第56回 「フーディ」な日本人、佐野洋さんとなだいなださんの死

×月×日 いまやレストランから居酒屋に至るまで、出て来た料理の写真を撮るのが、ごく普通の光景になってしまった。ほとんどの人がケータイを持っている時代だから、「一億総写真家」の時代と言ってもいい。
 人から聞いた話だが、料理の写真をお客が撮ったら、店の主人が、「写真を撮らないでくれ」と激怒して、言い争いになったらしい。妻の女将が間に入って夫を取り成し、お客にも謝って剣呑(けんのん)になりかけた状態を救った。その女将の態度が素晴らしかったというのである。
 いったん、行き違いが生じたら、どんなに美味しい料理であっても、食卓の楽しさはどこかへ行ってしまうだろう。撮りたいお客の気持ちも分からないではないし、撮られたくない料理人の気持ちもわかる。
 かつて、奇妙奇天烈(きみょうきてれつ)、邪道の極みともいうべきとんかつ(例を挙げると、「ギョウザとんかつ」とか「納豆とんかつ」など)を出す店で、店内に張り出されている品書きを手帳にメモしていたら、女将から「止めてくれ」と言われたことがある。他にいたお客の手前、黙っていたが、どこか考え違いをしているのだ。
 料理の写真を撮る行為も、客と店のあいだの問題だけではなく、その場に居合わせた他の客の心情を思いやる必要があるのではないか。隣で、やたらと写真を撮っているのを嫌う人もいる。だけど、写真撮影の機能が進歩したから、よく取れているのには、讃嘆のほかない。次第に店側も「写真を撮らないで」と、言い難くなりつつあるような気がする。
 食べることに執念を燃やす日本人を、英国などでは、「フーディ(foodie)」というらしい。変わった食べ物に好奇心を抱き、興奮するという面が含まれる。単なる食いしん坊、大食漢とは違うニュアンスがある。
 というのも、日本人が長いあいだ飢饉に悩まされて来たことと無縁ではないように思える。その反動ともいえるし、食糧不足がトラウマになっているのかもしれない。
 単に満腹になりさえすればいい、とは違うのだ。けっして悪いことではないし、食べ物に対する感謝の念と文学性は日本人の美習でもある。世界に誇るべきではあるが、あまり過激になり過ぎて「遊び」に終始しては困る。

