その7 「タクシーで、この病院に行ってください」

 入院してしまった。1月の終わりから2月の初め。10日間だが、病院はやはり病院だと痛感する。病室はガン患者と高齢者であふれていた。3年前の初冬に入院してからの病院生活だが、ガン患者と高齢者に囲まれたのは初めてだ。いやーすごいね、病院は。そう思った。

 腹が張り出した。昼過ぎから腹痛が始まる。少し歩けば痛みも治まるだろう。買い物がてら1時間ほど歩くことにした。痛みはきつくなるばかり。不吉な予感に襲われる。
 アレだな、と思った。腸閉そく。2回もこれに苦しんだ経験がある。痛みは、苦しさは記憶にくっきりと刻み込まれている。体は忘れない、ですね。
 初めは13年前の正月だった。4日に入院、そのままICU病室に運ばれた。深夜の病室のベッドには、それぞれの患者の脈拍を測る器具だけが明るかった。そこだけが灯がともっている。トイレに駆け込んだ。胃から未消化のものがトイレの壁一面に広がった。明け方だった。これに救われた。手術はしないですんだ。2度目のそれ。手術もしていないのに、腸閉そくになるなんて珍しいケースです。医者も困惑を隠さなかった。下剤がすぐに効いて、入院することなく家に帰ることができた。そんなことが浮かんできた。
 夕方、自転車で病院にかけつけた。

 緊急患者用のベッドに横になっている。右手手くびのすぐ上には点滴用の針が刺さっている。「水分補給です」。若い男の医者がそう話し、女の看護師が針を入れた。それから2時間である。採血はすみレントゲン撮影も終え、「腸閉そく」と診断された。予想通りだった。といっても何もいいことはない。胃が左右から圧迫され、上下に激しく動きだした。痛みの間隔も早くなってくる。いままでなかったことだ。やばいなあ。
 病室の時計は11時を回っている。病院に駆け込んでから6時間だ。東京は多摩地区にある総合病院である。若い医者が顔を出し話しかけてくる。
「腸閉そくの原因がわからないんですね。CTをとりましょう」
 造影剤を体に流し込み、患部を輪切り状態にするレントゲンのようなもの。もう何回も経験すみだ。ガンについての検査にいいという。肝臓ガン検査で、年に3回ほどCTだった。この造影剤注射器は大きい。そこから造影剤が体を流れていく。すぐに尻が熱くなるのだ。最近は、この熱さが心地いい。快感に近い熱さ。もちろん、そんなこと口にしたことはない。
「造影剤で副作用が出たことがありますか」「ノー」
「今まで腎臓病と診断されたことがありますか」「ノー」
 同意書に答えサインする。

「どうして、わたし、ここにいるの」
「おまえが背中が痛いというので、ここにきたじゃないか」
「おぼえていないわ。早く帰りたい」
 向かいのベッドの会話が聞こえてくる。老夫婦である。夫がしきりになだめている。
「検査がすめばすぐ家に帰ることができるよ」
「検査、こわい。早く家に帰りたい」

 CT検査がすみ、ベッドに戻る。そんな会話が続いている。緊急患者用ベッドは埋まっている。あちらからこちらからささやくような会話が押し掛けてくる。
 医者がレントゲンを持って横に立っている。「小腸に異常があります」。そしていう。
「病院にベッドがあいていませんので、他の病院を紹介します。これからタクシーで行ってください、タクシーで」
「タクシーって、どういうことですか」ぼくは自分の耳を疑った。
「……」
「これから紹介状を書きます」そう言い残して、医療スタッフ用の部屋に戻って行った。看護師にたずねる。
「タクシーで行くんですか」
「最近は、近い病院を紹介するときはタクシーなんです」
 いつもの出来ごとを話しているような、とても滑らかで慣れた口調が返ってきたのである。「タクシーで深夜の病院のはしごですか」。ぼくはそういっていた。「夜の病院はしご」。
 腹は痛いし腹は立つし。タクシーを拾うしかない。

 中央線の反対側の病院。レントゲン撮影に採血、検診である。若い女医だった。幼い子どもを連れた若い夫婦3組とすれ違う。インフルエンザに違いない。旦那が子どもを抱きかかえていた。ぼくの診察は一時間、ベッドに横になったのは午前3時だった。看護師の控え部屋の前で患者はぼく一人。もう眠りたい。

