第18回 バスク妄想行6 共 犯 の 笑 顔

 スペインのリーガ・エスパニューラ(サッカー・リーグ)でいまだ原則、バスク出身者だけで構成しているチーム、アスレチック・ビルバオの話は、この「バスク妄想行」の3回目で書いた。今シーズンは当初から振るわなかったが、12月に同じ下位争いをするスマンシアに勝ってから、降格圏内から脱け出た。1月12日にはアウェイでアトレチコ・マドリードを破り勝ち点23に。現在、バルセロナが圧倒的な強さで首位を独走するリーグで、13位。20チームがひしめいていて予断は許さないが、やはり地力が違う。
 何といっても、一度も2部に落ちたことがない名門なのだ。「ボスマン判決」による移籍の自由、もっと根本的には、グローバリズムに抗して、「バスク」のみという仮構の国境線が内側から引く姿勢がこの21世紀にどう通用するのか、興味深い。ある新聞の元バルセロナ特派員は「バスクは薩摩、カタルーニャは長州と思えばいい」なんて言っていたな。きっとビルバオのバルでは、カーニャを飲みながらオヤジたちが延々とサッカー談義を繰り広げていることだろう。
 サッカーはスペインのアスレチック・ビルバオと大分トリニータ、野球は中日ドラゴンズとMLBのカブス、いまの私が愛するチームだ。ワールドカップでは、ヒディンク率いるロシアを応援する。ドラゴンズは人生の歩みそのもので別格扱いだが、なにか応援するチーム、ひいきするものを持つと、人生は豊かになる。写真家の荒木経惟さんにこう言われたことがある。「編集って仕事は、つまり、ひいきだろ。ひいきすることだろ」。
 
 ところで、私は1959年12月12日生まれだ。
 誕生の記憶が存在するわけはないし、母親の胎内の羊水に浸かっていた「温かさ」を覚えているはずがない。だが、12月になると、不思議に体温が上がる。これは単なる比喩ではなくて、師走の1カ月の間は、酒を飲んでいるわけでもないのに何となく顔もすこし赤くほてり、体も熱っぽいことが多い。そして、なにか一種の軽い興奮状態が続く。
 2、3時間しか眠れずに目が覚め、目が覚めたときには脳が完全に覚醒しているようなことが4日、5日と続いたりする。労働の意欲もみなぎる。頑張って働きたくなる。寒いのに街中を散歩したくなる。女性がきれいに見える。何事にも興奮しやすくなる。というように私の「誕生月」現象の兆候はさまざまだが、中でも典型的な症状は、些細なことに心を動かされ、涙もろくなることかもしれない。
 とはいっても、午前中、会社へ向かう電車の中で、あんなにポロポロと涙がこぼれたのは、一度だけだ。2001年の12月。そして、それは信じられないほどの偶然としか言いようがないのだが、そのとき、目の前に同類がいた。ガラガラの小田急線で前に席に座った50代くらいの男性も東京中日スポーツを読みながら、涙を浮かべていたのだった。
 何本もの特急、急行に呆れるほど抜かれていく小田急線の各駅停車はすいていることが多い。その車両内で、ドラゴンズの中村武志の移籍の記事で、同じように涙する人がいる。確率の計算をすると、どのくらいになるだろう。そんな符号、そんな偶然があるわけがない。自分の思い過ごしだろうと、私が事態を吟味するような目で男性を見ていると、彼はその視線に気づき、私がトーチュウを持っていることにも気づいた。そして、口元をほんのすこしだけ緩めた。彼もまた、その記事に涙していた。それは思い過ごしではなかった。事実だった。
 彼が浮かべた小さな笑みは、「あんたもかね!」「ご同類!」という意思表示に見えた。いわば、名前も知らず、偶然その場に居合わせた2人が同じ文脈で気分を共有する、それをお互いだけが気づいたことを伝える「共犯感覚」の笑みだった。彼はその後、代々木上原までのどこかの駅で降りた。私は代々木上原で千代田線に乗り換えたものの、不思議な遭遇への思いが高まり、そこへ、中村武志への惜別の情が重なってあふれだし、またもや涙が出始めたので、明治神宮前で千代田線を降りた。そして、この日のことは忘れられないのだが、会社まで延々と歩いて行ったのだった。
