第116回 青いモスクの下、白い綿花が砂の風に揺れる ウズベキスタン紀行②

ウズベキスタン紀行②ウルゲンチからブハラ、そしてサマルカンド

×月×日 ヒワの内城はイチャン・カラと言われるが、南門のすぐ前にあるホテル「アジア・ヒワ」では、数十名からなるフランス人のグループツアーと同宿だった。どちらかといえば、団体行動をあまり好まないフランス人には珍しい。ホテルのシャワーは温いお湯がチョロチョロとしか出ない。砂漠の中のオアシス都市だから、覚悟の上だ。
 ウズベキスタンの通貨は「スム」で、レートは1米ドルが約24,000スム。グラスワインが4,000スムとか、ビールが6,000スムと言われると、ドキッとするが、ワインは約160円、ビールは約250円という計算になる。
 かつての東欧諸国でもそうだったが、紙幣はよれよれで500スム以下の紙幣となると、かなり疲れている。お土産店やホテルなどでは、米ドルでも通用するが、ドルも新しい紙幣を欲しがる。ホテルのフロント係が、新しい紙幣と交換してくれと言い寄ってきた。
 古いといっても、ドル紙幣だからそんなによれよれではない。どこでも立派に通用すると思うのだが、しつこい。帰国したら、ミャンマーでも新しいドル紙幣を欲しがると、新聞に載っていた。どこか、共通項があるのだろう。
 世界遺産の写真を撮る場合は、補修、管理のための撮影料が必要だ。300~400スムだから、日本円にすると、120円から170円程度だが、別に許可の証明になるようなバッジを身に付けるわけでもなく、のんびりというか、いい加減だ。このあたりの感覚も、旧ソ連的国民性なのかもしれない。
 翌日は、アヤズ・カラとトプラク・カラの古代都市址を見学。いずれも紀元前の遺跡だ。アムダリア川の流れが変わったために、うち捨てられたのだろう。中国はトルファンの髙昌故城を思い出した。
 昼食は遊牧民が寝泊まりする移動用テントの「ユルタ」で、かなり慣れてきたウズベク料理。モンゴル語では「ゲル」、日本では「パオ」と言った方が分かりやすい。猛烈な暑さだが、裾野部分がカーテンのように開くので、涼しい風が入る。
 日本ではあまりなじみがない「ビーツ」が前菜として毎食出て来る。「火焔菜(かえんさい)」とも言うが、カブの仲間ではなく、ホウレンソウと同じアカザ科の野菜。ロシア料理のボルシチには欠かせない。
 夜9時10分のウズベキスタン航空で、ブハラへ1時間のフライト。またフランス人のツアーと一緒になった。

×月×日 ブハラもまた、遺跡の町だ。旧市街と新市街とにはっきりと分かれている。旧市街地の中心にラビハウズという「オアシスの池」がある。池の周囲には、チャイハナと呼ばれるベンチとテーブルが並べられ、レストランとなっている。もちろん、お茶も飲める。
 池は周囲の砂漠の光景とは別次元の噴水が設えてある。まさに「オアシス」という言葉が実感できる。ホテルは、ヒワと同系の「アジア・ブハラ」で、池のすぐ前だった。
 ブハラで一番高いカラーン・ミナレットやブハラ発祥の地ともいわれるアルク城など、一日中歩いていても飽きない町なのだが、熱中症になっても困るので、日陰を探して、ゆっくりゆっくりと移動。
 なかでも、中央アジア最古のイスラム建築といわれるイスマイール・サーマーニ廟(びよう)のレンガ模様の陰影が美しい。8~9世紀に建てられ、1925年までほとんど土の中に埋もれていた。
 イスラム教徒ではないが、信教の別を越えても、美しいものは美しい。キリスト教徒やイスラム教徒であっても、法隆寺や唐招提寺の木造建築に美を見出すのと同じことだろう。時間の移ろいは太陽の移ろいであり、光と影の交錯がレンガやタイルの色彩に奥行きを与えている。
 砂漠と言うと、何か一色しかイメージが湧かないが、決してそんなことはない。ウズベキスタンの青い空の下で、砂漠の陰影や日干し煉瓦の模様をよく見ると実に色彩が豊富で複雑だった。
 ミナレットの頂部はコバルトブルーの色だが、天空の「青」に通じていることがよく理解できる。さすが「青の都」と言われるだけのことはある。
 たまたま宿泊しているホテル、「アジア・ブハラ」では、毎日8種類のワイン・テイスティングを行っている「ワインコーナー」があった。入場料は10ドル。英語とフランス語まじりのロシア語で説明してくれるので、詳しくは分からないが、フランスの醸造所から技術指導を受け、ロシアに輸出しているらしい。同行したアシダ・ソムリエの解説が参考になった。マコト・ドクターは、ワインよりも大事な患者さんへのお土産探しに狂奔していた。
 ウズベキスタンのワインは飛行機の中から飲んでいるが、白ワインはどうもヒネ香があったし、赤は甘い。気温が高く乾燥しているので、イタリアのアマローネのように、干し葡萄の状態から造るのかも知れない。
 このテイスティング・バーには、ワイン好きの女優、川島なお美さんもかつて来たことがあるらしく、ゲスト名簿に記されたページがコピーしてあった。田崎真也さんの名前もあったが、こちらは、誰かがいたずらに田崎さんの名前を勝手に書いたに違いない。 
 明日行くサマルカンドはウズベキスタン随一のワイン産地だという。楽しみが増えた。
 夜は、17世紀に建てられた神学校(ナディール・ディヴァンベギ・メドレセ)の中庭で、ウズベクの民族舞踊やファッションショウを観賞しながらの食事。中庭を取り巻くかつての神学生たちの教室では、お土産を並べている。
 ウズベク料理は、特産の綿実油を多用するらしく、どうもお腹の具合がよろしくない。マコト・ドクターから下痢止めを貰う。綿実油は日本人には合わないらしい。ドクターが出発前にネットで調べたら、多くの日本人は下痢になる、と出ていたと言う。そういえば、顔色があまり良くない人が増えてきたような気がする。綿実油は、日本でも使われているのに、不思議だ。

