第16回 キャビアとそば粉のブリニ。平目のカルパッチョ、フォアグラ、牛のほほ肉の煮込み

×月×日 直木賞の選考経過を「オール讀物」9月号で読む。渡辺淳一委員は、今回の結果に疑問を呈している。「受賞作なし」を主張したようで、まだ納得がいかない様子だ。
<現在の若い人は心底、心に沁み込み、どうしても小説として表現したいと思うほどの自己体験を保持していないのではないか。>
 と述べ、その体験がないのは、現代の作家の生き方が、平穏で、安定しすぎているからではないかと鋭く指摘している。ならば、それは作家に限ったことではなく、あらゆる分野で言えることだろう。
<本質的に作家として書くべきものがなく、表面だけ作家的作業をしている。>
 受賞者の挨拶に、「藤子不二雄先生のドラエモン」が出てくる時代なのだ。渡辺淳一委員が、不機嫌になるのももっともな話だ。

×月×日 拙著『愚者の説法 賢者のぼやき』(左右社)で、最も反響が大きかったのは、「そこのけそこのけ ベビーカーが通る」と「絆の氾濫」だった。
 我が物顔で、エレベーターや電車の中を猪もどきに突進する若い母親(「ヤンママ」というらしい)への風当たりが予想以上に強かった。特に女性から「共感」が多数寄せられた。「女性の敵は女性」という言葉が一瞬頭をよぎった。やはり、女性同士で、足を引っ張りたがるのだろうか。女性は同性に対して、常に厳しい眼を向けているのだ。
 「絆」の氾濫にも、多くの人はうんざりしたようだ。やはり、どこかに胡散臭さを嗅ぎ取るのだろう。
 こういう言葉への感性(平たく言えば、言葉の好き嫌い)は、「ドラエモン」からは生まれてこないのではないか。この感性が無いから、渡辺淳一委員のいう「作家的作業」に終わってしまうのだ。

×月×日 さる有名私立大学の理事長と銀座のフランス料理「ボンシャン」で会食。オーナーの吉田照雄さんは、三笠会館の出身で、日本のソムリエの草分け的存在。まだ、ソムリエという言葉が一般的でなかったころからだ。キャビアとそば粉のブリニ。平目のカルパッチョ、フォアグラ、牛のほほ肉の煮込みなど。
 私学経営の難題は多岐にわたる。私も地方の私立大に勤務していたことがあるから、満更わからない話ではなく、共感する部分が多い。

×月×日 第94回全国高校野球選手権大会が終わった。春と夏の決勝戦の相手が同じというのは史上初めてだった。差は僅かでも、大阪桐蔭が青森の光星学院よりすべての面で明らかに上回っていた。
 光星学園の選手の中で青森出身者は18人中わずか2人。なかには沖縄から「留学」している選手もいる。大阪桐蔭は、京阪神、和歌山、岐阜、石川と関西出身者が多い。こんなところにも、両校の差が生まれる理由があるのかもしれない。
 まさに絶頂期というか、大阪桐蔭の黄金時代だ。しかし「盛者必衰(じようしやひつすい)の理(ことわり)」というように、いつかは、落ち目になる時期が来る。
 あの桑田真澄と清原和博がいたPL学園も、2004年と09年に出場してから、このところご無沙汰状態だ。高校だから、3年たてば選手は必ず卒業していく。だから難しい。桐蔭学園は、春の選抜大会で本塁打を打った打者が夏のメンバーに選ばれなかったという。いかに選手層が厚いかが分かる。
 ところで、出身中学の話にもどるが、鳥取の鳥取城北は県内出身者が5人。島根の立正大淞南(しようなん)にいたっては、なんと島根出身者は1人もいない。おかしな話だ。
 例年、閉会式になると茜蜻蛉(アカネトンボ)がフィールドを舞い、風にも秋を感じるのだが、今年はまだ盛夏そのものだった。

×月×日 朝日新聞の「ひととき」欄に町田市に住む48歳の主婦が、投稿していた。花火見物にでも行くのか、若い男性が浴衣を左前に着ているのが気になって、つい注意してしまった、というのである。
 男性は「男と女はてっきり逆」と思ったという。ごく自然に着れば、右手が懐(ふところ)に入りやすいので、問題はない。外人に着せたりするときに間違いが起こる。
 死者に帷子(かたびら)を着せるときは左前に着せる。この「左」というのは、相手から見ての、「右」だ。自分の側からすると、左の衽(おくみ)を前にするのだから、一瞬「左前」が正しいのではないかと思ってしまう。本人(着る人からすると)の身体の手前に右側を持ってくるのだから、「右前」が正しいことになる。くどいようだが、「右を手前」だから、「右前」なのだ。
 和服に限らず、封筒の裏面も必ず向かって左側を先に折ってから、右側をその上に糊付けしてあるはずだ。和封筒はだいたい間違えることはない。角封筒といわれる洋封筒が間違いやすい。蓋(ふた)を上にして、宛て名を横に書けば、なんら問題はないのだが、縦に書いて差出し人を記そうとすると、蓋を左側から閉じていることに気付く。
 結構、教養のある人でも間違える。横書きの場合、普通切手は右上に貼るのがエチケットだ。縦書きなら左上だ。だから、切手の位置を基準に、裏返せば、おのずと蓋は右側に来る。
 書籍の厚さに合わせて、両側から貼り付ける郵送用の厚紙がある。天地は記されていないから、よほど気をつけないと礼を失する場合がある。
 最近気が付いたのだが、市販の封筒で左前の封筒がある。考えられないことで、困ったものだ。こういう生活の慣習、文化を伝えるシステムが全くなくなってしまった。昔は家庭でも、学校でも、行儀作法の一環として教えたものだと思うのだが。

×月×日 ホテルエドモントの中村勝宏名誉総料理長を会長とする「ゴブラン会」の主催で、バリ島の食文化の研究会に参加するため、更新を一週間ほどお休みします。ご了承ください。(12・8・31)


重金敦之(しげかね・あつゆき)

1939年東京生まれ。元朝日新聞社編集委員。「週刊朝日」編集部在籍時に池波正太郎、松本清張、結城昌治、渡辺淳一など多くの作家を担当した。大学教授を経て、文芸ジャーナリスト。食の分野にも造詣が深く、料理に携わる人たちからの信頼も厚い。日本文藝家協会、日本ペンクラブ、食生活ジャーナリストの会、各会員。『すし屋の常識・非常識』(朝日新書)のほか、『作家の食と酒と』『編集者の食と酒と』『愚者の説法 賢者のぼやき』(いずれも左右社)。最新刊に『食彩の文学事典』(講談社)、『ほろ酔い文学事典』(朝日新書)。