 翌日から何日間、そういえば、ああいった「共犯感覚」のような、印象的な笑みを変な場所で見たことがあるな、とひっかかっていた。なんの「共犯」で、それはどこだったのか、まるで手がかりもなかった。そして、不意に、その笑顔が急浮上した。
 1990年5月11日、いや未明の12日朝4時過ぎ、ワシントンDCのNW地区の警察署で、私のとなりのスペースで取調べを受けていたヒスパニックの男が、まるで乾杯をするように手錠を見せながら、口元をゆるめ、「共犯の微笑み」を見せたのだった。これもまた、映画のシーンに取っておきたいようなシチュエーションだった。
 だが、その話は後回しでいい。まずは、「さらば、タケシよ」と大きな見出しが付いた、年季が入ったドラゴンズファンにとっては涙なくしては読めない、あの記事のことを語らなければならない。今シーズンから捕手コーチとしてドラゴンズに復帰する中村武志に「お帰りなさい」という意味もこめて。
 12月になると、スポーツ新聞の野球記事もめっきり減る。契約更改と、ドラフト選手の入団契約など戦意高揚記事が続いたあとは、回顧物が増える。一日駅長、サイン会、ゴルフ納会、などのどうでもいい埋め草の記事が目立つようになり、あとはお決まりの自主トレ情報ばかりだ。今年の上原浩治や川上憲伸のように、最近はFA選手のメジャー移籍の話題が年を越すまで「ネタ」に加わることがある。昨年の福留のカブス入りは12月だったか。
 ほぼ毎日、東京中日スポーツを買っている人間もこの時期は、買い忘れが増える。どうせ大した情報は載っていない。それならば、家でとっている日刊スポーツだけで十分なのだ。何か読みたければ、ドラゴンズサイトに接続すればいい。トウチュウに載る記事はだいたいチェックできる。
 だが、2001年12月は、そうはいかなかった。ドラゴンズのチームの骨格自体に、大きな変動が起きようとしていたからだ。
 横浜をFA宣言した捕手・谷繁元信のメジャー入りが消え、星野のあとの監督に就任した山田久志監督が、行き先が日本の球団に絞られた谷繁を、中日にほしがったのだ。日本一の捕手ともいえる谷繁がドラゴンズに来たら、正捕手の中村武志はどうなるのか。それが関心のまとだった。
 ドラゴンズの捕手として私たちに馴染み深いのはもちろん木俣、そして新宅、さらに中尾。木俣は60年代、70年代のドラゴンズを引っ張った名捕手だ。若いときは長打力で本塁打を量産し、円熟してからは右打ちの名人となった。今では酔っ払ったような口調での解説に味がある。中尾はMVPまでとった俊足強肩の捕手で、ある種、私には理想的な選手であった。だが、どんな経緯があったのか忘れたがすぐに移籍してしまった。だから、中日球団史のなかで、意外に存在感は薄い。私たちにとっては、木俣のあとは、京都・花園高校から18歳でドラフト1位で入団した、中村武志なのである。
 野球選手には「男」型と「女」型がいる、と思う。捕手で比べてみよう。強気のリードで投手を叱り飛ばし、度胸満点の配給に特徴がある、打たれたらおまえ、仕方ないんだからしっかり投げろ、というリードをする谷繁元信は間違いなく「男」だ。
 そして、中村武志は間違いなく「女」だった。山本昌、野口茂樹といった、すばらしい球を持っているのに、性格がやさしく、自己表現のへたな投手を我慢強く、「それでいいんだよ」と肯定して、自信を持たせる。タケシはそういう意味ではまさに「女房役」だったのだ。
 とりわけ、野口を開花させた功績は大きい。99年に19勝7敗で、リーグMVPとなったスライダー左腕。今年、巨人から戦力外通告を受け、楽天の入団テストにも落ちてしまった左腕はドラゴンズ時代、中村のリードで花開いたのだ。だから、野口はヒーローインタビューで「中村さんのおかげです」「中村さんのミットに投げただけです」としか言わなかった。つまらない内容だが、本当に野口はミットめがけて指定された球種を投げていただけだったのだろう。水彩画を自分でも描き、およそ言葉による自己表現が苦手な野口は、中村が捕手でなかったら投手として成功することはなかったと思う。
 谷繁は要求し、中村武志は肯定する。
 谷繁は競争的で、中村武志は調和的である。
 谷繁は自信家で、中村武志は受容者である。
 谷繁は肉食で、中村武志は草食である。
