第166回 目黒川のお花見クルーズ、『「週刊コウロン」顛末記』、上方落語協会会長選挙、『築地市場クロニクル』

×月×日 今、東京で最も人気のあるお花見スポットは目黒川の中目黒周辺といわれる。東急東横線と地下鉄メトロの中目黒駅周辺で800本、上流域の池尻、烏山遊歩道から下流の五反田、品川まで含めると3000本近い。夕刻になると駅構内は大変な混雑だ。目黒川は世田谷区の烏山川(用水)と北沢川(用水)に目黒の蛇崩(じゃくずれ)川や羅漢川などが合流し、品川で東京湾にそそぐ。現在は東京都の落合水再生センターから、清流化事業として再生水を流入させている。
 大雨が降ると蛇崩川などはしばしば増水して、氾濫したものだが、近年は暗渠化と護岸の改修でおとなしくしている。護岸に桜が植えられたのは、40年以上も前のことになる。樹齢も一部は50年を超える大木に成長し、枝が川面をめざして垂れ下がり、風情を増した。川面に映る太陽を本物の太陽と錯誤して、向日性を発揮するらしい。皇居千鳥ヶ淵の桜が、お堀に向かって垂れ下がっているのも同じ理屈だ。
 目黒川の「お花見クルーズ」があると聞いたので、参加してみた。出発は天王洲ヤマツピア桟橋。目黒川水門をくぐるとすぐに目黒川だ。海岸通りの昭和橋、荏原神社の参道となっている荏川橋を過ぎると、京浜急行の新馬場(しんばんば)駅のプラットホームが上にある。品川から二つ目で、北馬場駅と南馬場駅を一緒にして、川の上に新駅を作った。開通当初は、今の路面電車みたいなもので、駅の間隔が短かったのだ。新幹線、JR東海道線などの鉄橋をくぐる。東京都下水道局芝浦水再生センターの高度下水処理水を放水して、ライトアップする御成橋(おなりばし)をくぐると、JR山手線に出会う。
 いったん山手線の内側に入って、大崎シティを通る。大崎駅北口前にあるニューオータニイン東京の裏側を見る。再び山手線の下を通ると、東急池上線の鉄橋で、五反田の駅前の繁華街。両側に桜並木が続く。そういえば、川岸に映画館を改造したフランス料理の店があった。私の還暦の会を開いてもらったことがある。
 ソメイヨシノが多いが、オオシマ桜、ヤマザクラ(山桜)などの樹もあった。関山(かんざん)のつぼみは、桜湯に用いられる。もちろん八重だ。目黒雅叙園の下でUターン。帰路についた。
 本当はもっとさかのぼって太鼓橋をくぐり、権之助坂、田道の目黒区民センター、東京共済病院から駒沢通りを過ぎて、中目黒の船着き場あたりまで行きたいのだが、水深が浅く、川底には大きな岩石もあるそうだ。東京共済病院の近くでは魚影も見えるし、コウモリも飛んでいるのだが。
 両岸や橋の上からは、物珍しいのか、盛んに手を振ってくれる。非日常の70分だった。

