その8 GWが終わり、一枚のコピーを前にして(気がついてのパート1)

 ゴールデンウイークだった。
 5月最初の日曜日午後2時、東京は吉祥寺「いせや」で飲んだ。その週の水曜日も「いせや」に足を運んだ。日曜日の店内がすごく混んでいた。そこで待ち合わせを2時間繰り上げ、午後の3時に早めたがすでに列ができていた。ようやく店に入ることができ、今年のゴールデンウイークは「いせや」だな。そう思った。こうしていられることがうれしい。

 日曜日は宮里くんに前田くん。早く着いたので吉祥寺駅ビルの本屋で立ち読み。月刊『ラグビーマガジン』を手にした。現役選手としてジャージを着ることを止めた選手の特集ページがあった。神戸製鋼の後藤がそこにいたのに驚く。三十歳前なのに引退ですか。この選手が好きだった。早稲田大学のときからだ。
 スクラムハーフでパスさばきがうまい。小柄の体を跳ねるようにしてダイビングしボールをパスする。相手の陣営と味方のラインを瞬時に判断、素早い動きでFWとBKをコントロールしていくのだった。桐蔭学園から早稲田に入りレギュラーの座をすぐ取ったと思う。神戸製鋼に入社し新人王に選ばれたと思う。スピードだけが売りのジャパンラグビーに、この後藤翔太は必要不可欠と思われた。ケガに見舞われた。しかも首のケガである。ケガには勝てなかったんですね。今後は、日本のラグビーに少しでも貢献していきたい。そう話していた。自分の体験を伝えていきたい、と。経験という楕円のボールのパスですね。うれしいねえ。

 携帯電話が鳴った。宮里くんだ。混んでいるので2階にいますよ。そう言う。二階座敷席の隅に二人は坐っていた。ぼくよりふた回りも年下の編集者である。こんなボケおやじとつきあってくれる、数少ない若い人だ。口にしたことはないが、ふと、そう思うのだった。一階も満員、二階の広い座敷席も人であふれている。二階で飲むのは初めてだね。で、ビールで乾杯。いやいや、みんな元気でなにより。エラそうに、そう話していた。ビールが焼酎のお湯割りになっていた。なんやかんやこんなあんな、と話していた。
 こんなあんな、は水曜日も同じだった。元四谷ラウンドの社長・田中さんにそのスタッフだった女性だ。一階奥のテーブルも満席。若いカップルに家族連れ。一目であやしい雰囲気を漂わせているカップルもいる。テーブルの向こうが変わっても酒は同じ。ビールからお湯割りに。話題もいきつくところは同じだった。福島原発である。「いせや」のゴールデンウイーク。話した内容はすっかり忘れてしまったが福島原発について、ということだけは覚えている。

 山椒魚が気になっていた。
「3・11」、とくに福島原発事故(事故というと、原発の破局という圧倒的な現実感が薄れてしまうのだが)と日々つき合うことになってしまった。そんなある日だった。井伏鱒二の『山椒魚』がヒョイと浮かんできたのである。野川公園のベンチで一人、どこまでも青い空を雲を見上げているときだった。デブになり岩屋から出ることができなくなった、あの山椒魚が気になった。浮かんできては消えなくなった。ぼくらはあの山椒魚状態になっているのかしら。そんな妄想に襲われたのである。井伏の山椒魚が広がってくる。ゆっくりとゆったりと川とたわむれ、水をたのしむことができなった。そんな山椒魚である。デブの山椒魚に重なってきた。
『山椒魚』の再読を決めた。ゴールデンウイークも終わる週末だった。
「山椒魚は悲しんだ。」
 書き出しだった。井伏さんはここから歩きだしている。読み進む。短編だけにすぐに終わった。いつ以来かしら。ああそうそう、あの人とデートしていたから二十代が終わるころだった。井伏さんの山椒魚である。「岩屋の囚人」であることを拒否しようとしていたんだね。そのことは忘れていた。デブの山椒魚だけが残っていた。山椒魚は、指をくわえているだけではなかった。棲みやの岩屋から外へ出ようと試みる。頭が出口につかえる。頭はコルク(原作はゴロップだ)の栓状態、つまり出入り口を塞ぐコルクになっていた。
「何たる失策であることか!」
 そうつぶやくがめげないのだ。
「くったくしたり物思いに耽ったりするやつは、莫迦(ばか)だよ。」
 力をふりしぼって出口に突進する。何度も試みる。徒労の繰り返し。
そこに一匹の蛙がまぎれこんできて、奇妙な同居生活が始まった。そして口論が交わされる。
「お前こそ頭がつかえて、そこから出て行けないだろう?」
「お前だって、そこから出ては来れまい。」
「それならば、お前から出て行ってみろ。」
「お前こそ、そこから降りて来い。」
 ラストシーンだ。いまのぼくらと似ている。デブになってしまった山椒魚だ。

