第17回 バスク妄想行5 切 符 の 饒 舌

 もう冬になってしまった。
 なかなかに複雑な理由で、思いもよらず今年2回目の引越しをする秋になった。といっても、結果的にはごく近所に見つけたマンションに移動するだけだったから、転居の新鮮さもそうはない。郵便番号も、最寄り駅も、立ち寄るスーパーも変わらず、気分的には日常が延長しただけなのに、膨大なゴミ捨て作業があった。
 東京23区推奨のゴミ袋に60袋もの「燃えるゴミ」を捨て、10袋もの「不燃ゴミ」も捨て、区に電話してデコーダーやステレオなどの粗大ゴミも3000円程度引き取ってもらった。ブックオフにも400冊ほど本を買ってもらった。引越しの荷を詰める前に、捨てることに膨大な労力を費やしたのだった。8月末から少しづつ準備はしたが、疲れた。
 その間、世界は大きく変わった。
 バスク旅行で使ったクレジットカードの精算は1ユーロ172円なのに、引越し準備のさなかにはユーロが米国の金融危機に引きづられ、ずるずると120円になってしまった。円は90円台になった。
 野球はあっという間にシーズンを終えてしまった。カブスの福留は8月の打率が2割台と激しく落ち込み、惨めに敗れたドジャーズとのプレーオフ2戦では、本拠リグレーフィールドのファンからもブーイングを受ける惨状だった。オフに入ると、地区優勝を逃した「戦犯」扱いをされた。今年の福留が満足できるような成績を残すとは限らないことは、ある程度予想もしていた。「1年、楽しかったです」と、帰国しても、ふてぶてしいコメントを放っていて、福留らしくめげてないので安心した。
 だが、ドラゴンズが広島と激しい3位争いをするまで成績が落ち込んだのはショックだった。落合政権でファンもすっかり常勝気分に浸っていたのだ。クライマックスシリーズで巨人に敗れた。落合はチームの納会で、「今年は本当に負けたと思った。負けにもいろいろあるが、ただ負けた」と言った。噛めば噛むほど、味がでるような名言だ。
 
 書類やノート、メモなどを片付けているうちに、引越しのための作業をする時間を中断せざるを得ないような、さまざまな過去との遭遇があった。
 書類の山の中から、あるブロック新聞社東京支社の名前が入った見慣れぬ茶封筒が出てきた。この欄で3回前に書いた、21歳でオートバイ事故で死んだSのメモ類が入っていた。23歳で横浜から出て行った以降、引っ越すたびにどこでも運んでいき、それでも別段大事に持ち歩いているわけでも、その所在をいつも確認しているわけでもないのだが。なんとなく、言うなれば「連れ歩いて」いたメモの山々だった。
 何袋かあるはずで、たまに書類を整理していると、ひょこっと出てくることがある、そういう類の保存の仕方だった。面白いのは、いつも違う中身が出てくるのだが、同じ匂いがすることだ。30年前のショートピースの煙が茶封筒に染み付いているのだ。
 Sは物持ちがよく、紙類はとくに大事に使った。だから、広告のチラシのウラなどによく、わけのわからないメモを書いていることがあって、今回あけた袋からもチラシ類が何枚も出てきた。
 たとえば、「ご家庭に毎週お届けします 見る名画 読む名画、感動の140冊、週刊朝日百科世界の美術 各360円朝日新聞社から3月15日発売 予約受付中」のチラシが保存されていて、裏返すと、その裏にはこんなメモが記されていた。
【どんな聞き間違いをしたって やはり悲しいことばがあって】
 その文章を読んだ瞬間、「ああ、カミュだ」と30年以上前の記憶が一瞬にしてもどった。
 「株式会社ニシベ計器製造所 昇給年1回、賞与年2回 7月22日迄履歴書持参の上ご来社下さい」という求人チラシの裏には、こうあった。
【どこを転がったって 不在の口笛が鳴る 非在の転写ではないのか 午後のまどろみのように】。「カミュ」はフランスの作家ではない。東横線でSが出会った、色白の女子高生だった。

