第3回 桜鯛の刺身に桜鱒の焼き物、穴子の桜蒸し

×月×日 人間70を過ぎると、人名や地名がさっと出てこない。特に人の名前が困る。出版各社OBの先輩編集者、数名と会食したさいにある女性作家の名前がどうしても浮かんでこない。
 代表作の名前はすぐに出た。おそらく全員が読んでいるだろう。早世した親しい女性作家や関係を噂された男性作家の名前なども全員が知っていた。作家になる前に勤めていた出版社の部署まで全員が分かっている。なのに肝心の姓名は、最後まで誰一人として思い出さなかった。
 分かったのは、全員がその作家を好んでいなかったということである。

×月×日 文京区の白山にあるイタリア料理店「ヴォーロ・コズィ」のシェフ、西口大輔さんから、『本当においしく作れるイタリアン』(世界文化社)を恵投いただいた。
 北イタリアで修業した西口さんの料理は、大胆にして繊細だ。前菜の中の一品として、いつも出るタコのサラミ仕立ての作り方もちゃんと載っている。このタコ料理の発想は、日本人から絶対に生まれない。
 イタリア料理の特徴は、フランス料理に比べて肩ひじ張らなくても、気軽に食べられるところだ。同様に気軽に作ってみようと思えるところがいい。前菜、パスタの作り方から、メインディッシュ、デザートの甘いお菓子に至るまで、これ一冊あれば作ってみようという気が湧いてくる。読んでも堪能できるし、イタリア料理店へいく楽しみも増える。
 編集者の名前を見たら、河合寛子さんだった。イタリア料理の本を作らせたら、現在彼女の右に出る人はいない。最強のコンビだ。

×月×日 有楽町の朝日ホールで、「落語名人会」。古今亭志ん朝の弟子で、9月に志ん陽の名で真打に昇進する朝太の「粗忽長屋」、柳家三三の「花見の仇討」、古今亭志ん橋の「厩火事」。中入り後の「食い付き」が立川生志の「井戸の茶碗」、トリは、柳家さん橋の「明烏」。
 いずれも、仕草や口調に師匠の姿が映るところが、落語の面白さだ。世の中、落語ブームといわれる。スポーツでも芸能でも、楽屋落ちというか、表舞台には出ない仲間うちの話題を取沙汰するようになると、ブームの始まりで終わりと言えるのではないか。
 落語の場合、まくらや噺の途中でやたらと仲間の失敗や愚行を披露したり、悪口を言い募って笑いを取る噺家が見受けられる。テレビ番組「笑点」の悪い影響もある。観客は笑っているが、落語の本質的な笑いとは違う。噺家も観客も気が付いていない。

×月×日 国立新美術館で「春陽会」展と「セザンヌ パリとプロヴァンス」展を鑑賞。国立新美術館が開館5周年を迎えた記念展。セザンヌは「リンゴ一つでパリを驚かせたい」と言ったと伝えられるように、「リンゴの画家」だ。モデルに対して、「リンゴのように動かず、じっとしていろ」と命じたそうだ。
 雨天だったため、混雑せずに、ゆっくりと観られた。人出の多いところに出かけると、疲れるようになるのは、老化の第一歩だ。
 
×月×日 アメリカのナスダック市場に5月からフェイスブックが上場されるというので、大騒ぎだ。すでに関連銘柄も注目されているらしい。東京新聞のニューヨーク特派員の報告によれば、「月間利用者数は、今年の3月末で9億100万人に達し、サイトに書き込まれるコメントは1日に32億件。掲示される写真は3億枚を超える」そうだ。
 「週刊東洋経済」によれば、「今年中に、インターネット人口20億人の半分、つまり10億人を上回る。また、コメントや投稿に好感を持ったときの<いいね!>マークをクリックする数は、毎日27億回以上」だとか。
 <いいね!>マークは、もともとの英語は、「ナイス」というらしい。ニュアンスは、微妙に違う気がするけれども。

×月×日 築地市場にすっかりはまりこんで、活躍しているフリーライターの福地享子さんと、銀座の「いまむら」へ。「dancyu(ダンチュウ)」に連載している「築地、旬ばなし」が好調だ。5月号は、シロエビと新タマネギを紹介している。
 二代目の今村英太郎さんが作る料理は、桜鯛の刺身、桜鱒の焼き物に、穴子の桜蒸しなど。桜の若葉は視覚と嗅覚で味わう季節の味だ。相変わらず、けれんの無い直球勝負。
 かつては1500軒近くあった仲卸はとうとう700軒を割ったそうだ。築地市場の閑散ぶりは、すっかり定着してしまい挨拶にも枕詞にもならない。売れない、売れない、という割に、魚の値段が高い。売れないから、高くなり、高いから売れなくなる。悪循環だ。
 友人の仲卸は、「この商売を止めたら、高くて魚なんか食べられなくなる」とぼやいていた。当事者だけに、切実な響きがある。
 
×月×日 官僚用語に「……と考えてございます」がある。普通なら、「……と考えております」とか「……考えて、施策(建築、立案)いたしました」というところだ。
 曖昧な表現にしておいて、何か突っ込まれたさいの逃げ道を用意しているのかもしれない。本庁の高級官僚ではなく、出先機関や支所、地方自治体の課長補佐とか主任クラスがよく使うようだ。別に彼らを下に視るつもりは、まったくないのだけれども。

×月×日 渋谷駅の東側、宮益坂横の東急文化会館跡に複合商業施設「ヒカリエ」がオープンした。NHKが、大きく取り上げている。「渋谷駅の向こうに……」は無いだろう。それは、NHKから見れば、「駅の向こう」だろうけど。
 洋菓子の「パティスリー・サダハル・アオキ・パリ」、「ヨロイヅカファーム・トーキョー」、パン屋の「ル パン ドゥ ジョエル・ロブション」に長い行列。この人気は、いつまで続くのか。一瞬、「日本は不景気」といわれる根拠と正当性について、考える。(12・5・2)

重金敦之(しげかね・あつゆき)

1939年東京生まれ。元朝日新聞社編集委員。「週刊朝日」編集部在籍時に池波正太郎、松本清張、結城昌治、渡辺淳一など多くの作家を担当した。大学教授を経て、文芸ジャーナリスト。食の分野にも造詣が深く、料理に携わる人たちからの信頼も厚い。日本文藝家協会、日本ペンクラブ、食生活ジャーナリストの会、各会員。『すし屋の常識・非常識』(朝日新書)のほか、『作家の食と酒と』『編集者の食と酒と』『愚者の説法 賢者のぼやき』(いずれも左右社)。最新刊に『食彩の文学事典』(講談社)、『ほろ酔い文学事典』(朝日新書)。