第115回 青いモスクの下、白い綿花が砂の風に揺れるウズベキスタンのシルクロードを行く ①タシケントからウルゲンチへ

①タシケントからウルゲンチへ

×月×日 敦煌(とんこう)から新疆(しんきょう)ウイグル自治区のウルムチ、トルファン、カシュガルまで中国側シルクロードの「初心者コース」を駆け足で旅したのは、2011年の9月だった。
 それでも、カシュガルからパミール高原の標高3,600メートルに位置するカラクリ湖まで行ったから、もう少しでパキスタン国境のクンジュラブ峠だった。
 シルクロードの起点(終点かもしれないが)を仮にイスタンブールとすれば、カシュガルから先のルートは、幾つもある。ウズベキスタンのタシケントまでの地図上の直線距離は、1000キロにも満たない。急峻な天山山脈やカラコルム山脈がその間にあるから、直線距離なんか大した意味はないのだけれども。
 それでも、中国国境を越えたシルクロードはいかなる顔を見せるのか、興味は尽きなかった。イタリアやフランスなど地中海に面するヨーロッパの国の人たちが、「一度は地中海の向こう側から自国を見てみたい」と願う気持ちに通じるのかもしれない。
 何はともあれ、成田からタシケント直行のウズベキスタン航空に乗りこんだ。タシケントがウズベキスタンの首都であることを知っている人でも、成田から直行便が週に2便もあることまで知る人は少ない。
 鳥取県の境港あたりから、韓国の仁川、中国の大連の上空を西へ西へと飛行し、丁度9時間でタシケントに着いた。
「西域(せいいき)」という言葉がある。かつての中国の史書に現れる言葉で、西方の異民族が住んでいる地域一帯を指したと考えられる。中国の東側にある日本から見れば、「中国のさらに西方にある地域」と考えればいい。当初はインド、ペルシャも含まれていた。定地で農耕に従事する漢民族が、山野や砂漠を移動しながら狩猟や牧畜を生活の糧(かて)とする西域の民族を非常に恐れていたことは、「万里の長城」を建設したことでもわかる。
 農耕民族と狩猟民族の境界線とも言われる「万里の長城」は、狩猟民族の手でしばしば侵入された。馬を所有する狩猟民族の方が農耕民族より、はるかに武力の面では優れていたのだ。
 タシケントのホテルは、「タシケント・ホテル」という名で親しまれてきた「迎賓館的存在」で歴史的なホテルだった。今は「ロッテ・シティ・ホテル・タシケント・パレス」という。所有者が目まぐるしく変わり、名前からも分かるように、韓国資本のホテルだ。
 目の前がナヴォイ・オペラ・バレエ劇場。1947年に完成した1500人を収容できる中央アジアでも代表的な格式の高い劇場だ。ナヴォイと言うのは、15世紀の中央アジアを代表する詩人で、ナワイと記された本もある。この劇場の建築には、第二次大戦後旧ソ連によって、シベリアからタシケントに移送、抑留された旧日本兵数百名の抑留者が強制労働で従事させられた。市内には日本人墓地も残っているが、後で詳述したい。
 翌日は、ヒワのイチャン・カラ遺跡を訪ねるので、朝7時50分発のウルゲンチ行の飛行機に乗らなければならない。ウズベキスタンの第一夜は、早々にベッドにもぐりこんだ。日本とは4時間遅れの時差があるので、日本時間は午前2時だった。

×月×日 非常に大まかに言うと、ウズベキスタンは紀元前のアレキサンダー大王が支配し、8世紀にはアラビア人に征服された。13世紀にチンギス・ハーンが率いるモンゴル軍の来襲によってすべてが破壊された。14世紀には、アムール・チムールの手で、建国し直したといってもいいだろう。
 ホレズムとは、「中央アジアのエジプト」とも言われるウズベキスタン西部一帯のホレズム州を指す。アムダリア川下流に栄えたオアシス都市でカラクム砂漠から、アラル海、ヴォルガ川、カスピ海への経由地として、殷賑(いんしん)を極めた。
 16世紀の初頭には北方のウズベク族のシャイバニの支配下に置かれ、ヒワ汗国、ブハラ汗国、コーカンド汗国に分割された。ウルゲンチは、ホレズムの中心都市で、シルクロードの要衝だった。今は二重の城郭に囲まれた中世の城郭都市ヒワの玄関ともいうべき存在だ。空港からバスで小一時間、内城の南門前のホテル・アジア・ヒワに着いた。
 ヒワは、「博物館都市」として、町中が世界遺産に指定されている。礼拝所(モスク)、王宮、隊商宿(カラバン・サライ)、神学校(メドレセ)、アザーン(礼拝の時刻を知らせる)ためのミナレット(光塔)、接待所、ハーレム、鋳造所、監獄などが遺されている。中世の町に今なお多くの住民が日常の生活を営んでいるところに価値がある。
 イチャン・カラの「カラ」は城の意味だ。神学校跡がホテルとなり、隊商宿がレストランとして営業しているところもある。私たちは、城内の「ホレズム・アート・レストラン」で、ホレズムの料理を楽しんだ。キュウリとトマト、ビーツなどの新鮮な野菜が豊富だ。
 城内には絵葉書や木工、陶芸や刺繍の工芸品などを広げて売っている。この城内に住んでいる人たちだという。しかしおっとりしたもので、しつこく付きまとってはこない。旧ソ連の体質と同じで、売っていたという時間のノルマを果たせば、「良し」と考えているのではないか、とさえ思えてくる。
 ウズベキスタン航空のCAにしても、無愛想でなかなか笑顔を見せなかった。到着が近づくと、枕やタオルケットを片づけはじめ、カバーまで外し始めた。まさに「国家公務員」的作業だ。サービスやマーケティングという概念が無いのかもしれない。
 日中の温度は40度くらい。それでも、朝晩は涼しいくらいに冷え込む。イチャン・カラは夜になると人通りも無くなり、街灯も少ないから不気味で、一人ではとても歩く気にはならなかった。
(この項続く)

重金敦之(しげかね・あつゆき)

1939年東京生まれ。元朝日新聞社編集委員。「週刊朝日」編集部在籍時に池波正太郎、松本清張、結城昌治、渡辺淳一など多くの作家を担当した。大学教授を経て、文芸ジャーナリスト。食の分野にも造詣が深く、料理に携わる人たちからの信頼も厚い。日本文藝家協会、日本ペンクラブ、食生活ジャーナリストの会、各会員。『すし屋の常識・非常識』(朝日新書)のほか、『作家の食と酒と』『編集者の食と酒と』『愚者の説法 賢者のぼやき』(いずれも左右社)。最新刊に『食彩の文学事典』(講談社)、『ほろ酔い文学事典』(朝日新書)。