 袋の中からパラパラと落ちてきたものがあった。「尾山台 東急線 60円」と印字された昭和51年6月29日、7月2日、7月3日、7月6日、9月25日、「等々力 東急線 60円」の7月5日の、合計6枚の切符だった。
 東急線の初乗りは昭和51年、つまり1976年には60円だった。Sは青葉台の手前、藤が丘という田園都市線の駅近くに住んでいた。当時は、田園都市線といえば、大井町から長津田までつながる、現在の「田園都市線」の一部も含んでいた。二子玉川と渋谷はつながっていなかった。
 6月から7月にかけての6枚の切符を、Sはなぜ後生大事に取っておいたのか。Sはなぜ平日の夜、尾山台、あるいは等々力から電車に乗っていたのか。失意に肩を落とし、藤が丘の駅まで夜、帰っていったSの顔が浮かぶ。藤が丘は定期券で下車し、途中は「キセル」だったから切符が残っている。スイカの時代には、こんな残存物は発生しない。
 Sの死後、自動的に私に所有権が移った6枚の切符は、東北の雪深い地方都市にも、水と風と競輪で知られる北関東の街にも、ワシントンDCにも、ミネアポリスにも、ラブホテルにはさまれた池袋のアパートにも、世田谷区の高級住宅街のマンションにも、私の荷物の中に、ひっそりと暮らしていた。
 だが、その間に、一度もその存在を確認したことはなかった。そして30年後、大田区のマンションの、引越し荷物でごったがえしたリビングルームに突如、姿を現したのだった。「バスク」発の妄想に、Sの話など引き込んだからだ、きっと。
 
 土地には記憶がある。そこで起きた小さな事件も記憶し、その分だけ湿り気を帯びる。正当な考え方かどうかはわからないが、10代でそうした感傷を抱いてから、自分は成長していない。
 「尾山台」という駅名は、特別な思いを沸き起こさせる。駅名の音が、今でも、あの線路沿いの古い一軒家に自動的につながっていくのだ。そして、そこから、秋の夜の空気を記憶のなかで呼吸し、太洋の元エース斉藤明夫を、記憶から召還してくる。
 1981年の9月上旬、自由が丘の焼き鳥屋のカウンターで一人酒を飲んだ。テレビでは、ホエールズのエース斉藤が巨人打線相手に力投を続けていた。だが、8回に打ち込まれ、逆転された。それを見届けたあと、店を出て、ぶらぶらと尾山台まで歩いた。
 酔っ払っていたので、斉藤が力尽きたことをSの死と重ねていた。やや肌寒くなった秋の夜、その尾山台の家に関してSが残した描写どおりに歩き、その場所を簡単に見つけたのだった。そして迷った末、前の夜書いた長い手紙を投函した。「酔った勢い」も当然、手伝っていた。
 私は大事な親友を急に失った21歳だった。感傷的で、途方に暮れていた。女々しく、弱々しかった。キャンパスは就職の準備でざわついており、いたたまれなかった。「社会に出る」という5文字など、こっぱみじんに打ち砕いてくれるはずのブローティガンも役立たなかった。Sがいれば、一緒に「社会に負けていく」ことができたはずだった。そして、私たちが私たちの怠惰を100%肯定するために使っていた、あの合言葉(「そこに人生があればいいのさ」)をつぶやきながら、時間をやり過ごしていくことができたはずだった。この言葉の話はあとでしよう。私たちは、一種の精神的な同性愛に近かったのかもしれない。
 話を戻すと、Sの死後、義務感のように思いつめたのは「カミュ」にも知らせなければ、という思いだった。今考えれば、これは相当におかしい。
 あるとき、郵便ポストに、「あなたが17歳の女子高生のときに東横線で声をかけた銀ぶち眼鏡で、神経質そうな男がいたでしょう。彼はこの前、交通事故で死にました」という手紙が入っていても、不気味なだけだろう。さすがに21歳でも、そのくらいはわかっていたつもりだったが、その不気味な手紙を秋の夜、投函したのだった。
 何の反応もなかったから、彼女が読んだかどうかはわからない。親が捨てたとしてもおかしくない。

 高校生時代、Sが私に断片的に語ったことは以下である。たわいのない、電車の中でのひとめぼれだ。
 昭和51年初夏、17歳のSは、渋谷から自由が丘へ向かう途中の東横線の車内で彼女に出会った。彼女はカバーなしで、アルベール・カミュを読んでいたという。だから、その後彼女を、Sは「カミュ」と呼んだ。カミュについて、Sはさまざまな印象論を語っているが、たいていは夢想か、妄想か、すくなくとも証明できるような事実ではなかった。
 記憶に残るファクトはひとつだけで、彼女が「白い」ということだった。肌が白い。色が白い。うなじが白い……。「白い」「白い」と何度も言った。本をいつも読んでいるとも言った。「文学少女の雰囲気だ」と勝手に言った。Sが初めて会ったその魅力に呆然としていると、彼女は自由が丘で乗り換え、田園都市線に乗って尾山台で降りた。 
 4時15分、4時35分、5時25分、5時35分……といういくつかの時刻もメモにある。Sは毎日、私たちとの文化不良活動もそこそこに、自由が丘で彼女を待ち伏せしたのだった。彼女発見の時間がその時刻だ。それにしても、そんな時間に毎日、高校からはるか離れた自由が丘の駅で待つには、どれだけ高校生の本分を分を忘れていたことだろう。それはお互いさまだが。停学になる前の、高校2年の春—夏は、文化不良活動のピークだったのだ。

