第83回 「和食」の無形文化遺産登録、森本哲郎さん、綱取りの稀勢里

×月×日 和食がユネスコの世界無形遺産に登録されてから時間が経つにつれ、その登録までの舞台裏が明らかになってきた。11日の朝日新聞夕刊のジュニア向けの記事でも取り上げられていた。
 料理関係の専門書籍や雑誌を出版している柴田書店のホームページにある「編集部だより 料理本のソムリエ」にも面白いブログがあった。
 噂では聞いていたが、やはり最初に考えたのは、京都の料理人たちだった。茶道から発展した客人への「もてなし」が基本にある懐石料理から、さらに旅館や料理屋に移って継承され、豪華になった会席料理を保存しようという発想だった。このままでは、「和食」が滅びてしまう、という危機感を抱いたからだ。
 どういうわけだか、農水省が後援というか、窓口になる。本来、ユネスコは文科省の管轄だ。日本の農水産物を世界に売り出す絶好の機会と経済効果に目を向けたらしい。
 しかし韓国が「宮中料理」を登録しようと出願したら、一部の特権階級の食事に過ぎない、という理由で却下された。ここで、日本は大慌てになる。
「料理本のソムリエ」によれば、最初の京都府による提案書は、実に異なものだった。
「サシスセソの基本調味料」とか、「料理の字義は<はかりさだめる>」などとある。どうやって外国人に説明するつもりだったのだろう。
 これを読んで、元サイマル出版会の社長を務めた同時通訳の第一人者、村松増美氏(故人)から聞いた話を思い出した。取材で会った時、最も通訳しにくい日本文として、次の例を挙げてくれた。
 日本のさる政治家が、「アメリカは、日本語で米の国と書きます。日本の主食は米です。アメリカと日本は友好国なのです」と挨拶したというのである。
 確かに通訳不可能だ。「調味料のサシスセソ」というのは、煮物などで、砂糖、塩、酢、醤油(旧仮名では「せうゆ」と表記したから、と書く本が多いが、正しくは「しやうゆ」だ)を鍋に入れる順番を言う。科学的根拠が有るような無いような話で、最近はあまり用いられない。
 まあ、こんな笑い話みたいなところから出発したのが「真相」のようだ。この「登録」を奇貨(きか)として、有象無象(うぞうむぞう)が、うごめく事だろう。「取らぬ狸の皮算用」に泣かなければいいのだが。