 対比的に言えば、こういうことだ。
 そして、90%以上の確率で、谷繁がFA移籍で中日に来なかったら、ドラゴンズはいまでも日本1の座につくことはなかった。それを認めざるを得ないからこそ、ドラゴンズの21世紀の選手名簿に名を残すことなく去った中村武志の名前は、より哀調を帯びる。記録には残らないが、記憶に残る、そんな賞賛の表現があるが、中村武志は記憶のなかでも、ひっそりと、どこにいるか探さなければわからないような隅のほうに、控えめに座っている。
 調子に乗って「男」「女」話にもうひとつ付け加えれば、落合博満は「女」である。そして落合には2人の「男」がそばにいる。1人は、信子夫人、依存関係でいえば、あれは「男」だ。日本シリーズで敗れて帰った落合を風呂にいれ、その中で頭からシャンパンをかけて慰める。そんな信子夫人を、わたしたち中日実況啓示板の住人は「総監督」と呼んでいるが、それは落合を支える「男」だという意味だ。 
 もう1人は、森繁バッテリーコーチ。毎年130試合近くテレビで試合中継を見ていると、1年に何回か、ベンチで落合が恋人に次の行き先を尋ねる「女」のような目をして森コーチを見つめる光景に出くわす。投手起用について、森コーチの意見に従おうとしているときだ。
 森コーチは「男」っぷりは絵に描いたようである。投手交代で出てきた若い投手の投球練習の見つめ方、そのあとの声のかけ方を見ていると、鉄砲玉に出そうとする若い組員に、「ヤクザの道」を説く暴力団の中堅幹部そのものだ。「おまえの骨は拾ってやるから」と、まるで震える手にチャカを握らせるように、ボールを最後に投手に渡す。その雄姿は、スタジアムに出向かないと見ることはできない現場の楽しみそのものだ。
 話を戻そう。星野から監督を引き継いだ山田は、谷繁のFAでの中日入りを「思わぬクリスマスプレゼントが来た」と喜んだ。これでは、レギュラー捕手だった中村武史は立つ瀬がない。事実上出て行けと言われているようなものだ。「交代要員で使う」とまでプライドを傷つけられ、出場機会を求める中村は、球団に放出を希望した。そして、横浜ベイスターズへ金銭トレードで放出されたのだ。結果としては、ドラゴンズとベイスターズの2球団の、谷繁元信と中村武志の交換。
 90年代を通じて、才能はありながら気のやさしい中日投手陣の弱さも受け入れて支えてきた中村、何かあれば山本昌をはじめとする投手陣をかばい、その分まで星野の鉄拳制裁を受け、顔の形が変わって、次のイニングの守備でマスクがかけられなかったとまで言われた中村、その中村の、中日への別れのインタビューが載っていたのが、くだんの東京中日スポーツだったのだ。
 いまは彼の朴訥な言葉の数々を覚えていない。だが、乾燥した冬の空気を湿らせるような、異色とも思える感傷的な記事だったことは記憶に残されている。中村は記者にも愛されていたのだ。だが、それにしてもプロとはかくも厳しきものなのか。翌日か翌々日には谷繁のインタビューが掲載されていた。「中日はいい投手が多いのに、みんなおとなしい。投げたい球をどんどん自己主張してほしい」。率直で厳しい物言い……確かに投手陣は引き締まったに違いない。
 それにしても小田急線の男性は、花園高校の卒業生か。あるいは、中村武志の関係者か。どう考えてもただの中日ファンには思えない。思いが強すぎる。
 
 話はそこから、「共犯の微笑」を求めて、18年前の5月、ワシントンDCにさかのぼる。あのあわただしく、気が滅入る5月だ。ただし、事態を招いたのは私で、事態をさらに悪化させたのも私だった。責めるべきは1人で、ほかの誰でもなかった。
 今回、記憶を確かめる目的もあって、当時の備忘録兼手帳が残っているかどうか探したら、簡単に見つかった。1990年の手帳だ。エンジ色の表紙の、ミネソタ大学の「カレンダー&アサインメントブック」を手帳代わりに使っていた。
 「5月」の項目を見る。最後の記述は、「5月26日 AM11:55 ダレス 1419ドル」。これは2年間の留学生活を終えて、日本に帰国する日付けと、ワシントンDCのダレス空港の出発時間、そして片道チケット(ビジネス!正規料金)の値段だ。