 ただ、私は文化不良活動をしながら、空想的な10代と見られることを激しく嫌悪していた。
 だから高校1年生の春から、小学校の同級生を通じて知り合った、横浜市内の私立女子高の、「文化のつかない」ただの不良少女としばらく交遊していた。最初、横浜駅西口駅ビル上のパーラーでクリームソーダを注文しながらタバコを吸う彼女の姿が、なんとも魅力的に見えた。彼女は豊満で、高校1年生にしては大人びていた。
 学校が離れていたので、電話や手紙でのコミュニケーションが多かったが、学校帰りにたまに会うと気分は盛り上がった。すぐ前に、女の子の顔があり、手があり、手を伸ばせば触れることができた。彼女から最初にもらった手紙に「あなたと結婚しようと思うわ」と書いてあった。私も「同じことを思っていた。運命の出会いだ」と返事を書いた。しばらくすると「夫よ」と彼女の友達に紹介された。
 「私は若くして軽薄な結婚をしてしまったけど、後悔していない。あなたは夫としては悪くない」
 という手紙ももらった。露天で買った指輪をプレゼントした。おままごとが楽しかった。
 15歳の男が15歳の女に勝利することは永遠にないと思う。彼女は吐く息や、皮膚のにおいそのものだった。私がいまはそのために生きているのだ、と信じていた、すべての文化不良活動を粉々にしてしまうような、切実で熱く生々しい肉体だった。
 その彼女は、玲子という名前だった。苗字はSだ。酔っ払った夜、その名前をヤフーやグーグルで何度も検索してみたことがある。この前、ふと思いついて中国の検索エンジン「百度」にも打ち込んでみた。だが、その名前では、少なくとも地球上のどこにもデジタル情報を残していなかった。本当の結婚をして苗字が変わっていたら、見つけようもないのか。ほんの小さな痕跡も残さず結びつけるかに見える、21世紀のすさまじい監視網から逃れていた。私のところにも、ラブレターは残っていない。私の過去の記憶にしか存在せず、現在の気配をほんの少しでも見せることはなかった。
 15歳の9月30日だった。
 2人の通う学校はともに前期の試験休みだった。気分は盛り上がっていて、自由が丘のジャズ喫茶へ行ったあと、デパートかスーパーか忘れたが、階段の踊り場にあるイスで15歳の夫婦は、いちゃつきながら過ごした。彼女は温かくて、身体を触ると、顔が揺れて髪の毛が顔を隠し、人間が消えて、吐息を漏らす肉体が前に出てきた。東横線に乗り、横浜市内のある駅で降り、高台の公園で2人きりの時間を過ごした。初秋の穏やかな平日の午後、公園には掃除のおじさんしかいなかった。
 だが、不思議なことに近づけば近づくほど、彼女を薄っぺらく実感してしまうのだった。彼女には文化への淫蕩の志向はなく、現実の欠落を、言葉や音や映像で何倍も豊穣な世界にしてみせようとする表現の熱にもそう関心があるわけでもない。その存在はただ顔であり、髪であり、肌だった。しかも、素行がただの不良なだけで、実はふつうの少女と同じように、純情だった。私は15歳のときから、こういう勝手で都合のいい評価を女性に下していた。間違っていたし、本当に悪い態度だったと思う。ただ、取り返しはつかない。

