第53回 井上ひさし展、穴子豆腐、閖上(ゆりあげ)の赤貝、田沼武能のシルクロード

×月×日 神奈川近代文学館で開かれている「井上ひさし展 — 21世紀の君たちに」へ行く。創作メモや下書き、吉里吉里国(きりきりこく)の地図など、一編の小説が誕生するまでの過程と苦労が分かる。
 学生時代の母親、マスさん宛の手紙やはがきも貴重な資料だ。また目を引くのが書斎に残された450冊ほどの「ファイル」。雑誌の切り抜きや自身によるメモなどが整理されている。タイトルは、多岐にわたるが、「鎌倉を世界遺産に」「農業」「戦争裁判 東京裁判」「ヴェトナム戦争」「原発」などが目につく。
 日本語関係のものもあるのは、言うまでもない。色紙に書いた言葉をひとつ紹介しておく。

 むずかしいことをやさしく
 やさしいことをふかく
 ふかいことをゆかいに
 ゆかいなことをまじめに書くこと
 井上ひさし

×月×日 フリーライターの邨野継雄さんと、中野の「ふく田」。名物「穴子豆腐」、季節の空豆と小柱をかき揚にしてもらう。すぐ近くの「第二力酒蔵」から数えると、50年を超えた。その間、ビールは、朝日麦酒一筋。わざわざ朝日麦酒の社長が来店し、ランソンのダブルマグナムに店の入り口をケーヴィングして、感謝状と共に店主の福田義明さんに手渡したという。
 キリンビールが本社機能を中野駅北口に移転したため、販売競争が熾烈(しれつ)を極めている。区役所などに置かれている飲料の自動販売機も狙われているそうだ。

×月×日 K嬢と自由が丘の「すし処羽生」へ。閖上(ゆりあげ)の赤貝が素晴らしかった。多少、心の呵責(かしゃく)なし、とはしないが、美味しいものは美味しい。これだけの赤貝に出会うことは、一年の中でも、そうはない。もちろん「ひもきゅう」(赤貝の紐とキュウリを海苔で巻く)も、素晴らしかった。東北地方の復興を祈って味わう。
 今、鯵(あじ)もいい。築地の有名高級仲卸がまた一軒店終(じま)いしたそうだ。それにしても、寂しい話だ。

×月×日 北品川のキャノンギャラリーSで、田沼武能写真展「シルクロード 心の旅」を観賞。一昨年訪れた、中国の新疆ウイグル自治区の喀什(カシュガル)、烏魯木斉(ウルムチ)、吐魯番(トルファン)などの懐かしい人と自然が目に浮かんで来た。田沼さんは私より10歳も年上。実に元気だ。ますますの活躍を期待したい。敦子夫人とは、FB友達。

×月×日 どうも最近は政治家の発言が軽くなったようだ。少し古めかしいが、「綸言(りんげん)汗(あせ)のごとし」という言葉を思い起こしてもらいたい。
 綸というのは、組みひものことで、「天子」の最初の一声は糸のように細いが、下に達する時は太くなっているという意味だ。この「天子」なる語が古いから、あまり用いられなくなってしまった。
 誤解されると困るのだが、知事や国会議員などを「天子」と言っているわけではさらさらない。上に立つ人、責任ある立場の人と置き換えれば、それで良い。
 いったん身体から汗になって出た物は、再び身体の中には戻らない。すなわち責任ある人がひとたび発言した言葉は取り消せない、という意味だ。
 ネットでは、ブログやツイッターが問題になると、クリック一つで簡単に削除できる。どうもこのネット上の「削除」と間違えているのではないか。過去に「食言(嘘をつくこと)」や「失言」で、職を辞した人は数多い。最近は、言ったことを「取り消し」さえすれば、責任は問われない傾向がある。「発言が軽い」というのは、そういう意味だ。
 日本維新の会の共同代表、橋下徹大阪市長がアメリカ向けに、発言を「不適切」として、謝罪したそうだが、日本人には、説明しないのだろうか。
 また作家の佐藤優氏が指摘していたが、風俗(フーゾクと書くべきかもしれない)は、英語でなんと翻訳されているのだろう。「従軍慰安婦」もそうだ。これを調べて発表するのが、ジャーナリズムの責任ではないか。(13・5・29)
重金敦之(しげかね・あつゆき)

1939年東京生まれ。元朝日新聞社編集委員。「週刊朝日」編集部在籍時に池波正太郎、松本清張、結城昌治、渡辺淳一など多くの作家を担当した。大学教授を経て、文芸ジャーナリスト。食の分野にも造詣が深く、料理に携わる人たちからの信頼も厚い。日本文藝家協会、日本ペンクラブ、食生活ジャーナリストの会、各会員。『すし屋の常識・非常識』(朝日新書)のほか、『作家の食と酒と』『編集者の食と酒と』『愚者の説法 賢者のぼやき』(いずれも左右社)。最新刊に『食彩の文学事典』(講談社)、『ほろ酔い文学事典』(朝日新書)。