×月×日 文筆家の森本哲郎さんが亡くなった。私がまだ二十代の頃の「週刊朝日」のデスク(副編集長)だった。新聞の学芸部のデスク(次長)から異動してきた。確か「明治百年」の企画だったから、1967(昭和42)年のことだった。かなり長い企画記事を任され、夜を徹して苦心した末に原稿を出した。
 じっと原稿に目を通していった森本さんの視線が、ふとあるところで、厳しくなった。
「君の書きたいことは、こういうことだろう」というや、たちどころに2、3か所を削り、短い言葉を二言、三言(ふたこと、みこと)新しく書き足した。
 その部分は、どうしてもうまく筆が運ばず、長い時間を掛けて呻吟(しんぎん)した箇所だった。森本さんの朱筆が入った後、誰が読んでも、格段にこなれて分かりやすく意を尽くした文章になっていた。
 僅かな言葉を加え、少し削除しただけで、こんなに文章が生まれ変わるものかと、蒙を啓かれたのは、生まれて初めての体験だった。しかも一瞬のことである。
 まさに電光石火の早業で、「月下の門を推(お)すか敲(たた)くか」などと、悠長に迷ってはいない。実に鋭い刃(やいば)による「添削」の刹那(せつな)だった。
 この話を、後で松本清張さんにすると、大変に面白がり、話を振って来るので、何度も同じことを繰り返す羽目になった。松本さんも、森本さんの才能を認めていたのである。
 丁度、そのころ、松本さんは、森本さんと出版写真部の船山克さんの3人で、オランダなどへ取材旅行に出かけている。『アムステルダム殺人事件』と『セントアンドリュース殺人事件』の二作に結実している。楽しい旅だったらしく、松本さんからよく森本さんの話を聞かされた。
 森本さんと二人で、よく松本さんのお宅にも伺ったことがある。話題はサハラ砂漠にある「タッシリの洞窟絵画」から「与謝蕪村」まで、古今東西を問わず、実に広範多岐に渡っていた。
 雄弁家で、聞いている人を飽きさせるようなことはなかった。好奇心が旺盛な松本さんも興味深く森本さんの話に耳を傾けていた。雑魚(ざこ)の魚(とと)交りが口をはさむ余地は全くなかった。
 私が、初めて森本さんの本を読んだのは、『あいまいな言葉』(有紀書房)で、1957年の出版だから、高校2年生のころだ。朝日新聞の学芸面に連載された記事をまとめたもので、「自由」、「封建的」、「常識」といった言葉を各界の多彩な人たちへの取材を通じて吟味、検証した。朝日新聞の学芸面に連載された企画だった。
 今、書斎の篋底(きょうてい)から探し出してみると、著者は朝日新聞学芸部と担当記者森本哲郎が併記され、帯の背には「足で書いた言葉の事典」とある。当時の論説主幹、笠信太郎が序文を寄せている。
 昭和30年代となると、日本経済の発展にともない、新聞広告も増加し、新聞の紙面に余裕ができてきた。事件や政治、経済、運動といったニュースだけでなく、文化的な記事が必要とされ、森本さんの出番が増えた。
 その後も『言葉への旅』シリーズや『文明への旅』などを刊行し、「への旅の哲ちゃん」と敬意を込めて、揶揄(やゆ)したこともあった。日曜版に連載された「世界文学の旅」では、博識に裏打ちされた流麗にして格調の高い文章が評判となった。「週刊朝日」に異動になったのは、その後である。
 新聞以外にも、多くの原稿を発表した。外国への取材も多く、文章に自ら撮影した写真を添えることもあった。カメラマンと同行した際にも、「ちょっとそこをどいてよ」と言って、同じアングルから自分用の写真を撮ったこともあると聞いた。
 新聞以外に発表した記事(社内では、「アルバイト原稿」と呼んでいた)を見せて、「どうだ、いいだろう」と自慢したこともある。この自己顕示欲も、優れた文章家となるための条件の一つであることを教わった。
 また、「文は人なり」という格言が正しくないということも、森本さんに接して学んだ。この見解については、松本清張さんも異を唱えずに、同意してくれた。退職後は、大宅壮一ノンフィクション賞の選考委員や東京女子大学の教授も歴任した。
 私にとっては、間違いない「師」の一人であった。合掌。

×月×日 綱取りが掛かる大関、稀勢里が大相撲初場所の初日から土がついた。膝が硬いのに加えて、精神的にも固くなっている。まさに前途多難なスタートとなった。

×月×日 拙著、『食彩の文学事典』(四六版・1,700円)が28日に講談社から発売されます。書店、アマゾンなどでお求めください。(14・1・15)

重金敦之(しげかね・あつゆき)

1939年東京生まれ。元朝日新聞社編集委員。「週刊朝日」編集部在籍時に池波正太郎、松本清張、結城昌治、渡辺淳一など多くの作家を担当した。大学教授を経て、文芸ジャーナリスト。食の分野にも造詣が深く、料理に携わる人たちからの信頼も厚い。日本文藝家協会、日本ペンクラブ、食生活ジャーナリストの会、各会員。『すし屋の常識・非常識』(朝日新書)のほか、『作家の食と酒と』『編集者の食と酒と』『愚者の説法 賢者のぼやき』(いずれも左右社)。最新刊に『食彩の文学事典』(講談社)、『ほろ酔い文学事典』(朝日新書)。