第117回 青いモスクの下、白い綿花が砂の風に揺れる ウズベキスタン紀行③

ウズベキスタン紀行③サマルカンドから、再びタシケントへ

×月×日 中央アジアで、サマルカンドは「イスラム世界の宝石」、「東方の真珠」と呼ばれ、その昔の首都であった。ウズベキスタンは、別名を「青の国」と言われるが、その代表的な都市である。もちろん、シルクロードの重要な基地だった。
 往時の面影は、市内の北東部にあるアフラシャブの丘に見ることが出来る。チンギスハーンが率いるモンゴル軍によって、徹底的に壊滅された旧サマルカンドの遺跡が、19世紀末に発掘された。
 1965年にサマルカンドを訪れた井上靖は、『西域物語』の中で、ソ連(当時)の考古学者の資料から、当時の旅行家の文章を引用している。
<人間がかつて眼にし、賞でたことのある一切の光景のうち、最も素晴らしい眺めであった。それは木々の新鮮な緑、輝く城、流れる運河、そして果てしなく続く耕地であった。>(新潮文庫)
 現在のアフラシャブの丘は乾燥し荒れ果て、ラクダ草とも言われる棘(とげ)のあるタマリスクが緑の存在を教えてくれるだけの砂の凹凸が続くだけだ。
 しかし荒地の遺跡からそんなに離れていない、シャーヒズィンダ廟群に参拝すると、栄華を誇った渺茫(びょうぼう)たるサマルカンドの都邑(とゆう)が豁然(かつぜん)と浮かび上がってきた。
 ティムールの孫で非業の死を遂げたウルグベクの業績をたたえる天文台跡などを見学すると、科学的にも進んでいたサマルカンドの学術文化が見えてくる。
 サマルカンドからタシケントまでは、アフラシャブ特急で2時間ちょっとの鉄道の旅を楽しむ予定だったが、遺跡調査の政府の要人が乗るとかで、私たちの席が召し上げられてしまった。おかげで、やむなく深夜11時過ぎの飛行機で移動することになった。30分のフライトだが、飛行機に乗るとなると、国内線とはいえ荷物検査などわずらわしい。
 そういえば、3年前に敦煌の柳園(りゅうえん)から吐露藩(トルファン)へ夜行寝台で行く予定が、同じような理由で召し上げられ二班に分かれて後続の列車に乗ったことを思い出した。

×月×日 再び、ロッテ・シテイ・ホテル・タシケント・パレスに戻った。ホテルの前は、中央アジアで屈指のナヴォイ劇場。旧日本兵が建設に従事した話は、最初に紹介した。
 ツアーに同行してくれたのは、シャシーポウ・カモラさん。三人の子供がいる母親だ。歴史学が専門で、日本の大学院を卒業している。旅行者にとっては詳しすぎるくらい中央アジアの歴史に精通している。日本語も堪能だ。
 レンガ造りでビザンチン様式のナヴォイ劇場を建てた日本兵について、こんな話をしてくれた。カモラさんは、当時の日本兵が働いている様子を覚えているというお婆さんに話を聞いたことがあった。
「日本人は、実に良く働いていた。今でもよく使っていた『シユウゴウ』という言葉を覚えている」
 恐らく「集合」という掛け声だったのだろう。カモラさんは、この話を聞いて涙が出て来たという。カモラさんは、世界中から観光客が来るけれども、日本人ほどおとなしくて規律の取れた団体はない、という。「集合」の意味をお婆さんに説明したら、一緒に泣きだした。
 日本兵たちは、予定の工期を大幅に短縮し、2年で完成させた。
 またカモラさんは、こんな話もした。中央銀行の副総裁が子供のころ、お腹が空いているだろうと旧日本兵収容所の塀の隙間からパンと果物を差し入れた。すると、数日たって木で作ったおもちゃが置いてあったという。副総裁は、親から「日本人は勤勉で、物を作るのが上手だ。またお礼をする心をわすれない。日本人のような大人になりなさい」と言われ続けて育ったという。
 1966年4月にタシケントはマグニチュード8の大きな地震に襲われ、市内の建物の3分の2が倒壊したなかで、ナヴォイ劇場だけはびくともしなかった。あらためて日本人の仕事の優秀さが認められたという。劇場の壁面には、「1945年から46年にかけて極東から強制移送された数百名の日本国民が、この劇場の建設に参加し、その完成に貢献した」と、ウズベク語、ロシア語、英語、日本語でプレートに記され、掲げられている。
 以前は「日本人捕虜」という言葉が使われていたのを、1991年の独立以来大統領の職にあるイスラム・カリモフ氏が、「われわれは日本と戦ったこともなく、日本人を捕虜にしたことも無い」といって、「日本国民」に書き直しを命じた。ウズベキスタンの各地に1万人近い旧日本兵が抑留され、劇場の他にも、各地でアパートや運河や鉄道などさまざまな工事に従事させられた。
 市内のムスリム墓地の一郭に、当時働いていた日本人79名の墓がある。添乗員が日本から持参した線香を手向けた。政治家の中山恭子氏がウズベキスタン大使だった1999年ごろ、関係者の努力で整備され、桜の苗木も植えられた。
 ウズベク人のフォジルオタさんの息子さんが、死者を悼む教典の一節を詠んでくれた。
 カモラさんは、子どもたちをロシア語学校に通わせている。家庭の中でも、意識して日常はロシア語だ。国際的により通用する言語を選んだということだろう。
 夜はタシケントから成田へ向かうという最後の日、市内のスーパーマーケットで、買い物を楽しんだ。ウズベキスタンの通貨、シムは国内でしか通用しないから、使い切ってしまうという目的もある。カモラさんは、一台のレジにつきっきりで、私たちの買い物につきあってくれた。
 日本なら、地方のごく普通のスーパーマーケットで、陳列してある品物も中級品が多く、品物が有り余っているようには見えなかった。鮮魚売り場には、鯉の姿しかなかった。海が無いのだから致し方ない。
 物価は安い。30年前の中国と言った感じだ。レジ袋の質も薄くて、すぐに破れそうだ。街を歩くと、自動車の数も少ない。人口が多くないからか、バイク、自転車もあまり見ない。タシケントには国内で唯一の地下鉄が通っているが、残念ながら乗る機会はなかった。
 観光バスを見ると無心に手を振る子供たちの、純朴でつぶらな瞳がこの国の未来を創っていくのだろう。シルクロードを通じての交流は、今の代でも脈々として続き、決して途絶えることはない。(この項終わり)(14・10・22)

重金敦之(しげかね・あつゆき)

1939年東京生まれ。元朝日新聞社編集委員。「週刊朝日」編集部在籍時に池波正太郎、松本清張、結城昌治、渡辺淳一など多くの作家を担当した。大学教授を経て、文芸ジャーナリスト。食の分野にも造詣が深く、料理に携わる人たちからの信頼も厚い。日本文藝家協会、日本ペンクラブ、食生活ジャーナリストの会、各会員。『すし屋の常識・非常識』(朝日新書)のほか、『作家の食と酒と』『編集者の食と酒と』『愚者の説法 賢者のぼやき』(いずれも左右社)。最新刊に『食彩の文学事典』(講談社)、『ほろ酔い文学事典』(朝日新書)。