 その前日は「Kさん、車引渡し」。これは日本銀行から来ていた同じ大学院の知人に、ビュイックの3000CCの車を廉価に譲る日のメモだ。そして、「5月24日 大学院卒業式 13時」とある。
 高等国際問題研究大学院の卒業式が、24日の午後だった。だが私にはその午前中、卒業式より大切で深刻な用事が控えていた。
 午前中、大学院のビルから5キロほど離れた官庁街の一角の、裁判所にいた。そして判決を受けて、裁判が終ったあと、その足で卒業式へ向かったのだった。
 その2週間前のことだ。11日の欄には、「T、M送別会 21時から」とある。Tはいま、関西の大学でアフリカの地域研究を専攻する学者、Mは前にも書いたが知事選で破れ、沖縄の海で昨年死んだ元通産官僚だった。われわれ留学生仲間のなかで、彼ら2人が先陣を切って翌週には帰国するため、ワシントンDCのMストリート沿いの「Y」という日本料理屋でその夜遅く、送別会を開いていた。
 日本でも当時は、飲酒運転が今ほど「社会悪」という共通認識はまだなかったように思う。すこし飲んだから、覚まして、コーヒーを飲んでから帰る、そんな感覚だった。もちろん、自動車での移動が多いアメリカでは、だれもがふつうに酒を飲んで運転していた。そもそも、取締りが存在しないのだ。わざわざ飲酒運転を見つけるための取り締まりはしないが、見つけたら厳しく処罰する、というスタンスだった。その代わり、徹底的に取り締まるのが駐車違反のほうだった。街角に10分オーバーして停めていても、チケットを切られる。わたしも3回ほど反則金を小切手で納入したことがある。
 冷酒が悪かった。宴席は途中から盛り上がり、ビールから冷酒に飲み物が変わった。そして夜中になり、お開きとなった。証券会社から来ていた知人は、「三沢さんはふつうに『じゃあね』と言い、狭い駐車場からバックで車をうまく出し、走って帰った。大丈夫かな、と思ったけど、まったく酔ったふうもなかったので」と後に証言した。わたしの泥酔パターンは、周囲にわかるように兆さないから性質が悪い。普通の顔をして「さよなら」を言い、あるときは赤坂見附の土手の下で寝込み、あるときは中央線で高尾駅まで乗り過ごし、あるときはまったく知らない都立大学の大学生の家で寝ていた、そんなことが頻繁にあった。だが、車を運転するなどということは言語道断だ。
 そこから、記憶がまだらになる。気が付くと、「NO」「NO」と何度も警官に怒鳴っていた。あとで判明した事実は、Mストリートで私が赤信号を無視したので、たまたま走っていたパトカーに追われ、停められたのだった。そこで愚かなことに、私は事態をわざわざ複雑にする行為をした。飲酒の有無を調べる探知を拒否したのだ。警察の書類には、「REFUSAL(拒否)」と書かれている。同意さえしていれば、逮捕されはしなかったのに、拒否したことで、警察当局は犯罪を立件するために、私をARREST(逮捕)する必要があったのだ。一時的にとはいえ連行時には手錠をかけられ、あまつさえ、留置所に入れられもしたのだった。
 その隣りの取調べスペースのようなところに、ヒスパニックの男がいた。背が低くて、たぶん20歳前後だろう。彼は「おれもだよ、ご同輩!」という表情で合図して、笑みを投げてきた。同じ貧しい非白人がパクられた、「おれたちゃ仲間よ、アメリカはいやな国だ」とでも思ったに違いない。
 当時のワシントンDCは、黒人の住人が80%を超え、いわゆるドラッグ・ディーラー同士の殺し合いが年に100件以上起きる、けっこう物騒な町だった。官僚や公務員、政治家、法律家など、首都で働くエリートは隣のメリーランドや、バージニア州の高級住宅地に家を構え、DCの街中などにすまない。私たちも、「NW」(北西地区)以外はとくに夜、あまり行かないほうがいいと教えられていた。と同時に、すこしづつヒスパニックの姿が増え始めた時期でもあった。
 警察署を出たときは空は白んでいた。「寝て起きてから車を運転して帰れ。いまこの足で、車を取りに行ったら、もう釈放できないぞ」と警官に脅された。だが、なぜかそのまま、信号脇に放置してあった車を運転して帰った記憶がある。取調べを通じて、なぜか勝手な「反米気分」が盛り上がっていたのだ。ヒスパニックの「共犯の微笑」も微妙に作用していたと思う。単に事の重大さを理解せず、まだ酔っていた。
