第98回 「画家 風間完」展、京王プラザホテル「かがり」、パリの和食レセプション、渡辺淳一さん逝く |
×月×日 長野県上田市にある「池波正太郎真田太平記館」で、特別企画展「画家 風間完」を開催している(第一期:平成26年6月22日まで)。「作家と挿絵画家の愛憎」という題で少し話をする。
昼食は、「刀屋」の蕎麦。相変わらず量が多い。大、普通、中、小と4段階ある。普通と中とを勘違いして、食べ過ぎてしまった。 ×月×日 新宿西口にある京王プラザホテルの「かがり」でごく内輪の法事。富山県の山海の幸をそろえた桜膳など。白海老やホタルイカが見栄えよく、綺麗にまとまっている。外国からの観光客には喜ばれるだろう。 量的には、物足りなさが残るかもしれないけれども。 ×月×日 フランスを訪問中の安倍晋三首相が、パリの大使公邸で和食のレセプションを開いた。オランド大統領は、谷崎潤一郎の名前を出してスピーチ。このあたりのセンスをエスプリと言うのだろう。料理全体の監修は、京都「菊乃井」の村田吉弘さん。パリの日本料理店から、寿司の「仁」、和菓子の「和楽」なども参加した。 天ぷらは、神楽坂の「天孝」が担当し、金沢産の筍(たけのこ)を揚げたらしい。外務省の資料によれば、村田吉弘さんは,「日本は海の幸を使い創意工夫しながら独自の料理を作った。その基礎が出汁(だし)で,日本料理を世界に広げたい」と述べたとある。群馬県産の和牛など、日本の食材をパリの「ルドワイヤン」のシェフがフランス料理に仕立てた。 安倍首相は、地元山口県の日本酒「獺祭(だっさい)」を贔屓にしているようだ。こういう時こそ、福島県の日本酒を持って行くべきではないか。 ×月×日 渡辺淳一さんが亡くなった。前立腺がんであることを親しい編集者たちに漏らしたのは、かれこれ2年ほど前になるだろうか。すでに脊髄に転移していた。表向きには、「腰痛」と公言していたけれども。 自分が医師であることから、医学を過信して病気を少し軽く見ていたのかもしれない。前立腺がんは、血液検査で容易に早期発見が可能なのだから、「医者の不養生」、「紺屋の白袴」と言われても、やむを得ない。 渡辺さんに初めて原稿を頼んだのは、直木賞を取る前だった。まず単身で上京し、アルバイトで医師をやりながら小説を書いていた。やがて札幌から妻子を呼び寄せ、私の自宅のすぐそばに住んでいた。45年ほど前のことになる。 振りかえってみると、常に多くの女性が渡辺さんの回りを取り囲んでいた。看護士、医師、大学生、銀座のクラブ、祇園はお茶屋の女将(おかみ)や芸妓(げいこ)、女優、編集者、実業家など、その範囲は実に広かった。 それぞれの小説の登場人物には、彼女たちの虚実の姿とその影が見える。もちろん単数ということではなく、複数の女性たちを融合、置換し、新しい人物を造形した。 渡辺さんを囲む若い担当編集者たちとの間に、「藪(やぶ)の会」なる親睦グループがある。出来たのは1979年頃で、多くの編集者から慕われた数少ない作家と言える。原稿を一本も貰ったことが無いのに、創設以来皆勤の編集者もいた。 直木賞は一種の新人賞だから、次は吉川英治賞となる。その後はしばらくない。渡辺さんは、直木賞受賞後10年という異例の早さで、吉川賞も受賞したので菊池寛賞までは、時間がある。「藪の会」の忘年会だったか、さる出版社の先輩編集者、Mさんが、「いや、渡辺さんは、次にまだもらえる賞がある」と言い出した。編集者たちが怪訝な面持ちでいると、「大宅壮一ノンフィクション賞だよ」と言って大笑いしたことがあった。 生臭さが消えてきた晩年に著した『告白的恋愛論』(角川書店)に、多くの女性群像がかなり具体的に記されている。誰がどの小説に登場しているか、当てはめてみるのも供養だろう。 朝の7時ごろ、私がまだ布団の中に居るのに、「おい、これからゴルフへ行こう」と電話が掛かってきたこともあった。一人欠けたから、ピックアップするつもりだったのだ。折悪く大事な会議が入っていたので、断ったけれども、一瞬行くつもりになった。残念ながら、会議を忘れてゴルフへ行くほどの「大物」ではなかった。 私が、定年前に新聞社を退社するので、挨拶に行ったら、即座に「これで、君のところから本を出版しなくても良くなったな」と言うので、「そうですね。だけど、もう原稿を頼む人もいないでしょう」と応じて、お互いに笑い合ったのも、今では懐かしい。 科学者(医師)に備わった合理的精神と、文学者(作家)が持つ奔放な創作精神の両面を兼ね備えていた。育ちの良さの中に、適度な不良性があった。ゴルフ、麻雀、将棋、碁など、勝負事と遊びが好きで、遊びの「十種競技」があれば、「俺が一番だ」と豪語したこともあった。 谷崎潤一郎の没年齢を越え、谷崎を凌駕する「老人の性愛文学」を目指していた。地方紙連載中に、多くの新聞が、連載中止の措置を取って話題となった『愛ふたたび』(幻冬社)の売れ行きがあまり良くなく、昨年末まで、手を入れていた。文芸評論家の斎藤美奈子さんから、酷評を受けたのを気にしていたのかもしれない。 絶筆というべき小説だった。作家の「執念」と言うか、そこに「業」を見た。昨年の「傘寿を祝う会」では、「まだまだ書けることがある」と力を込めて挨拶をした。 多くの女性を愛した渡辺さんだったが、「今は、主治医に惚れている」と、冗談めかして言っていた。恐らく、「最後の恋人」だったのかもしれない。 渡辺さんのことを「ジュンちゃん」と、親しみを込めて呼んでいた池波正太郎さんとは、どういうわけか、ウマが合ったようだ。 「ジュンちゃんはね、普通の会社に入っても、出世して有能な重役になるような人ですよ」 池波さんの渡辺淳一評である。 ゴルフの帰りだったか、渡辺さんが深夜拙宅に立ち寄ったことがある。同行していた秘書のK嬢に、「ここの勘定、払っておいて……」と言って、帰って行った。 渡辺淳一さんを通じて、実に多くの人たちを知った。渡辺さんと出合わなければ、私の人生は、また違った道を歩んだに違いない。(14・5・8) |