×月×日 佐野洋さんとなだいなださんが、相次いで鬼籍に入られた。お二人とも同年代(佐野さんの方が一つ年長)で、大田区で育ったという点も共通している。
 ペンネームは佐野(本名・丸山一郎)さんが、読売新聞在社当時に小説を書き始め、「社の用」をもじってつけた。精神科医のなだ(本名・堀内秀=しげる)さんは、スペイン語でナダは無(nothing)。イは英語のand 。つまり、無そして無、あるいはnothing and nothing。「無いものは無い」と、いささかペダンチックでスノッブだ。
 ほぼ半世紀前、「週刊朝日」の新年号で、「日本縦断ドライブ紀行」という企画を立てたことがある。佐野さんはトヨタのカローラで網走から東京まで、なださんには日産のサニーで鹿児島から東京までドライブしてもらった。
「モータリゼーション」という言葉がもてはやされ、ようやく「マイカーブーム」が到来する時代だった。トヨタの「コロナ」と日産の「ブルーバード」が激しくしのぎを削り、「BC戦争」という言葉を「週刊朝日」が作った。その下級車が、「カローラ」と「サニー」で、確か1,000CCクラスの小型車だった。
 佐野さんに同行したのは、佐竹義一記者と出版写真部の稲村不二夫さん。なださんチームは、私とやはり出版写真部の吉江雅祥さん。編集部で、車の免許を持っていたのは、まだ二人しかいなかった。
 当時の高速道路と言えば、ようやく名神道路が開通したばかりで、東名はまだ全通していなかった。鹿児島を出て山口、浜松に泊まって、三日がかりで東京に着いた。新年企画だから12月のことで、網走ルートは津軽海峡をフェリーで渡ったので、7日間は掛かった記憶がある。
 佐野さんとは、その後、「週刊朝日」で競馬の記事をよくお願いした。一緒に、さつき賞やダービーを取材したこともある。連作短編推理小説『深夜の近隣』シリーズの連載もお願いした。中でも「紙幣の散歩」や「嫌いな名前」は、傑作だった。
 なださんは当時、国立療養所久里浜病院(現 国立病院機構久里浜医療センター)でアルコール中毒の研究と治療に当たっていた。医師では珍しくフランス語を専攻したとかで、「フランスは世界で一番アルコール中毒患者が多い国」とか、「ソムリエの最期は、アルコール中毒に近くなる」などといった話をしながら、交代でハンドルを握った。
「私の専門領域は、医学と哲学、数学の境界が重なったところにあるようなものです」という言葉を今でも覚えている。
 患者さんの手前、「酒は飲まない」と宣言して、飲めるのに飲まなかった。その代わりタバコは口にしていた。吉江さんも私もタバコは喫わないので、「ガンが怖いからですか?」と、冷やかされた。
 後日平凡社から『ワイン七つの楽しみ』というカラー新書を出版したのには驚いた。ワインブームの始まりの頃で、フランスの田舎にある醸造所の試飲風景など、知らないことが多く、なかなか楽しい本だった。
 娘さんばかり4人なので、数年後、井上ひさしさんと対談をしてもらった。井上さんのところも娘さんが3人だった。司会は元東京タイムス学芸部長でコラムニストの青木雨彦さん。この人も娘さんばかり、たしか3人だったと思う。
 やはり医師の加賀乙彦さんが「なだのエッセイを集めれば、そのまま時代史になる」、と朝日新聞に追悼の談話を寄せていたが、卓見である。
 また、コラムニストの天野祐吉さんは、6月12日付けの「CM天気図」で、次のように書いた。
<自民党のスローガン「強い国」に対抗できるのは「賢い国」しかない。そう言っていたなだいなださんが亡くなった。とても大切な人を失ってしまったという思いが強い。(略)「賢い国民は賢い政党を選ぶ」となださんは言った。> 
 それにしても東京新聞が休刊日明けの夕刊の一面トップで、なださんの死を報じたのには、いささか、びっくりした。晩年にネット上の仮想(バーチャル)政党、「老人党」を設立して、党首を務めたからだろうが、大げさ過ぎる。

×月×日 久しぶりに、山藤章二さんと銀座の割烹「S」で。OBの斎藤駿介さん、山本朋史さんと一緒。相変わらず、週に一回、「週刊朝日」の若い編集者と「ブラックアングル」や「似顔絵塾」の打ち合わせをしているが、どうも話が通じないというのか、ジェネレーション・ギャップを痛感しているらしい。
 かつての編集者のように著名な常連寄稿家たちから何かを盗もうとする、ぎらついた眼差しが無いと慨嘆している。寄稿家と編集者の関係がクールになったとのことで、今や打ち合わせも「リハビリ儀式」と自分を納得させている様子。それなりに貴重な「儀式」にはなっているようなので、安心する。「儀式」は「儀式」なりに、若い人から得ることは多いはず。老人が、若い人から何か吸収しようとスケベ心を出すと、逆にこちらの微かな精気まで吸い取られてしまうことがままある。
 昔、京都へ取材に同行して、九条の東寺近くの猥雑な一帯の彷徨を懐かしがられたが、私はまったく失念していた。まさに往時茫茫だ。
 山藤さんは、パソコンなどとは一切無縁にアナログ道をゆっくりと歩んでいくのだろう。
 相変わらずの健筆を祈りたい。(13・6・19)
重金敦之(しげかね・あつゆき)

1939年東京生まれ。元朝日新聞社編集委員。「週刊朝日」編集部在籍時に池波正太郎、松本清張、結城昌治、渡辺淳一など多くの作家を担当した。大学教授を経て、文芸ジャーナリスト。食の分野にも造詣が深く、料理に携わる人たちからの信頼も厚い。日本文藝家協会、日本ペンクラブ、食生活ジャーナリストの会、各会員。『すし屋の常識・非常識』(朝日新書)のほか、『作家の食と酒と』『編集者の食と酒と』『愚者の説法 賢者のぼやき』(いずれも左右社)。最新刊に『食彩の文学事典』(講談社)、『ほろ酔い文学事典』(朝日新書)。