×月×日 先輩編集者の水口義朗さんから新刊の『「週刊コウロン」波乱・短命顛末記』(中央公論新社)をいただいた。
 今の人たちは、「週刊コウロン」といわれても、分からないだろうが、昭和34(1959)年に中央公論社(嶋中鵬二社長)が創刊した週刊誌だ。日本の週刊誌の歴史を繙くと、昭和31(1956)年2月に新潮社が創刊した「週刊新潮」が週刊誌ブームの先がけとなった。それまで週刊誌といえば戦前からある毎日新聞社の「サンデー毎日」と朝日新聞社の「週刊朝日」が、絶対的な存在だった。戦後のジャーナリズムはテレビがまだ登場していなかったから、週刊誌から流行語が生まれ、話題の中心だった。新聞のページ建てが少なかったこともある。
 そこに新潮社が殴り込みをかけた格好になる。同年3月には「朝日ジャーナル」、4月には「週刊現代」と「週刊文春」、5月には「週刊平凡」が続いた。出版社に編集者が大勢いるのは当然だが、事件を取材し原稿を書ける記者はいなかった。各出版社は取材者(特派記者)と執筆者(アンカー)の分業制を敷くことで、その弱点を乗り切った。アンカーは「トップ屋」といわれるようになる。当時は、その週の「トップ記事」が話題になったからだ。後に名を成す草柳大蔵、梶山季之、井上光晴なども仕事をしていた。週刊誌の経験が貴重な財産になったこと、いうまでもない。
 「週刊コウロン」は、後発ながら、先行誌とは一線を画するポリシーを謳った。「スキャンダルは扱わない」「人を傷つけない」「トップ屋は原則使わずに編集者が取材して書く」「特集記事の責任を明らかにするために署名を入れる」といった、ユニークなものだった。しかも当時は30円が大勢だった定価を20円にした。
 この20円という定価は、後に鉄道弘済会(キオスク)や書店から、売上手数料の単価が少なくなるといって、不評を買うようになる。
 早稲田の大学院を出た著者は「週刊コウロン」要員として採用される。新聞社や出版社は、その仕事の内容を考えても、システマティックな「新入社員教育」は難しいし、無いといっても差支えない。公団の家賃と同額のカメラ「オリンパスペン」を自費で買わされた新入社員の著者は、基礎的な訓練や指導もないまま、編集者として作家担当、特集記事、インタビューに追いまくられていく。指導するにしても「週刊誌」は未経験の分野だから、会社自体が新人みたいなものだった。
 嶋中鵬二社長は明治大学でドイツ語を教える学究肌で、小学校からの学友、鶴見俊輔(哲学者、評論家)と永井道雄(教育社会学者、元文部大臣)が私的な相談役だった。編集と企画の実務は評論家の大宅壮一が指導役となり、創刊号から連載した「虚頭会談」という社会時評の司会を務めた。文字通りの大黒柱だった。
 創刊号の表紙は、棟方志功の版画「美神誕生」、連載小説は、五味川純平、松本清張。連載随筆は、谷崎潤一郎、深沢七郎。まだ無名の司馬遼太郎が週刊誌に初めて連載小説「上方(ぜいろく)武士道」を執筆したのも「コウロン」だった。柴田錬三郎の推薦があったという。
 なにしろ大正デモクラシーを率先した総合雑誌「中央公論」の発行元だ。他社との相違をなんとか発揮、熟成させようと必死の努力をしたが、如何ともしがたく一年と十か月で休刊となる。出版業界で「休刊」といえば、「廃刊」と同義語だ。月刊「中央公論」に掲載された深沢七郎の小説「風流無譚」が右翼の攻撃を受け、若い男が嶋中邸に押し入り、お手伝いの女性が殺された悲劇も休刊とは無縁ではない。「人はしょせん金と女と権力欲」を編集モットーとする対抗誌に、「スキャンダルは扱わず、人を傷つけない」という綺麗ごとは通用しなかったともいえるだろう。社業が傾くほどの2億5千万円の赤字だった。僅か22か月。高価な授業料だった。
 本書は、敗軍の一兵卒が「将」を語った「敗者の弁」であり、奮闘記だが、扱った事件や話題の人を紹介し、記事にならなかった裏の事情を詳述していることに特長がある。つまり、ジャーナリズム史を論じながら、現代史を照射している。
 昭和30年代、というのは戦争の混乱から立ち直り、60年安保闘争、東京オリンピックを経て大阪万博を迎え、高度成長経済へと日本が大きく変容する疾風怒濤の時代であり、活気に溢れた時代であった。本書はその時代を週刊誌記者の眼から見た「日本観察記」でもある。
 著者は、「週刊コウロン」が消失してから、「中央公論」、「婦人公論」などの編集部に在籍し、定年退職後には、テレビ朝日の「こんにちは2時」のキャスターとなった。出版社の編集者がテレビの世界で通用したのは、広範な分野に対して「好奇心」を抱く著者の天賦の資質といってもいい。「好奇心」は「野次馬」と同義語だ。「週刊誌ジャーナリズムとは何か?」と問われれば、私は「面白がること」と答える。著者はまさに「面白がる野次馬」にほかならない。
 週刊誌の記者は新聞の社会部的事件記者や文化部の教養押し付け記者とも大きく異なる独特の感覚が必要とされる。新聞やテレビが「建前」のジャーナリズムとするならば、週刊誌は「本音」のジャーナリズムだ。
 事実は一つであっても、映し出される顔は幾通りもある。その多面的な顔を照射するには、標準レンズだけではなく、望遠から広角、さらにズームから接写レンズまで備えていなければならない。著者の眼は複眼で、観る位置も鳥や虫になる変幻自在さを備えている。
 現代社会の「深層史」と著者は書くが、「裏面史」と「意外史」である。活気が横溢していた昭和30年代を「CTスキャン」して、多くの断面を明示した功績は大いに称えられるべきであろう。
 余談だが1999年、中央公論社は経営が傾き、読売グループが全額出資し、中央公論新社として再出発した。「週刊コウロン」の損失も微妙に影響していたのかもしれない。

