャーはさすがに同情したのかテキパキと現地旅行会社に電話し、フランス語でペラペラを指示を始めた。手際よかったのだろう。30分ほどすると反対側のビーチのホテルに泊まれることになったのだ。わたしはその間、彼の体臭と香水が入り混じった匂いをぼんやりとかいでいた。そして彼が意外と背が低いことにようやく気づいていた。別の車が迎えに来ることになった。車を待つ間、彼は日本人の美術関係の友達がフランスにいると話し、藤田嗣治の話をしきりにしていた。
 結局、わたしは中級だが雰囲気のいいホテルに招かれ、そこで年を越した。1月2日にワシントンから国際電話が入り、旅行会社が「最高級のホテルにお移りください」と懇願してきた。明らかに旅行会社のミスなので、「スーされる(訴えられる)」ことを避けるため、できる限りのサービスをするということらしかった。私が年明けに旅行会社を訪ね、苦情を申し立てたら、彼はクビになっていたかもしれないと思う。だが、そのホテルにはこぎれいで空いているプールと一人で食べても違和感のないレストランがあり、テキサスからバイトに来ているという受付のアメリカ人の女の子も可愛くて、何よりも親切だったので、わたしは「ここでOK」と答えた。
 面白い島だった。フランスの匂いがするけれど、資本はアメリカだった。ビーチに出ると、アメリカ人の有閑マダムを狙うフランス人の10代の少年たちが体にオイルを塗りたくって、真っ黒な日焼けを競っていた。風変わりな旅行者であることを百も認識している私は、静かなプールサイドに寝っころがり、「ダンスダンスダンス」を読んだ。たまにウオークマンの音楽に浸り、ビールとピナ・コラーダを代わる代わる注文して、のんびりと過ごした。
 スカイダイビングやジェットスキーもやってみた。
 一人で過ごす南の島は寂しいながらも快適だった。何よりも、引きこもりから脱出した、英語で交渉し、とにもかくにもここまで来た、という事実は自分としては「ポジティブ」なのであった。10分が1時間にも感じるけれど、結果的には1日が飛ぶように過ぎていくというリゾートの時間を始めて経験しながら、深夜は一人でブランデーをちびちびと飲み、過去へ妄想の旅を続けた。 
 何日かすると、受付の女の子が「ジャパニーズ・エンペラーが死んだみたいよ」と教えてくれた。
 
 日本に帰って10年近く経ったあと、偶然テレビで「スピード2」という映画を見た。1997年の作品だそうだから、私が見たのは6、7年前だっと思う。キアヌ・リーブス、サンドラ・ブロックが出た「スピード」の続編で、同じヤン・デ・ボン監督だが、そうはまったく思えないほど、運動神経が鈍く、スピード感に欠ける映画だった。
 今度は豪華客船が舞台になっていた。その客船の速度制御装置がテロリストに壊されたといったような設定で、巨大な豪華客船が猛スピードで島に衝突する。それが「セント・マーティン島の港」という設定だった。船は確かに港に突入し、大きなリゾートホテルやレストラン、土産物屋などが押しつぶされ、破壊される。私は1 0年ぶりに、不意に現れた「セント・マーティン島」という言葉に懐かしくなった。映画を見ながら、記憶をたどり、そのとき、あの機知に富んだフランス人ホテルマネージャーの顔がはっきりと思い浮かんだのである。
 リザラスによく似ていた彼は、バスク人だった可能性があるだろうか。(続く)

三沢順(みさわ・じゅん)