×月×日 ブハラからサマルカンドへ約450キロのバスの旅。途中、チムールのふるさとシャフリサーブスの建築群を見学。まだ発掘途中で、観光地としては発展途上だ。
 ウズベキスタンは、旧ソ連邦の一員だったから、イスラムへの理解が至らなかったという事情もあるようだ。もちろん、理解を示す一部の考古学者や政治家も居たようではあるけれども。
 サマルカンドへ行く道も、高速道路が完備しているわけではない。古くからの街道で、シルクロードそのものだ。道の左右は綿花畑で、丁度白い花の摘み取り時期だった。村中総出で摘み取りに参加するのだという。どうしても都合が付かない人は「罰金」を支払わなくてはいけない。学生も応援に駆り出されるのだが、その「罰金」からアルバイト料が出るようになった。
 ウズベキスタンには、アムダリア川とシルダリア川の二つの川の流れがある。肥沃なデルタ地帯だから、綿花の生産が盛んになった。この川の水を灌漑に利用し、木綿畑を開拓していった。しかし、長い間にアムダリア川の流れが変わり、農業用水の増加で、アラル海はいつか小さくなっていた。
 どうも無計画に貴重な水を浪費し過ぎたようだ。隣国のカザフスタンにまたがる世界4番目の湖というか潟と言うか、アラル海が干上がってしまった。20世紀最大の「環境破壊」と言われるくらい、現在は自業自得の公害に悩まされている。
 塩分の多い湖だったために、塩分を含んだ砂が舞い上がり、農作物に被害を与えている。
 40年前の地図を見ると、大きく水色が印刷されている。最近の地図はわずかでほとんど消えかかっている。最近アメリカのNASAが発表した航空写真によれば、面積が徐々に減少していく様子が実に明瞭に見て取れる。
 道の脇には、大きな桑の木が街路樹として樹齢を感じさせ、西瓜やハミウリを積んだトラックが行き交い、道端で並べて売っている光景は中国のカシュガル付近で見たシルクロードの光景と同じだった。
 中国と同じ、といえば、ブハラの工芸品も模様や作り方がカシュガルで売られていたのと同じだった。何通りもの形になるイスラム経典の木製書見台をずいぶん見たが、この経典台は、中国になかったような気がする。あるいは気が付かなかっただけかもしれない。 
 道路網や、下水道などのインフラやお土産店の包装などを見ると、40年前の中国に似ている。違うのは、人口が少ないからか、自転車やバイクの数が圧倒的に少ない。それと、街を歩く人の服装は、こざっぱりしている。
 40年前の中国では、まだ人民服の時代で、北京などの大都会では、スカート姿の女性もわずかにいたが、その後を物珍しそうについて歩く人がいたものだ。(次回完結)

重金敦之(しげかね・あつゆき)

1939年東京生まれ。元朝日新聞社編集委員。「週刊朝日」編集部在籍時に池波正太郎、松本清張、結城昌治、渡辺淳一など多くの作家を担当した。大学教授を経て、文芸ジャーナリスト。食の分野にも造詣が深く、料理に携わる人たちからの信頼も厚い。日本文藝家協会、日本ペンクラブ、食生活ジャーナリストの会、各会員。『すし屋の常識・非常識』(朝日新書)のほか、『作家の食と酒と』『編集者の食と酒と』『愚者の説法 賢者のぼやき』(いずれも左右社)。最新刊に『食彩の文学事典』(講談社)、『ほろ酔い文学事典』(朝日新書)。