その6 多摩霊園の「1944年11月7日」

 寒さも夜の冷え込みも厳しくなってきた。そんな12月に入った第1土曜日はとても暖かかった。その夜、ぼくは一ツ橋・日本教育会館に向かっていた。雑誌『彷書月刊』の会が用意されていたのである。古書の専門誌に縁のある人たちが集う。同誌は今年10月号で休刊を迎えていた。この休刊を祝ってもいいし、惜しんでもいい、淋しがってもいい。そういう謝恩会だという。もちろん、ぼくらが同編集部とその発行にゆかりのある人たちに謝恩するのだ。休刊号の「猿楽町だより」(編集後記)で、編集・発行人の田村治芳さんは、「二十五年、九千の日と夜。『彷書月刊』休刊三百号を出させていただき、」と書き始めている。
 始まりの30分前に会場に着いた。田村さんはもちろん、古本屋の「石神井書林」や「月の輪書林」「港や書店」たちが受付などの準備をしていた。会はとても穏やかに進んでいく。和やかな雰囲気だ。『彷書月刊』の足跡が語られる。同誌から生まれた書き手の名前が並ぶ。始めた時は3年もてば……。回想もあれば、その財産ともいうべきこれからの伝承も語られる。オレ様は、と口にするような人はいなかった。自分の自慢話に終始する人の挨拶もなかった。
 休刊号(10月号)と前号(9号)は、『彷書月刊』総目次である。ぼくは書いていたんだ。総目次を追いながら思い出す。ぼくは、3回書いていた。そう、あのことを書いていた。最初の原稿は「缶ビールを持って多摩霊園に」、1997年の1月号だった。「缶ビール」だなんて、今とまったく変わらない、昔のまんまにきているのだ。内容も浮かんでくるのである。

 ——初冬。ぼくは自転車のペダルに力を込める。多摩霊園に向かう。途中、野川公園を通り抜ける。枯れ葉が音を立てる。カサカサカサカサ。……。

 多摩霊園には、時々、行っていた。その後も、よくぶらぶらしてきた。ぼくが憧れるある日本人の墓が、そこにあるのだ。謝恩会の次の夜、日曜日の夜に1冊の本を手にした。『尾崎秀実伝』である。著者は風間道太郎、法政大学出版会が版元で、「1968年10月25日 初版第1刷発行  1976年2月17日 新装補訂版第1刷発行」と奥付にある。555ページもある。定価は2000円。タイトルと著者名は覚えていたが、それ以外はすっかり忘れてしまっていた。
 本を読み終えた朝のことは鮮明に憶えている。読み終えたのは明け方だった。外はまだ暗い。尾崎秀実の墓が、住んでいる家の近くにあることを知ったのである。そこに行こうと思った。そう思ったのである。外はまだ暗闇だ。いくらなんでもひとりで霊園をぶらつく度胸は持ち合わせていない。それりゃあ怖い。陽がでるのを待つことにした。そして、ぼくは多摩霊園に向かった。
 こういう人がいたんだ。読み進むにつれ胸が熱くなり、なかなか眠りにつくことが出来なかった。1976年の初夏のこと。この朝の東の空の橙色と霊園は、ぼくの体にしっかりとしみこんでいる。ジャーナリストであり、中国研究者であり、その全身を戦争の拡大阻止にかけた。世にいう「ゾルゲ事件」で逮捕され刑死である。その夜以来である。
 本を開いた。白いカバーはすでに黄く変色していた。オビはない。あちこちに染みがついていた。口絵の初めは、尾崎秀実の肖像写真である。次ページは、母と一緒の幼年時代の写真や台北第一中学時代の記念写真が並んでいる。めくると、右には第一高等学校受験用の写真があり、左ページは妻と一人娘との家族写真である。その下に墓の写真がそえられている。写真説明は、「墓(多摩霊園 10区甲13側)」。
 そうなんだ。細長い墓がひとつ、ぽつねんとあるだけの墓地だった。いまでは、目に浮かべることは可能だ。しかし、76年の夏はそうではなかった。あの大きな霊園の10区を目ざしたのである。歩き回った。迷子状態である。なんとか、10区のその墓と出会った。その口絵最後のページは、ゾルゲにスメドレーの二人の顔写真だ。

