第72回 柳家三之助の「替り目」、続シュタイデル、なぜ新聞の書評に翻訳書が多いのか、新聞記事にならないニュース

×月×日 落語の朝日名人会。三笑亭夢吉の「出会い泥」、柳家三之助の「替(かわ)り目」、金原亭馬生の「品川心中」、柳家権太楼の「家見舞」、桂歌丸の「小間物屋政談」。
 落語界きっての「ネット通」の三之助は、上智大学時代にDTPの出力作業のアルバイトをしていた。「替り目」の酔っ払いが唄う都都逸(どどいつ)も卓抜。小三治の9番弟子。
 歌丸は、折角古典落語を演じているのに、毎回テレビの「笑点」に絡んだ「くすぐり」を入れるのは、興が覚める。

×月×日 前回に記した映画「世界一美しい本を作る男 シュタイデル」について、かつての同僚で、現在は桜美林大学講師(出版論)を勤めている畏友の古田清二さんから、次のような「感想」を頂戴した。
<シュタイデル氏の、「日本は自動車産業やオーディオだけではなく、本に使われる紙や表紙用の布など、美しい本を作るためのマテリアルが豊富で、技術も素晴らしい」という発言を引用されていました。
「(おそらく、印刷、造本、製本)技術も素晴らしい」という意味であると推察するのですが、この技術がやがて、日本から消えていくのではないかと憂慮している装丁家がいます。
 桂川潤という、故田村義也さんのお弟子(と桂川氏ご自身が言っています)さんです。
 桂川氏は、「本をつくる際の職人技術として、印刷(本文印刷や付き物印刷)、表紙に箔押しするための金版制作、箔押し技術、表紙貼り、製函、製本技術などがあるが、これも、現実に仕事が入ってこなければ使いようがないもの」と、『本は物である 装丁という仕事』(新曜社)という著書の中で書いていました。
 桂川氏は、自身の装丁した本が実際に印刷・製本される各現場を見て回って、次のように述べています。例えば、加藤製函(せいかん)所の場合。
……深刻な問題は、繁忙期とそうでない時期の仕事量の落差だ。辞典類は新学期を控えた二、三月にいっせいに出るから、その時期は目の回るような忙しさだが、それ以外の時期は仕事を確保するのが難しい。季節労働のようなもので、安定した産業として成り立ちにくくなっている。
「下請けの貼り屋さんも含めて、儲からなくても維持していかなきゃならない。いいものを作ろうという気持ちだけでやっています。志をもっていないと、とてもじゃないけどできませんが、それで淘汰されるのなら、”時代の流れ”とあきらめるしかないですね」(古田注=原文にはありませんが、これは加藤製函所社長の話です)
 本格的な電子ブック時代を前に、紙の本を残すにはどうしたらよいか、と思案していた私に、この言葉は重く響いた。製紙・印刷・製本といった紙の本のインフラ=製造業の部門は、コンスタントに仕事が来ないと成り立たないのだ。(「製函 加藤製函所での作業」)……
 機械製本や簡易製本の本ばかりが刊行される「出版不況」の最中、本の職人もその技術も会社が成り立っていかなければ、やがて技術を継承する人間もいなくなるわけで、シュタイデル氏と違って、ごくふつうの職人さんの「凄腕」が消えてしまう……。>
 古田清二さんは、「まして、電子書籍がのさばるようになれば、印刷技術も本をつくる技術も、消し飛んでしまう。悪夢を見る思いです」と結んでいる。
 まったく同感だ。活版の時代に、写真植字が現れた時のショックは今もって忘れられない。以後、さまざまな「技術革新」を目の当たりにしてきた。活字を初めて触って仕事をしてから、半世紀以上が経過したのだから、もはや「老兵は消え行くのみ」という心境に近い。

×月×日 前回毎日新聞の「私の本棚」に翻訳書が多いと記したが、今週は、5本すべてが翻訳書だった。その5人の評者のうち4人は、大学の教授か元教授だ。
 あくまでも推測にすぎないが、勤務校の上司や同僚、所属学会や研究領域を同じくする研究者へ、自分の「業績」として誇示するつもりで、本を選んでいるのではないかとさえ思いたくなる。もしそうだとしたら、読者を蔑(ないがし)ろにしているとしか、言いようがない。
 新聞は、あくまでも学界のためのサロンや「掲示板」になっては、ならない。

