第11回 ヘミングウェイ、フィッツジェラルド、マン・レイ、T・S・エリオット

×月×日 ウディ・アレンが監督した映画「ミッドナイト・イン・パリ」を渋谷のル・シネマで。アメリカ人のハリウッドの売れっ子脚本家、ギル・ペンダーはパリを舞台にした小説を書こうと意気ごんでいる。婚約者の両親と一緒にパリの高級ホテル「ブリストル」に泊まっているが、彼は1920年代のパリこそが、あらゆる芸術家にとっての「黄金の時代」であると信じてやまない。
 懐古趣味あふれ、「古き良き時代」を信奉するロマンティストのギルは、深夜12時になると、憧れの1920代のパリにタイム・スリップした。
 まず出会ったのは、作曲家のコール・ポーター、作家のスコット・フィッツジェラルド、アーネスト・ヘミングウェイといった「失われた時代」の「ヒーロー」たちだ。
 ギルの小説を読んだヘミングウェイや作家で多くの画家を発掘したガートルート・スタイン女史は「まるでSF小説のようね」という賛辞を贈った。ギルはもう有頂天だ。
 パブロ・ピカソを知り、サルバドール・ダリたちと一緒にカフェでワインを飲んだ。さらに、マン・レイやT・S・エリオットとも友人になった。
 ピカソの愛人、アドリアナと二人で、さらに19世紀末の「ベル・エポック」までタイム・スリップしてしまう。マキシムで踊り、ムーランルージュでロートレックとフレンチカンカンを観る。アドリアナは退屈な1920年代より華やかなベル・エポックに居続けたいという。
 1920年代こそ最高だと興奮するギルに、ロートレックやドガたちは、「俺たちにとっては、ルネッサンス期こそ最高だ」と返される。
 ギルの頭のなかは混乱するばかりだった。 映画の特性を十二分に生かした、まさに楽しい「ロマンティック・コメディ」だ。 

×月×日 常盤新平さんの『たまかな暮し』(白水社)を読む。離婚した父と暮らす悠三は薄給の出版社に勤めている。母娘で小料理屋をやっている娘のやよいと所帯を持つことになった。
 決して贅沢な暮らしではない。しかしひがんで、へりくだることもない。悠三は「歳時記」をはなさず、気に入った俳句をノートに書き留めておく。
「たまかな」という言葉はあまり目にしないが、「つつましく、質素に、誠実に」といった意味だ。「派手、虚飾、うわべ、見せかけ」といった言葉とは対極にある。
 食べる物は手を抜かずに、やよいは母から貰って来た店の材料などを上手に料理する。
 たまの贅沢は、悠三が気に入っている渋谷のビストロや浅草のそば屋などに出かけることだ。妻に美味しい料理を作ってもらおうと思ったら、外の美味しい店の料理を食べさせなくてはいけない。
 常盤さんが師と仰ぐ、池波正太郎や山口瞳の風貌や語り口が文章の行間に浮かんでくる。声高に人生を論じるわけではなく、美味い料理屋を大声で吹聴するわけでもない。その落ち着いた姿勢が「たまか」なのだ。
 池波正太郎の晩年の傑作『原っぱ』(新潮文庫)の世界につながるというのか、「その後」というのか、大人の食生活と家族の理想像が描かれている。
 ところで、カバーの帯の惹句に大きく「たまさかの、ちょっとした贅沢……。」とある。なぜ、「たまか」と「たまさか」の似た言葉を並べたのかが分からない。両者に意味に関連は全くない。折角の「たまか」が死んでしまった。編集者のセンスがおかしい。

×月×日 「落語研究会 昭和の名人」の第4巻を、銀座の東劇で。TBSが所有している、貴重な映像を映画化したもの。今回は、6代目笑福亭松鶴の「高津の富(こうづのとみ)」に5代目柳家小さんの「試し酒」、6代目三遊亭圓生の「猫忠(ねこただ)」、5代目桂文枝の「猿後家」の4本。
 それぞれ名人としての風格がある「芸」になっているところが、若い人の落語と違う。
 小さんが1升ずつ5杯の酒を飲み切るのに、少しずつ酔っていく変化が見どころだ。小さん自身も大変な酒豪だったらしい。深酒をした翌朝でも剣道の稽古を欠かさなかった。

×月×日 月刊誌「料理通信」(発売・角川春樹事務所)の巻末コラム、「食のコラム」が面白い。筆者は、飲食業コンサルタントで、同誌編集顧問の齋藤壽さん。8月号では、「料理人は、自分が作った料理を、一度食べてもらいたい」と提言している。
 料理人は味見のためにちょっとは食べてみるかもしれないが、一皿すべてをお客が食べる同じ環境で同じ量を同じスピードで食べてみて貰いたい。そこで初めてお客の目線を意識できる、と説く。
 加えて、料理人はレントゲン写真を観るように、料理の皿を「解剖図」として分析しながら食べるのは得意だが、それでは皿の「おいしさ」は見えてこないのではないか、というのである。まさに卓見だと思う。

×月×日 近著『愚者の説法 賢者のぼやき』(左右社)の最終校をチェックしている。編集者から指摘されたのだが、私の文章は読点が多い。個人の好みとクセともいえるが、ウエブの文章は読点が多い方が読みやすいのではないか。
 ほかのウエブの画面を見ても、あまりに長く読点が少ない文章は読みにくい気がする。
 それとワードで変換する時に、変換が適切に行われているかが気になって、文章の途中で変換してしまうのも、理由の一つかもしれない。一つのセンテンスを頭の中で完成させてから原稿用紙に書け、と文章作法の常道にある。
 変換のタイミングをどこで取ったら良いのか、研究してみたい。(12・7・13)


重金敦之(しげかね・あつゆき)

1939年東京生まれ。元朝日新聞社編集委員。「週刊朝日」編集部在籍時に池波正太郎、松本清張、結城昌治、渡辺淳一など多くの作家を担当した。大学教授を経て、文芸ジャーナリスト。食の分野にも造詣が深く、料理に携わる人たちからの信頼も厚い。日本文藝家協会、日本ペンクラブ、食生活ジャーナリストの会、各会員。『すし屋の常識・非常識』(朝日新書)のほか、『作家の食と酒と』『編集者の食と酒と』『愚者の説法 賢者のぼやき』(いずれも左右社)。最新刊に『食彩の文学事典』(講談社)、『ほろ酔い文学事典』(朝日新書)。