×月×日 上方落語協会会長選挙は、桂文枝が最多得票を獲得した。近く理事会で正式に再選されるはずだ。桂文珍が高座で、「私は桂ざこばに投票した」と広言していたので、もう少し荒れるのかと思っていたが、ネズミの一匹も出なかった。文枝の不倫騒動は不問に付されたことになる。
 臍(へそ)から下の問題は難しい。臍から下には人格が存在しないといわれるが、最近は「セクハラ」という視点が加わって来たから、女性の立場を無視してあまり擁護すると、落とし穴に落ちることがある。
 政治家も芸人も、「臍から下」は大新聞が取り上げないから救われている部分があるのかもしれない、とも思う。平素の行状や持って生まれた性質など、一切合財を含めて、当人の「人品骨柄」が評価されるのだろう。男女間に齟齬(そご)が生まれるケースの多くは、金銭問題が底流にある。
 それにしても、「イクメン」運動に影響を与え、議員辞職した元代議士や、弱者への支援活動に冷水を浴びせた乙武氏のような問題は、どこかわびしい。しかし、決して途絶えることはない問題でもある。
 瀬戸内寂聴さんが、「乙武さんは作家になればいい」と朝日新聞に寄稿していた。一理はあるが、乙武さんはハンディキャップを負い介護を受ける身だという大事な視点が欠落しているから、説得力がなく誤解される恐れがある。「上から目線」といわれてもやむを得ない。「作家とはそんなに偉いのか」と思った人もいるだろう。

×月×日 畏友、福地享子さんが、『築地市場 クロニクル1603-2016』を朝日新聞出版から出した。築地市場の成り立ちから現在までを、実に多くの写真と資料で説明してくれる。関東大震災の後、日本橋から築地への移転は、大変な出来事だったことが理解できる。
 日本の近代化の中で、流通機構の転換期だったからだ。単に建物を移転するだけでなく、輸送手段や商習慣、労働条件、食生活の変容なども考慮しなくてはならなかった。
 朝日新聞社が有楽町から築地へ移転した1980年ころは、まだJRの貨車が汐留から場内に乗り入れていた。一日に一便、夜の11時を過ぎると、踏切の警報が鳴り、新大橋通りの車は、貨車が通過するのをおとなしく待っていた。
 やがて輸送手段は、自動車が主力となる。北海道や九州から活魚を積んだトラックが築地を目指した。江戸時代、大分の城下カレイを船のイケスで泳がしながら江戸まで運んだことを思い浮かべても、日本人の鮮魚に掛ける執念はすさまじい。
 築地市場は今年の11月に江東区の豊洲に移転する。本書は築地魚河岸の挽歌であり、新しい豊洲時代のプレリュードでもある。築地市場の盛衰を多面的な史料を博捜し、ヴィジュアルに解析、再構築した労作だ。市場関係者のみならず、食に関心のある人には必読の書といえる。婦人雑誌編集者だった著者が畑違いの「築地市場の魚屋さん」になって、早くも20年近い。ここにも、好奇心に富んだジャーナリストの姿がある。(16・4・13)
◆次回更新は、4月27日の予定です。


重金敦之(しげかね・あつゆき)

1939年東京生まれ。元朝日新聞社編集委員。「週刊朝日」編集部在籍時に池波正太郎、松本清張、結城昌治、渡辺淳一など多くの作家を担当した。大学教授を経て、文芸ジャーナリスト。食の分野にも造詣が深く、料理に携わる人たちからの信頼も厚い。日本文藝家協会、日本ペンクラブ、食生活ジャーナリストの会、各会員。『すし屋の常識・非常識』(朝日新書)のほか、『作家の食と酒と』『編集者の食と酒と』『愚者の説法 賢者のぼやき』(いずれも左右社)。最新刊に『食彩の文学事典』(講談社)、『ほろ酔い文学事典』(朝日新書)。