 Sは前に書いたように、エリック・ドルフィーや、埴谷雄高を好きだった。でも彼らは、電車で乗り合わせた色白の少女の、その美や存在について表現をすることはできても、彼女と仲良くなるために、何をしたらいいのか、具体的に教えてくれるわけではない。「文学における恋愛性」と、「恋愛における文学性」はまったくの別物なのだ。それを知るにいたる回路は、正反対の逆コースかもしれない。
 Sはカミュについて、よく私の助言を求めた。2人で作戦会議を開き、Sの話から、たぶん彼女は青山にある付属大学がある私立女子高に通っているのではないか、と推測した。詳細は忘れたが、さまざまな条件を吟味して、そういう結論になったのだ。
 前にも書いたが、私たちは、女30人と寝るような高校生ではなく、女30人と寝るような主人公の小説を読むことが好きな高校生であったにすぎない。経験を発酵させ、そこに文学を発芽させていくタイプではなかった。要するに、2人で交わしたこの手の話は断続的で、きわめて比喩的で、ときには謎かけのように意味不明で、慎重で、相手に慮っており、深入りせず、踏み込まずを、原則としていた。
 だから、私はSの恋の具体的なディテールは知らない。ただ、「否定された」とか「拒絶された」とかといった話を聞いたことは覚えているし、彼の残したメモにも、そんなくだりが妙に多い。
 Sのカミュへの執着はとても強かったことが死後にわかった。17歳の想いを21歳で死ぬまで忘れなかったようで、メモにさまざまな詩想を記録していた。正確に言えば、カミュへの想いを捨てない、自分への想いをメモで残していた。

 Sの思い出を語りだすと、どうしても3畳ほどの小さなおでん屋「道草」の光景が忘れられない。私たちの拠点のひとつだったからだ。
 東横線のある駅の商店街にある、当時70過ぎのMさんという主人がひとりで経営していた店だ。3、4人づつがかろうじて座れるL字型のカウンターの中に、冷蔵庫とおでんの鍋がある。Mさんが気ままにやっていて、開店時間もばらばらだった。
 早くて深夜の12時、遅いときは2時すぎまでずれこむ。昼間はシャッターが閉まり、隣の八百屋の木箱やダンボール場が入り口にたくさん積まれている。その奥に、昼間働く人々がもっとも深い眠りに入る深夜の、いちばん濃い時間に、ようやく目を覚ましたかのように開店し、活況を呈する店があるのだとは、誰にも想像がつかなかった。
 客がいると6時半、ときには7時半ごろまで閉まらない。夜が明けて始発が通り、しだいに店の前が通勤客の足音でにぎわい始める時間にも、「道草」にはまった酔客は、この店の持つ「無用者専用」のような時間から抜けられず、なかなか席を立つことができない。戦争の後遺症かなにかで右手がやや不自由なMさんが左手で注文されたおでんの具をつまみ、汁を皿に入れる。その仕草は独特で、何回か見ると決して忘れることはできなかった。
 この店に最初に連れてきてくれたのは、前に書いたジャズ喫茶のママMさんだった。高校2年だったと思う。朝5時に店を閉めたあと、「ちょっと行こうよ」と約1キロ離れたこの店に、タクシーで連れて行ってくれた。77年にはコンビニもない。24時間営業のミスタードーナツが開店したのはもっとあとだったか。そんな事情で、おでん屋には店がはねた水商売の経営者たち、近くの大学生、深夜に働いた帰りの労働者、そんな人たちが主に来ていた。
 この店の存在を覚えてから、深夜にぶらりと来ることがあった。1000円ちょっとあれば軽く飲み食いできた。いま、自分で17歳のころの写真を見ると、当たり前だが、やはり年相応に子供っぽいので、一人で朝3時過ぎにビールとおでんを飲んでいる姿は、ほかの客にどう見えたかおかしい。
 まだ人生の入り口だった。だが、ときには誰かと別れたような擬似気分に浸りながら、
 「またもとの ひとりとなりて おでん酒」
など、山頭火を気取って、雨の音をうっとり聞いていたりしたのだった。