 この日から5日間、「禁食」という文字は消えなかった。水もダメ。ひたすら点滴である。あとは、朝に昼に夜、看護師はぼくのお腹に聴診器をあてる。そのたびにたずねてくる。
「ガスは出ましたか」
「痛みはどうですか」
 水分補給の点滴に、ときどき、鎮痛剤の点滴が加えられる。ベッドから降りるのは、トイレとレントゲン撮影のための移動のときだけ。あとは仰向け。天井を見上げてボーっである。本を手にすることもテレビも見ないことにした。そういうことはなし。そう思った。
 向かいのベッドは、前立腺のガンだという。隣のベッドは膀胱ガンだという。斜めのベッド、こちらも前立腺のガンで、今回の入院で人工の膀胱にしたと言う。病院のこのフロアは、消化器外科と泌尿器科だ。四人部屋である。患者の病名も名前を覚えるのは早い。なにしろ、1日4回の検診。体温計に血圧、そして食事の状態にトイレの回数など、そのたびに、患者の名前が呼ばれる。それに、午後になれば見舞い家族との会話が聞こえてくる。
 天井を見上げ、点滴のビニール袋からゆっくりと落ちてくる水滴を見ている(退院するまで、500mlの点滴注射は21袋)。病室での小さな声だけが流れてくる。

「仙台、いまどうなっているのでしょうかね」
「うん、そうだねえ」
「なになにちゃん(孫の名前のようだ)の音楽発表会、これじゃあ、あなた、見にいけないね」
 向かいのベッドからだ。仙台の家をそのままにして、息子さんの家に来ている。息子夫婦が共稼ぎ、その一人娘で孫の面倒をみるということで東京にきた。東京で暮らし、もう5年になる。
 朝食に重湯が出たぼくの入院6日目、この患者さんは退院していった。あとは時々、通院だけですみそうです。笑みを残していった。

 10月から入院しているという。膀胱ガン手術の隣の患者だ。術後がよくない。夕方の5時になると、奥さんが見舞いにやってくる。息子が2人。四〇をすぎたばかり。
「まだまだ、これから働かないだめだね」
「そうだね、ウン」
 夫婦の会話も耳になじんでくる。この患者さんだけが四〇代。

 フロアには15室あり、そのうち4部屋が個室。満室状態は続く。ラッキーでしたね、中川さん。ちょうどここ空いていたんですよ。看護師が教えてくれた。
「患者の平均年齢は?」
「すごいですよ」の一言だけ。
 トイレにいくときにすれ違う。ほとんど、いや、全員がぼくより年上に見える。実際、そのようだ。6日目の夕食は三分かゆに。梅干しにホットレモン、薄い野菜スープ。消灯は9時30分。元気がでてくると、眠れなくなってくるのだ。頭も動き出す。
「外を歩きたいなあ。冬空の下を思い切り歩きたいなあ」
 インドに行かなくても考える。考えることしかない。六〇歳まで生きている。そんなことは考えたことはなかった。昨年六〇歳になったとき不思議な感覚に襲われた。よく生きてきましたね、と自分に声をかけた。体から何かが抜けて行くようだった。定年もなければ、年金も雀の涙である。生きていく限り働かないといけないなあ。こうも思った。二〇歳の頃、三〇歳代の頃、四〇歳になっても、自分の六〇歳について、それからのことに思いをはせたことはなかった。まあ、その日暮らし。その頃に、六〇歳になる自分と重ねて合わせて日々を営んでいたら、どうでしたか。ふー、変わらないだろうね。その日暮らし、だった。でもさ、自分も歳をとっていく。そう考えていたら、すこしは周りにやさしくなっていたかしら。それはないなあー。
 そんな日の午後だった。午前中の診察が終わり、昼飯がすむと、実にノンビリ感がただよう。いつもと違う日々という緊張感が途切れる。間の向けた解放感に襲われる。そうなんだ。眠くなるのだった。
 退院する前日。トイレから戻ると、薄いピンクのパジャマを着たおばあさんがベッドに横になって寝ているのであった。白髪に少し額が隠れている。悪くない寝顔だが、ここはぼくが横になるところだ。病室の他の患者は気がついていない。このまま、彼女の横に滑り込んでいくわけにはいかない。白髪のおばあさん。口を少し開けている。部分入れ歯を外している。どこで見ただろう。隣の病室じゃあないや。このままで寝ていてもらおう。それがいいや。看護師を呼ぶのを止め、ぼくは待合室に向かった。この歳になっても、病院でも、予期できないことに囲まれている。急に腹痛を感じたように。タクシーで行くようにと医者にいわれたように。
 井伏鱒二『駅前旅館』か『集金旅行』が読みたくなった。登場人物一人一人、それぞれの顔をもっている。

中川六平(なかがわ・ろっぺい)