第150回 山藤章二さんの『老いては自分に従え』、ハシゴ高とクチ高、柳家小三治と錦織圭

×月×日 イラストレーターの山藤章二さんから、新著『老いては自分に従え』(岩波書店)の恵投を受けた。「週刊朝日」の「ブラックアングル」が40年、「似顔絵塾」が35年、長く続いたものだ。名物連載といってもいい。
 「ブラックアングル」の前は、表紙も手掛けたことがある。正直なところ、これはあまり評判が良くなかった。週刊誌の表紙はデパートの包装紙と同じで、極端に目立ってはいけない。「自己主張」と言い換えられるだろう。老若男女がさりげなく持てて、嫌味が無く、恥ずかしくも無く、手にしていることで、ちょっと自分を自慢できるようなものがいい。自慢というけど、思い込みや気取りでも構わない。
 山藤さんの表紙は、強烈で刺激が強すぎた。激辛の麻婆豆腐みたいなもので、赤い油が浮き出ている気配があった。本人はいたってシャイで、物事を斜に見て、自分の韜晦(とうかい)を生きがいとしているような人だから、瞬時に眺めて理解できない。
 話題の美人女優を選んでも、山藤さんの筆だと、美人にならない。モデルが気にしている欠点を誇張して描くものだから、万人受けしない。山藤さんも悩んだはずだが、担当者も苦労した。
 結局、カラーグラビアの最終ページという格好の特別室に納まった。この特別室は、貴賓室にもなれば、女中部屋にもなるし、今ならさしずめ長屋の隠居さんが住むのにふさわしいと言ったら言い過ぎか。
 ご本人もかなり「隠居気分」に浸っている風を装っているから、別に怒らないとは思うけれども。
 落語に熱中していた山藤さんは、立川談志と仲が良かった。二人とも、言葉を巡る理解力の深さと一つの言葉から鎖のように次から次へと湧き出てくる連想力が人より優れていた。加えて言葉に対する反射神経は立川談志の方が、山藤さんより早く鋭かった。だから談志は落語家として名を成した。
 落語家は落語だけで、人(お客)を集められるが、挿し絵やイラストレーションでは、そうはいかない。そこに山藤さんの悲劇がある。どうしても、一人だけでは舞台を支えきれない。どんな著名の画家でも無理だ。高級だとか、低級だとかの話ではない。ジャンル、というか分野、専門が異なるのだからいたしかたない。
 だから、あまり得意とは思えないテレビにも無理して出演したり、本を書いたりするのかもしれない。
 山藤さんは最近の若い者は、「何もものを知らない」と憤っている。「核家族化」が最大の理由だが、物事を知らない若い両親と子供の間に「会話」が無い。
 過保護だから、親と一緒にしか遊ばない。大学生になっても、あまり一人で旅行しない。昭和の時代は、夏休みともなれば、北海道には大きなリュックサックを背負って列車の通路を横になって動く、「カニ族」と呼ばれる学生たちが沢山いた。今は、キャリーバッグを引きずって、スニーカーで動くのだろうな。そもそも、大学生の一人旅なんて、最近は見たことが無い。情報をネットに頼るから、「百聞は一見にしかず」という実体験にもとづいた感動が体得できない。
 幼いころに父親を亡くし、顔も覚えていない山藤さんは、自分が父親になった時、「父親としてどう振る舞っていいのか分からない」と言って悩んでいた。ご子息は二人とも立派な社会人に成長してお孫さんにも恵まれたのだから、なにもいうことはない。どうぞ、ご自分に従って、長生きしてください。
 本書の兄弟本として、先に刊行された『自分史ときどき昭和史』(岩波書店)と併せてお読みになることを勧めたい。

×月×日 前々回の当欄で、亡くなった作家の髙橋治さんに触れたが、毎週熱心にスマホで読んでくださっている後輩の「具眼の士」から、「橋治」さんになっていると、メールを貰った。髙の文字がどこかへ消えてしまったらしい。
 これは、故人が使用していた「髙」の字を用いたためらしい。日本橋髙島屋と同じで、いわゆる「ハシゴ高」だ。芥川賞作家の髙樹のぶ子さんも、そうだ。ハシゴ高はマイクロソフト社の「ワード」では「環境依存文字」となっている。
 パソコンで当欄を読んでいる人は、多くの場合この画面に表示されているフォント(字体)で読める。ちなみにこのフォントは、「メイリオ」という。しかし、自分が気に入っている他のフォントに変換しても読める。その際に「ハシゴ高」が入っていないと、消えてしまう。
 またスマートフォンによっては、表示の負荷を軽くするために、ホームページなどで指定されている書体ではなく、他の適当なフォントで表示されるように、あらかじめ設定してあるらしい。その書体に「ハシゴ高」がなければ、表示されずに削除されることが有るそうだ。
 最初から普通の「クチ高」と呼ばれる一般的な「高」の字体を使用していれば、なんの問題も無かったのだ。つい、つまらない編集者の性(さが)が出てしまった。
 となると、このIT時代に、戸籍が「ハシゴ高」の人は何かにつけて不便な事態が起こる可能性がある。それでは面倒だから、戸籍の「ハシゴ高」を「クチ高」に変えたい、と考える人もいるはずだ。それは、申請すれば受け付けてくれる。
 逆に、「クチ高」の人が、「ハシゴ高の方が格好いい」からという理由で戸籍の変更を申請しても、変えることはできない。高橋治さんの戸籍がどうなっていたかまでは、知らない。髙樹のぶ子さんは、ペンネームだが、旧姓(確か高木だったか)がハシゴ高だったのかもしれない。

×月×日 BSテレビ朝日の番組で、柳家小三治師匠に松岡修三さんがインタビューをしていた。錦織圭選手がフランスオープンで負けた試合を、師匠はテレビで見ていたらしい。
 小三治師匠の「錦織選手は、試合中に日本人特有の、恥じらいが見えますね」という言葉に、松岡さんは感心していた。テニスの経験はほとんどないのに、そこまで指摘する人は、あまりいない。さすが「人間国宝」だけのことはある。
 ウインブルドン選手権は、男子がノバク・ジョコビッチ(セルビア)、女子はセリーナ・ウイリアムス(アメリカ)がそれぞれ優勝した。賞金獲得ランキング通りの結果だった。ファイナリストのロジャー・フェデラー(スイス)にアンディ・マレー(イギリス)、スタン・ワウリンカ(スイス)を加えた「ビッグ4」と錦織選手の間には、まだまだ大きな差があるのを認めざるを得ない。
 そして、芝の季節は終わり、舞台はアメリカのハードコートに移る。錦織圭選手は、8月3日からの「シティ・オープン」(ワシントンDC)に出場する予定だ。そして昨年は準優勝だった「全米オープン」が8月31日から始まる。(15・7・14)
*次回更新は7月29日です。

重金敦之(しげかね・あつゆき)

1939年東京生まれ。元朝日新聞社編集委員。「週刊朝日」編集部在籍時に池波正太郎、松本清張、結城昌治、渡辺淳一など多くの作家を担当した。大学教授を経て、文芸ジャーナリスト。食の分野にも造詣が深く、料理に携わる人たちからの信頼も厚い。日本文藝家協会、日本ペンクラブ、食生活ジャーナリストの会、各会員。『すし屋の常識・非常識』(朝日新書)のほか、『作家の食と酒と』『編集者の食と酒と』『愚者の説法 賢者のぼやき』(いずれも左右社)。最新刊に『食彩の文学事典』(講談社)、『ほろ酔い文学事典』(朝日新書)。