×月×日 盲目のピアニスト、梯(かけはし)剛之さんが行方不明となって、家族から捜索願が出されたというニュースがあったが、よく分からない。
 朝日新聞夕刊の1面に載っている「デジタル読まれた5ファイブ」の2番目に13日、14日、と続けて掲示された。
 ところが、新聞のどこを探しても、関連のニュースが載っていない。実に面妖、奇怪なことだ。「デジタル版」だけの特ダネなのか。
 ネットに拠れば、同行しているのは実母で、事務所でも、「心配していなかった」らしい。どうやら無事に発見されたらしいが、捜索願が出されたのは事実で、情報提供を求めたのも事実だ。恐らく家族内のいざこざか健康問題で事件性が無いと判断したから、記事にはしなかったのだろう。
 だけど、世間を騒がせ、多くの人が注目したのだから無視することはない。新聞は掲載しなかった理由ぐらいは載せる必要があるのではあるまいか。

×月×日 前項に少しは関係があると思うのだが、毎日新聞朝刊の2面のアタマには、毎日「編集長のこだわり5本」という、目次とも、コラムともつかぬ、訳の分からない記事が掲載さている。
 編集長といっても、東京編集編成局次長の肩書を付けた人が書いている。要するに当日の「当番局次長」が、その日のニュースの要約を書いているに過ぎない。少しでも、読んでもらおうと企画した、「目次風キャッチコピー」ともいうべきスペースだ。
 大体「こだわり5本」などというタイトルが気に入らない。グルメ番組のラーメンではあるまいし、ニュースに「こだわり」があっては、まずいだろう。
 私は最初、「胸につかえて文句をつけたくなるニュース」なのかと思った。
「こだわる」を辞書で引いてごらんなさい。
『大辞林』には、次のようにある。
(1)心が何かにとらわれて、自由に考えることが出来なくなる。気にしなくてもいいようなことを気にする。拘泥する。
(2)(いい意味で)細かいことにやかましくする。
(3)つかえる。障る。
(4)苦情を言う。文句を付ける。
 私は、自分の文章の中で、特に食べ物に関して「こだわる」を用いたことはない。現在使われている「こだわる」は、「どうでもいい、思い込み」の意味で使われている。「美学」といってもいい。
 定食屋Aを例にとって考えて見る。「当店のご飯のお米はこだわって、魚沼産のコシヒカリを使用しております」と店内に貼り紙があるとする。これはこれで良い。
 定食屋Bの場合。「当店のこだわりのお米、新潟県魚沼産のコシヒカリのご飯をご希望の方は50円増しになります」
 定食屋Bの50円増しのご飯は、「こだわり」ではない。ただ良質の付加価値を付けて、上級品にふさわしい価格で販売しているだけのことだ。
「美学」は金に換算できない、当事者の「心意気」であり、「佳(よ)しと思い込む気分」ではないかと思う。今盛んに使われている「こだわり」の意味は、そんなところだろう。
 だいたい編集長なる者(新聞紙面に編集長がなじむかなじまないかは、置いておいて)がニュースを選ぶ言葉に「こだわる」を用いるのは、いかにも芸が無さ過ぎる。新聞のニュースを「こだわって」選んではいけないのだ。
 言葉への感性が感じられない。あまりにも不適切だ。新聞記者は言葉への「審美眼」をもっと磨いてほしい。言葉の意味と使い方にもう少し「神経質」になってもいいのではあるまいか。(13・10・23)

重金敦之(しげかね・あつゆき)

1939年東京生まれ。元朝日新聞社編集委員。「週刊朝日」編集部在籍時に池波正太郎、松本清張、結城昌治、渡辺淳一など多くの作家を担当した。大学教授を経て、文芸ジャーナリスト。食の分野にも造詣が深く、料理に携わる人たちからの信頼も厚い。日本文藝家協会、日本ペンクラブ、食生活ジャーナリストの会、各会員。『すし屋の常識・非常識』(朝日新書)のほか、『作家の食と酒と』『編集者の食と酒と』『愚者の説法 賢者のぼやき』(いずれも左右社)。最新刊に『食彩の文学事典』(講談社)、『ほろ酔い文学事典』(朝日新書)。