 Sは私以上にこの店を愛した。大学に入り、私の家の近くにアパートを借りてからはひんぱんに通った。私とSがこの店で、ある種の啓示を受けた夜があった。大学生になってからだ。
 そのときは何気なく過ぎる。だが、その瞬間の光景や言葉がのちに何か強い輝きを放ちながら、急に浮上してくる。そんな経験だ。私たちは、ある種の哲学を得た。その夜の雰囲気や空気について2人で言葉を尽くして語り合ったものだが、うまく表現することはできなかった。
 深夜、3時を過ぎていた。
 店には私たち2人しかおらず、Mさんも腰をかけてタバコをくゆらす静かな夜だった。そこへ3人の中年の男たちが入ってきた。彼らはビールを頼んで、にぎやかに話を始めた。にぎやかだが、決して横で聞いていてもうるさくはない。話題は昨日の競輪のレースについての反省だった。仕事はどうやら日雇い労働のようだが、肉体を資本とする仕事をしている人にしては話し方に荒々しさがなく、逆に口が達者で、口舌の輩のようであった。広告代理店の営業マンと、芸能プロのスタッフと、編集プロダクションの社長だと言われれば、やはりそうかとうなづける、そんな3人だった。
 そのころ私は競馬に夢中だった。1万円を1カ月間無利子で貸してくれる大学の学生金庫や、飯田橋にあるローン店で、細かくお金を借りては土・日、横浜・日の出町にある場外馬券場に通っていた。だが、競輪は見たことも賭けたこともなかった。だから、固有名詞はもちろん「まくり」とか「番手」といった専門用語は理解できなかった。
 それでも隣の席から聞こえてくるその3人の話は妙に魅力的で引き込まれた。ボケと突込みではないが、3人の絶妙なコンビネーションと笑いを誘う自嘲のジョーク、きつさのないじゃれ合いなどがうまく調合されて、味わいを醸し出していた。
 Sとわたしは無言で、彼らの話を聞きながら、ああこういう大人になりたいな、と単純に感動していた。夜がいちばん奥の底まで深まるこんな時間に、こんなに楽しそうに競輪の話をしている。
 3人のうちの1人が、あーあもう明日は起きて仕事には行けないな、とため息をついた。また、おまえ休むのか、ともう1人が、なにやらそんなことを言った。最後の1人が自分の手元の、日本酒がはいったグラスをじっと見つめながら言った。
「そこに人生があればいいんだよ」
 
 その言葉が体にすんなり入った。その夜から、「そこに人生があればいいんだよ」は、私たちの合言葉になった。私たちの間で、この言葉はどんどん守備範囲をひろげ、意味を付加していった。怠惰を促進し、失敗を許容し、感傷を肯定し、敗北を甘受するような言葉だが。だからこそ、強固たる宣言でもありえるのだった。
 私たちには「社会に出る」ことの対抗価値は、アウトサイダーやドロップアウトではなかった。むしろこの言葉の示唆に近かった。卒業や就職という行き止まりの穴が待ち受けるこの先に向け、「成功」や、「達成」でない価値観で生きながら、誰をも指弾しないし、否定もしない。気がつくと、深くうなづいている自分に気づくような、肯定の仕方だ。文化不良の蓄積をためこんで理論武装した私とSは、決して「人生があるだけじゃだめだ」というイデオロギーへ転向することはないだろう、と考えた。
 現にSは大学を辞め、新しい出発を構想していた。私はパートタイムの塾の教師で暮らしていくことはできないか、とぼんやりと模索していた 
 「そこに人生があればいいのだ」と、それだけの希望で、決して贅沢をいっているわけではないのに、Sは自分の人生をなくしてしまった。肝心の人生がなくなってしまっては、話にならない。
 手強い仲間をなくし、私は混乱を深めた。次第に生活のエネルギーを失っていき、いまでいう引きこもりのように、ほぼ3カ月、社会的活動から遠ざかった。深夜になると起き出して、おでん屋やジャズ喫茶に出かけた。おでん屋のMさんはSのために、千葉の実家まで線香をあげに行ってくれた。
 私にあいそをつかしていた恋人はとっくに去り、ヨーロッパへの卒業旅行の準備に楽しそうだった。こうなってくると、オセロのように、連鎖反応的にいろいろな状況がすべて裏返って「黒」になっていくのが不思議だった。
 共犯を失った私は転向した。「そこに人生があるだけではだめなのだ」と弱々しく考えを改め、人並みに一念発起して、学芸大学の弁護士事務所で働き始めた。だが、昼にらっきょうを3つ、小さなお皿に盛って食事をしている弁護士の机に届ける作業を激しく嫌悪し、2日でやめた。これでまた「黒」にかわった。完全に直っていないのに、社会に復帰しようとして失敗し、症状を重くする鬱病患者と同じだった。
 留年が決まって冬になり、あるとき、細々とやっていた家庭教師先の高校生が何を思いついたのか、イクシーズのシャツをプレゼントしてくれた。啓示的な出来事だった。着物をもらって、夏だか、冬だかまで生きていようと思ったという書き出しで始まる太宰治の「晩年」を思い出した。
 春が近づき、松田聖子の「赤いスイートピー」が流れていた。ある日、家で片岡義男の「人魚はクールにグッドバイ」という短編小説を読んでいたら、自分の心のなかに、微風がそよいでいるのを感じた。ほんのわずかだが持ち直す気配を実感した。
 左右社の代表と出会ったのは、その1カ月後くらいのことである。

 本当はこの回、フランス側のバスクの話から始めて、ワシントンでの留置所の夜まで、たどり着くはずだった。だが、6枚の切符が記憶を召還し、構想が大きく狂ってしまった。

三沢順(みさわ・じゅん)