第153回 又吉直樹の『火花』と担当編集者、「しだれ柳」とは? 羽立昌史さんの「ブラッスリー ギョラン」

×月×日 前回の『作家という病』(校條剛・講談社現代新書)の項で、「純文学の作品は売れなくても許されるところがある」と書いたが、又吉直樹さんの『火花』(文藝春秋)は、芥川賞受賞をバネにして、さらに売れ行きを伸ばしている。印税収入を計算して、やっかみと妬みから、「雑音」もあったが、「純文学の商品価値」に大きな、ショックを与えたことは間違いない。
 この作品を世に出した文藝春秋の編集者、浅井茉莉子さんは、それこそ編者者冥利に尽きるだろうし、「編集者史」に長く名前を刻まれるだろう。浅井さんは、2010年に在籍していた、「別冊文芸春秋」を又吉さんが愛読していることを知り、すぐに雑誌を毎号送ったところから、すべてが始まった。
 やがて「文學界」編集部に移り、メールなどで交渉は続いた。「交渉」というよりは、一方的な「口説き」だったと思われる。居酒屋の個室や深夜のカラオケボックスが、「口説き」の場所だった、と「スポーツ報知」紙のインタビューで答えている。
 ある日、「火花」という原稿が、縦書きのワードファイルで送られてきた。「縦書き」というのがいい。多くの人は横書きに慣れているから、横に打つのが普通だ。しかし掲載される雑誌や書籍が縦書きならば、縦に書くのが望ましい。「常識」と言ってもいい。私なら、一行の字詰めも印刷時の様式に合わせたいところだ。同じ単語が隣りの行と並ぶことがある。まったく気にしない人もいるが、私は気になる。
 原稿を手にした浅井さんは、「これが載ったら、ウチの雑誌は完売するな」と思ったというから、やはり並の編集者ではない。もちろん、そのまま掲載されたわけではなく、削除や加筆を繰り返し、改稿に改稿が重ねられて、本屋に並んだ。
 作者が有名人で、しかも「お笑いタレント」という「付加価値」が作用したのも大きな援軍とはなったが、それだけで小説が売れるわけがない。やはり「面白い」から200万部近く売れたのだ。
 文学を志す人たちは、昔から多かったが、そう簡単になれるわけではない。そこで、映画監督、シナリオライター、劇画原作者、作詞家など、いっとき「迂回」して作家を目指す一連の人たちがいた。そこに「お笑いタレント」が加わったといえるだろう。文学と学歴は関係ないが、落語家を含めて「お笑いタレント」の高学歴化は目を瞠(みは)るものがある。
 授賞式後のインタビューで、「面白いものを書きたい」と答えていたのも好感が持てる。受賞決定後のインタビューで、男性のレポーターかアナウンサーが、「又吉センセイといわれるのは、どうですか」と実にくだらない質問をしていた。又吉さんは、「センセイは、おかしいでしょう」とまじめに答えていた。又吉さんから見れば、おそらく「笑いにもならない笑い」だったはずだ。
 反響で面白かったのは、高校時代の国語の教師が、「国語の点数と文章の上手下手は関係ないみたいですね」と、発言していたことだ。その先生にとっては、とてつもなくうれしいのだが、自分がどこまでコミットできたのか、自省しているのだ。心配はないですよ、先生。成績はともかく、それ相応にしっかりと作品に影響しているに違いない。
「下衆(げす)の勘繰り」かもしれないが、これだけのベストセラーを生み出した浅井さんは、どのくらい給料が上がったのか、それとも関係はないのか。編集者は、「自分の給料と作家の原稿料(印税)を比較してはならない」というのが、この業界の「鉄の掟(おきて)」なのだ。

×月×日 九州地方は台風や秋雨前線の影響で大雨が続き、さらに栃木、茨城では大水害となった。どこの放送局だったか忘れたが、市内の水害現場からの中継レポートで、根の部分からすっぽり抜けて横倒しになった柳の木を指さして、「これはしだれ柳です」と言っていた。枝垂(しだれ)桜から連想したのだろうが、しだれでない柳を一度は見てみたいものだ。
 NHKの朝のニュースで、「難民の対応が後手(ごて)に回った」というべきところを、「うしろでに回った」と言った。「後手」は、囲碁や将棋で、後から着手する意味で、反対語は「先手(せんて)」だ。「後ろ手」は、「後ろ手に縛りあげる」などと、手を背中に回すとか、背後(はいご)、後姿(うしろすがた)などを指す言葉だ。

×月×日 白金の魚籃坂下にあった「魚籃」の羽立昌史シェフが、新しく「ブラッスリー ギョラン」を日本橋の八丁堀に開店した。開業日が真夏の暑い盛りだったので、遅ればせながらお祝いに。
 前菜は「ドンブ(フランス)産カエルのプロヴァンス風」と「キャスタン社(フランス)産 鴨のフォアグラのポワレ」フレッシュのジロール茸が添えられていた。主菜は「馬肉(熊本産)のタルタル」を選ぶ。
 ドンブはリヨンの北東約80キロの湖沼地帯。ウシガエルと鶉(うずら)の産地として名高い。パセリとニンニクが効いたエスカルゴソースが、食欲を昂進させる。上品ぶらないところが良い。それは、料理だけでなく、店内の設(しつら)えやサービスする人たちにもいえることだ。今後の繁盛を祈るや切。(15・9・16)

重金敦之(しげかね・あつゆき)

1939年東京生まれ。元朝日新聞社編集委員。「週刊朝日」編集部在籍時に池波正太郎、松本清張、結城昌治、渡辺淳一など多くの作家を担当した。大学教授を経て、文芸ジャーナリスト。食の分野にも造詣が深く、料理に携わる人たちからの信頼も厚い。日本文藝家協会、日本ペンクラブ、食生活ジャーナリストの会、各会員。『すし屋の常識・非常識』(朝日新書)のほか、『作家の食と酒と』『編集者の食と酒と』『愚者の説法 賢者のぼやき』(いずれも左右社)。最新刊に『食彩の文学事典』(講談社)、『ほろ酔い文学事典』(朝日新書)。