 月曜日だった。大型連休も終わったという(ぼくの日々はいつもこれだから始まりも終わりもない。いいのかしら)。宮里くんから手紙が届く。コピーだった。「図書新聞」2011年4月23日号。「関曠野氏が語る、東日本大震災と原発事故」。白抜きの文字が見える。なるほど、そういうことか。「いせや」での断片を思い出した。福島、である。宮里くんが話した。図書新聞、読みました。関曠野の論文、おもしろいですよ。関曠野? うーん。思い出した。ソ連が崩壊したときに一度お会いしたことがある。共同通信にいたと思う。人口問題を軸に世界を語った。ソ連崩壊を人口問題中心に話したんじゃないかしら。そんなことを言う人は意外だった。ぼくはそう応えていたと思う。コピーを読みだす。
 読み初めてすぐに思った。ぼくは相変わらずの勉強不足だなあ。関さんの名前も「図書新聞」もすれ違う場所にいたんだなあ、ということだ。編集者もジャーナリストであるなら、広い視野に立つのは当然のこと。すっかり怠惰になってしまった。関さんの論文に驚いていた。書き出しから立ち止まってしまったのです。新鮮な驚きでした。
「反原発派の一人として福島原発の破局(! ぼくがいれました)を許してしまったことは痛恨の極みと私は言うしかない」
 福島原発についてこんな言葉を目にするのは初めてだった。新聞にテレビ、数少ないブログとツイッターがぼくの情報の窓口だ。デブのぼく。これまで、「原発賛成対原発反対」というイデオロギーの対立が原発論議を不毛のものにした。そんなセリフばかりが目立っていた。「右翼と左翼」という区分わけのようだった。そこから自由な言葉に出会うことがなかった。関さんは違うのだった。自分個人の歩みとその責任を口にしている。
「反原発派の一人として」
 この一言は、この国を超え世界の多くの人たちに響いていくと思う。そういう問題なのだ。「痛恨の極み」。個人の感慨だけで福島原発を語らないぞ、という気迫がここにあると思った。関さんの話は実に具体的だ。21世紀の始まりに起こり、現在進行中の大惨事を前に冷静なのだった。

◎原発事故はフィジカルな打撃である以上に、耐えがたいメンタルな出来事である。事故でわかったのは、人びとの不安とストレスが異常に高まっている。この事実を無視して、今後は原発を論じることはできない。
◎再生可能エネルギー(風力、太陽光、地熱)の役割は補助的なものにとどまっているが、この再生エネルギーの発電能力に合わせて社会構造を変えていけばいい。大都市の人口を国土に均等させ、集中と集積から分散と多様化への転換である。イリッチの「エネルギーと公正」は今こそ読み返すに値する。enerugy and equity でネットを検索すると全文をよむことができる、とも書きこんでいる。
◎利子と負債の銀行マネーを公益事業として発行し、それを管理される公共通貨に置き換えて、ベーシック・インカムによって清算と消費をマクロで均衡させる(クリフォード・ダグラスの社会信用論)。今、東北が必要としているのは、被災者に対する月八万円程度の一律無差別なベーシック・インカムの支給である。被災者を支え、地域経済を速やかに再生させる。銀行マネーの使い方法である。
 そして、こう話しかけてくる。
「東北の被災地の人々と東京の原子力エリートとの対照」
 強靭で気品のある東北の民衆。グロテスクな東電の幹部に原子力ムラと政府高官。この対照の意味するところは、地震銀座の日本がなぜ世界3位の原発大国なのか。この問題にいきつく、という。細部に神は宿るんだなあ。改めてそう感じた。
 事故原発はアメリカのGE社の製品である。地震を軽視した設計だという。この製品をどうして福島県でそのまま稼働してきたのだろう。これは技術評価の問題ではなく、アメリカの企業文化に対する盲信や崇拝の問題であり、

「六〇年代に着工した福島原発には戦後日本そのものの刻印が押されている。経済成長至上主義の戦後日本の社会はアメリカの企業文化と最新技術を見境なく直輸入することによって成立したものだった」

 アメリカ合衆国のお腹にい続けている。戦後からいまだに。そういうことだと思った。そして、書き写しながら、ちょうどいま手にしている本を思い浮かべた。鶴見俊輔座談6の『家族とは何だろうか』。晶文社にお世話になっていたとき、編集に関わったシリーズである(1996年刊)。今年から自分が携わった本をゆっくりと読み返している。いや、そうではなかった。本、として読むことにしたのだった。この『家族』に、鶴見さんが高畠通敏さん(政治学者)と日高六郎さん(社会学者)と語りあっている原稿も収めていた。1979年の座談で、テーマは「管理社会と家族」だった。

と、ここまできてしまい、あまりに長すぎることを知りました。ここまで読んでくれる人がいたとして感謝します。そして、この項続く、です。宮里くんの口調ですが、関曠野論文おもしろいですよ、です。早めに続きを、と言い聞かせています。すいません。

中川六平(なかがわ・ろっぺい)