第36回 パリの迷想4 「パリの悲劇」

 シャンゼリゼ大通りのショップで買った40ユーロの買い物、それはチケットでした。
 12月5日17時からパルク・デ・フランスで行われる「パリ・サンジェルマン(PSG)VSスタッド・ブレスト」だ。
 PSGの公式ショップでバックスタンドのI席を購入したが、その際にパスポートを提示し、名前が印刷された。フーリガンや偽チケット対策なのだろうか。2002年の日韓ワールドカップでも、応募して当選すると名前入りチケットだった。PSGのホームの試合がないと観戦できないので、日程がうまくあったことに感謝した。
 雪が雨に変わる中、クリュー・ラーソルボンヌ駅からメトロ10号線に乗る。9号線に乗り換えて3駅目、ポルト・デ・サンクルーで降りる。騎馬警官がにらみをきかす中、ダフ屋の波をかきわけた。「日本語できるよ、1人?チケット、いい席あるよ」と黒人。おいおい、ここはナゴヤドームかよ。
 両足首まで触られる入念な身体検査の後、2度目のチケット提示で、ようやくスタジアムへ入る。ちなみにパルク・デ・プランスは「フランスの公園」ではなく、英語だとプリンス、「王子の公園」だ。
 開始5分、いきなりPSGのネネがゴールを決めた。そこからお互いがミスをくり返す、寝ぼけたような展開が続いた。ただ、ブレストも調子は悪くない。ゴール前まではボールを運んでチャンスをつくる。ほんの30度くらいしか角度がない広さで、鳥かごで守られた応援席で、サポーターは必死の応援をくり返す。後半開始9分、ブレストが追いつくと、そこからいきなり目覚めたように、攻防に激しさが戻り、結局、PSGが3ー1で勝利した。ホームで無様に負けたらただじゃすまされない、そんな圧力の恐怖感から来る必死さが後半の15分間は感じられた。
 PSGの左サイド、背番号19番ネネが目立った。ブラジル人らしく、ドリブルで攻撃にアクセントをつける。ブレストも、中盤のコンゴ人コンビのパス回しが巧みだった。
 何かあればきっと暴発するに違いない、危険な情熱やエネルギーの胎動は感じられるけれど、親子連れや恋人同士も少なくなく、荒々しさはあまり感じられない。この雰囲気が、イングランドやイタリアとは違う、フランスのリーグ・アンらしいのだろう。
 ところで、パルク・デ・プランスといえば「パリの悲劇」だ。1993年10月、94年ワールドカップ・アメリカ大会への出場を日本代表が逃したのが「ドーハの悲劇」だったが、11月に「パリの悲劇」も起きた。
 欧州地区予選最終戦、引き分けでもフランスが出場を決められる試合の後半ロスタイムに、ブルガリアのFWコスタディノフにゴールを許し、スタジアムは落胆と絶望に静まりかえったのだ。
 試合直後から、それは巨大な怒りに変わった。長期間、すさまじい「戦犯探し」が続き、激しい非難の矢面に立たされのが、ボールを奪われたMFのジノーラだった。ジノーラは、ここパルク・デ・フランスをホームとするPSGの選手で、家族も危険にさらされたという報道を目にしたこともある。
 2度と代表に呼ばれなかったジノーラは今どうしているだろう。コスタディノフも好きな選手だった。そういえば、あのフランス代表にはパパンも、デシャンもいた。
 「パリの悲劇」はドーハより過酷で、多くの選手の人生を変え、容赦がなかったが、だが、85年のリバプールVSユベントス、死者39人を出した「カイゼルの悲劇」を知る欧州のサッカー界には、たかだかロスタイム弾がもたらした絶望感を、「悲劇」と呼ぶ慣習はないだろう。
 気温は0度くらいだったと思う。
 帰りの地下鉄で、芯まで完全に冷え切った両足をさすり、摩擦で体温を高めた。パルク・デ・プランスは、幾層にも塗り込まれた記憶の化学反応で形成されてきたような、歴史観を感じることができる地だった。

三沢順(みさわ・じゅん)