第68回 年賀はがき、「大統領の料理人」、さん喬の「子別れ」、海水の温度、レオナール・フジタ、新連載「ワインボトルの底」

×月×日 郵便受けに、来年の年賀はがきの発売案内が入っていた。いつも郵便を届けてくれる配達人が、ノルマを押し付けられているのだろう。
 よく池波正太郎は、春になると翌年の年賀状の印刷を始め、宛て名を書きだした、といわれるが、それは稀有(けう)な例だ。 
 しかも、他人には、まったく迷惑を掛けてはいない。先日記したお正月の「お節」の予約も、業界内の事だからいくら先を急ごうと、一般消費者には関係ない。
 しかし、年賀はがきの準備となると、そうはいかない。こちらの気分の問題だから、困る。
 9月だというのに、年賀状を「早く買え」と、追い立てられるのは、どうにも落ち着かない。その昔は、年賀はがきを手に入れるのに大騒ぎをした時代があった。今はインターネットで済ます人も多いから、年々先細りになることは目に見えている。
 もうそろそろ、「喪中葉書」が届くかもしれない。

×月×日 映画、「大統領の料理人」。フランスのエリゼ宮でミッテラン大統領の個人的料理人だった女性のダニエル・デルプシュさん(映画では、オルタンス)の実話をもとにしている。いうなれば、ノン・フィクション映画だ。
 ミッテランは、幼年期に食べた「おふくろの味」を、彼女に求めた。過剰なまでに手を加え、華美に飾ることを嫌った。食材が持っている固有の味が素朴に料理されるのを好んだ。
 エリゼ宮では、賓客のための料理も作られるが、それは男たちの世界だった。その男性料理人に伍して、女性が働く苦労は並大抵ではない。
 女性が男性社会に進出する際に当然予想される嫉妬や妬(ねた)みから起こる軋轢(あつれき)が描かれる。
 食材の仕入れ経費を追及され、周囲の冷たい視線にさらされるなど、オルタンスの立場は微妙になっていく。
 大統領が独り厨房に現れ、オルタンスが造ったトリュフバターを塗った田舎パンに採れたてのトリュフの薄切れを敷き詰め、赤ワインと共に食べるシーンは、圧巻だ。
 料理というには、あまりにもシンプルで、素材が良くなければ、何の意味のない。「料理とはなんぞや」と考えさせられる映画だった。

×月×日 有楽町の朝日マリオンで、「朝日名人会」。
 立川志の吉の「猿後家(さるごけ)」、桂文治の「質屋庫(ぐら)」、柳亭市馬の「三十石」にトリが柳家さん喬の「子別れ」。
 立川志の輔の一番弟子、志の吉は、12月から真打に昇進する。談志が亡くなった後の真打がどういう基準で選ばれるのか、興味があるところだ。
 文治(平治)が11代目を継いで、新宿末廣亭で披露口上を述べてから、丁度1年経った。先代文治(伸治)の風貌と性癖をネタにするのは、止めたようだ。
 市馬が、伏見から大阪に下る三十石舟の舟歌を朗々と聞かせた。
 トリはさん喬の「子別れ」。上、中、下の長い噺をほとんど端折(はしょ)らずに1時間たっぷり。「子は鎹(かすがい)」という噺で、オチにも使われている。人情噺だから、会場は静まり返る場面もあるが、「鎹」といっても今の人には分からないだろう。
 マクラや噺の途中で、それとなく説明が必要になる。落語もだんだんと難しくなる。

×月×日 9月も半ばになって、ようやく秋刀魚(さんま)に脂がのってきた。何でも、海水の温度が例年より3度ほど高いのだそうだ。今夏の猛暑とは関係なく、世界的な「温暖化」による「異常気象」なのだろう。
 例年、10月1日から、生牡蠣(なまがき)が市場に登場するのだが、この調子では、牡蠣も遅れるだろう。

×月×日 渋谷のBunkamura ザ・ミュージアムで「レオナール・フジタ 藤田嗣治」展。子供を職人に見立てた「小さな職人たち」が面白い。左官、肉屋、風船売り、仕立屋、指物師など……。中には「馬車の御者」のようにすでに姿を消した職業もある。古き良き時代のパリがそこに有る。
 藤田自身が、子供に恵まれなかったことと、終戦後日本画檀から暖かい目で見られず、すぐに渡仏し、二度と日本の土を踏まなかった失意の胸中が大人びた「職人たち」の子度たちの顔や姿から感じられる。
 モジリアーニ、パスキンなどとの交流を通して、フジタの魅力が展観できる。アトリエ内部の詳細も、日本初公開だ。

×月×日 柳忠之さんと名越康子さんは、フリーランスの立場で取材と執筆活動を続けている数少ない正真正銘の「ワイン・ジャーナリスト」だ。10月から、この左右社のホームページに、「ワインボトルの底」という、コラムを二人で始めることになった。
 世界のワイン畑を飛び回る、多忙なご両所が取材の合間に見聞した各地の食文化や各国での人たちとの出会い、社会観察、考現学を報告してくれるはずだ。
 ワインのボトルの底には、澱(おり)も溜まれば、芳香も共に残っている。コレストロールではないが、善玉の澱もあれば悪玉の澱もあるに違いない。長期間の熟成を経た古酒の濃醇な味と新鮮なワインの爽快感のバランスを楽しませてくれるに違いない。今から楽しみにしている。(13・9・25)

重金敦之(しげかね・あつゆき)

1939年東京生まれ。元朝日新聞社編集委員。「週刊朝日」編集部在籍時に池波正太郎、松本清張、結城昌治、渡辺淳一など多くの作家を担当した。大学教授を経て、文芸ジャーナリスト。食の分野にも造詣が深く、料理に携わる人たちからの信頼も厚い。日本文藝家協会、日本ペンクラブ、食生活ジャーナリストの会、各会員。『すし屋の常識・非常識』(朝日新書)のほか、『作家の食と酒と』『編集者の食と酒と』『愚者の説法 賢者のぼやき』(いずれも左右社)。最新刊に『食彩の文学事典』(講談社)、『ほろ酔い文学事典』(朝日新書)。