 だが酔いが醒めるに従い、帰国間際におれは何をやっているんだろう、との反省が頭をもたげてきたた。マンションに帰って、トイレで嘔吐した。明らかに飲みすぎだった。仮眠して起きると、留守番電話の点滅ランプが光っていた。交通専門の弁護士からの伝言だった。要約すると、こんな内容だった。
「ミスター三沢、いまはきっとトラブルで頭を抱えているでしょうね。でも、弁護士を探すために、あわててダウンタウンを走り回る必要はありません。私たちはベテランの交通問題専門の弁護士です。連絡をください」
 なんのことはない、警察から住所・氏名・電話番号などの連絡が行くのである。
 その日の午後、連絡すると、さっそく弁護士がやってきた。軍人として日本にサービスした経験があると、その60歳ぐらいの弁護士は言った。「だから、日本人は尊敬すべき国民だと知っています。できることはしますので、ご心配なく」と付け加えた。
 彼が気にしたのは、なぜ私が飲酒探知の検査を「拒否」したかであった。「覚えていません」と私は言った。すると、彼は「では」と、警察との「バーゲニング(司法取引)」を持ちかけた。まず飲酒の罪を認める。そうすれば、警察も取引に応じる。たぶん判決はカネと、再免許取得のための労働(ボランティアサービス)で終わる、と。それが1990年の5月12日だった。14日の月曜日からの週は送別会続きだった。誰にも言わず、そこでもまた飲みはしたが、さすがに運転はしなかった。
 判決は24日。弁護士に26日に帰国しなければならない、運転免許はもう失効してもいい、と伝えた。そして、10時過ぎ、裁判所に出向いた。
 弁護士からいくつか注意点を聞いた。私と4人の黒人が次々と裁かれる「連続簡易裁判」だった。裁判長は私のときはまず、「DO YOU SPEAK ENGLISH?」と聞いた。「イエス」と言うと、次の質問は、「この裁判の前に、だれかから、こう答えればこういう罪になる、といった種類の約束をされたことはありますか」だった。私は「NO」と言った。そんな質問が5つか6つ続き、あっという間に、私の審理は終った。席に着き、次の黒人の裁判を何気なく聞いていて驚いた。
 彼はコカインを吸いながらワシントンのバスを運転し、事故を起こしたドライバーだった。こんな極悪行為と並んで裁かれるのか、と思ったが、よくよく考えると、酩酊運転に酒もドラッグも変わりはなかった。私も人身事故を起こしていれば、こんな簡単な裁判ではすむはずがなかった。26日の帰国も当然、諦めなければいけなかったに違いない。
 結局、罪状をあらかじめ認めていたため、司法取引は成立していて、判決は罰金1500ドル程度で済んだ。弁護士費用にも1000ドル程度払った。帰国日が迫っていたため、運転免許証は放棄し、私の裁判は終った。
 「もう二度とアメリカで車を運転することなどないだろう」と思ったが、その5年後にはワシントンDCからサンフランシスコまで、レンタカーでドライブすることになるのだから人生はわからない。だが、そのとき私が持っていたのは国際免許証だった。
 裁判所からタクシーで大学院に行った。そこで、卒業式用の黒い学士服と学士帽に着替えた。そのときになってようやく、事故を起こしたり、ましてや人など轢かなくてよかったという強い安堵感が生まれた。まだ、自分にはツキがある、と思った。私とアメリカは相性が悪いが、アメリカはまだ徹底的に自分を嫌っているわけではない、とも思った。
 将来、国務省や国防総省に勤めるアメリカ人学生、外交官として世界を飛びまわったり、政府の中枢で活躍するアジアからの留学生たち、そんな同級生にまじりながら、2年間のハプニング的アメリカ生活のいちおうの証明として、私も人並みに何とか卒業証書を受け取った。だが、ここのエリートたちの希望に満ちた笑顔よりも、2週間前に警察署で見たヒスパニックの共犯的微笑のほうが、この2年間の、非生産的で後ろ向きな生活の掉尾を飾るにはふさわしかったし、心を触れあわせることができるような気がした。(つづく)

三沢順(みさわ・じゅん)