 ぼくは自転車のペダルに力をこめる。歳なんだね。スイスイといかない。野川公園の中を通り抜け、アメリカンスクールの横をいく。歓声が聞こえてくる。サッカーを楽しむ生徒たちのものだ。多摩駅(以前は確か「多摩霊園前駅」だったはずだ)の横のコンビニエンスでサンドイッチと缶ビール二つ買う。12時に家を出たが昼飯はまだだ。
 正門を通り抜け、真っ正面にある塔を目ざした。塔の下が石段になっていて、その石段に腰をおろしてビールを飲む。多摩霊園ぶらぶらの、ぼくのいつもの行動だった。ここから、右手に山本五十六の大きな墓がすぐそこにある。その隣は東郷平八郎だ。並んで眠っている。ぼくはハムカツサンドをほおばり、ビールを飲む。人の姿は見えない。見上げると雲のない冬の空だ。烏もいない。犬もいない。ここまですれ違う人もいなかった。ゆっくりゆっくり昼飯を楽しむ。
 正面の方から婦人が二人、こちらに向かって歩いてくる。一人の女性は箒を手にしている。私服姿だ。霊園、というと、ぼくはある妄想に襲われるのだった。小高い所にある小さな霊園。そこに行くには、少し急な石段を登るのだ。ぼくは歩き出している。中段あたりだ。見上げると喪服の着ものに身を包んだ若い女性が降りてくるのだ。一人静かに、悲しみを押し包むように降りてくる。すれ違う。そんな妄想である。遠い昔から抱いていた。だが、一度もない。バカですね。ビールを流し込む。後ろの方から声がしてきた。三人のおじさんたちが現れた。リックサックを背負っている。「ほら、山本五十六だよ」「ああー、東郷平八郎の墓だ」「坂の上の雲、だよ」。携帯電話で写真を撮り始めている。そういえば、先日、新聞記事で読んだよなあ。多摩霊園めぐりがブームだ、という。
 10区の墓地に急ぐことにした。自転車を走らす。10区はしっかりと頭に入っている。
『尾崎秀実伝』口絵の墓の写真は、「尾崎秀實之墓」だった。ぼくの前にスーっと立っている墓は、新しく「尾崎秀實 英子之墓」とある。自転車のかごの中にいれてきた本を開いて気がついた。あの夏の朝はどうだっただろう。思い出せない。「一九四四年十一月七日」。と、刻み込まれている。墓の前の黄色い菊が目にスーっと入ってくる。南天の下の葉が赤く色づいている。人の声も烏の鳴き声も聞こえてこない。冬の日差しも暖かい。
 ぼくは気分がザワザワしてくるのであった。いつものように、ここにくると落ち着かなくなる。尾崎秀実はジャーナリストであったのか。中国研究者であったのか。反戦主義者であったのか。ここに立つと考えるのだ。あの理髪店のシンボルのように、ぐるぐるぐるぐる回るだけの問い。日本政府が抱える高度の情報を分析し、それをゾルゲに渡す。それは、ゾルゲからスターリンに。いまでは、もう常識であるが、日ソ間の戦争を回避させたのである。そして検挙された。「国際諜報団」だという。
 今日は本を開いてみた。最後の章は、「二六 一九四四年十一月七日」。著者は書き記るしている。

「一九四四年十一月七日の東京は、三年まえに尾崎が自宅から警察へ連行されたあの日のように、朝から明るい日の光が地上にさしていた。
 尾崎は朝食がすむと、筆記室へ行かせてもらった。その狭い一室にすわって、かれはいつものように妻へのはがきを書いた。文面のおわりに、

——近来警報頗る頻々、ますます元気で内外の情報に敢然対処することを祈つてやみません。
 寒さも段々加はつて来ます。今年は新しい薪炭も一層不足で寒いことでせう。僕も勇を鼓して更に寒気と闘ふつもりでゐます。
  昭和十九年十一月七日朝
英子殿」

 同じ日に処刑されたリヒャルト=ゾルゲも、ここに眠っている。この日、11月7日はロシア革命記念日。尾崎秀実は43歳。
 最後の章を読み進んだ。尾崎は、墓地を購入することを禁じていた。所持金が乏しいというのが、その理由だった。残される家族を思ってのことだった。三回忌がめぐってくる年、妻の英子は多摩霊園に墓地を購入する。遺骨をそこに収め、尾崎が好きだった梅の木を一本植えたという。著者は、尾崎の一高時代からの友人であったことも改めて思い出した。この伝記は、ライフワークだったという。
 墓地の梅の木に触れてみた。缶ビール二本では足りなかったなあ。ぼくはつぶやいて、ゾルゲの墓地に向かことにした。空はまだまだ高い。静寂につつまれている。

中川六平(なかがわ・ろっぺい)