第169回 村上豊画伯の個展、舛添要一知事と白鵬、北欧のレストラン「ノーマ」、蜷川幸雄さん逝く、朝日名人会の桂歌丸、渡辺淳一文学賞と「淳ちゃん先生」のこと

×月×日 画家の村上豊氏が銀座の「和光」ギャラリーで個展を開いた。会場に居合わせた豊さんと久闊(きゅうかつ)を叙し、お互いの息災を喜ぶ。昭和11年生まれだから、私の三つ上。本人は盛んに「終活」を口にするが、展示された絵はまだまだ元気だ。
 画伯の引き出しは多い。有難い仏画から飄逸な味わいのある童画、純朴でユーモラスな動物や農村風景、現代の最先端を行く美人画まで、実に多才だ。脱俗超凡(だつぞくちょうぼん)の境地を模索しているのかもしれないが、筆致は決して老け込んではいない。老成したふりをしているだけだ。いつまでも元気に彩管を揮ってもらいたいものだ。再会を約して別れる。

×月×日 舛添要一東京都知事の悪行はとどまるところが無い。公用車での湯河原通いから始まり、政治資金の私的流用が指摘され、ネットオークションによる美術品購入まで暴かれた。
 購入した美術品は、「海外交流のためのツール」とか「研究用資料」に用いたので、「問題はない」と強弁しているが、意味がわからない。
 問題があるかないかは、都民が判断することだ。今まで金を使いつけていない者が、急に金を使えるようになり、舞い上がって放縦乱費(ほうしょうらんぴ)している図が見えてくる。
 大相撲の横綱、白鵬の品格の無さと同じだ。「取り決めには抵触していない」は、「張り手やかちあげは反則技ではない」と同じ。さらに言うなら、前回紹介したキラキラネームが戸籍法に違反しない、とも同じだ。「品格」には、基準や規範が無い。しかしその曖昧にも自ずと「限度」が生まれてくる。「法」や「取り決め」を天下の宝刀として振りかざしてばかりいたら、人間社会がギクシャクしてくる。お互い素直に一歩引くことが、居心地の悪さを防ぐ人間の知恵だ。
 上に立つ人ほど、他人の立場に気配りをする必要がある。横綱が「張り手」や「かちあげ」をかますのは、みっともないということがわかっていない。舛添知事も白鵬も「実るほど頭を垂れる稲穂かな」という格言を拳拳服膺(けんけんふくよう)してもらいたい。
 舛添知事は高校時代の全国模試で、いつも上位にいたそうだからわかるだろうが、モンゴルには水田が無いから、無理な注文か。舛添知事や白鵬を見ていると、生まれ育った家庭での「教育」に問題があるように思える。「衣食足りて礼節を知る」とは無縁だったのかもしれない。

×月×日 映画「ノーマ、世界を変える料理」を新宿東口のシネマカリテで。「ノーマ」とは、コペンハーゲンのレストラン。北欧の素材を用いて新しいスタイルの料理を売り物にする。イギリスのメディア会社が運営している「世界ベストレストラン50」で1位に選ばれた。世界中の千人足らずの評論家の投票によるランキングだ。
 フランスの「ミシュラン・ガイド」よりも、こちらのランキングを目指すシェフも多い、といわれるが、まだまだ歴史や伝統に差がある。芥川・直木賞と本屋大賞の違いだ。
 日本でも、「ノーマ詣で」が盛んで、私の知人にも複数いる。昨年の1月には期間限定で、「ノーマ・アット・マンダリン・オリエンタル・東京」を出店した。約2,000席で、7万円近いという価格にもかかわらず、世界中から6万人の予約が殺到したといわれる。
 映画は、1977年生まれのシェフ、レネ・レゼピのドキュメンタリー。観終わって、コペンハーゲンの店まで行ってみたいと思うか、どうか。食べる営みは個人の主観的好みの問題だから、傍からとやかく言っても始まらないが、帽子もかぶらず、体の見える部分にタトゥーを入れた料理人(シェフではない)が作る料理を私は食べたくはない。客席から見えているかどうかは、わからないけれども。

×月×日 演出家の蜷川幸雄さんが亡くなり、告別式では親交が深かった5人が弔辞を読んだ。故人から「一度も褒めてくれなかった」平幹二郎さんは、「僕は何とかあなたから褒めことばを引き出したく、熱演に熱演をつづけました」と読み上げたが、自身の演技を自ら、「熱演」というのはおかしい。「熱演」かどうかは、他人が判断するものだ。
 また故人より年少の役者が、「戦友が死んだ」とコメントしていたが、いくら生前に「お前とは戦友だ」といわれたとしても、不遜というものだ。演出家からすれば「おだて」だったかもしれないし、「戦友」以前に「師」であったはずなのに。
 不謹慎かもしれないが、著名人の「葬儀」には、見えないものが見えてくる。有吉佐和子から、「あなた! 作家と役者の葬儀には必ず出るものよ」と、亡くなる直前に言われたことを思い出した。

×月×日 朝日名人会。「壺算」春風亭朝也、「天災」柳家小里ん、「塩原多助一代記―多助の出世」桂歌丸、「品川心中」立川生志、「すみれ荘二〇一号」柳家喬太郎。
 車椅子で楽屋入りする歌丸が熱演。翌日がテレビ「笑点」の最後の司会の生放送。台本ありのマンネリ番組も、数が続けば「偉大なマンネリ」となる。レギュラー出演者となれば、地方公演の出演料がはねあがるという。落語の普及に貢献したのか、どうか。派手な色の着物は堕落の象徴ともいえる。
 後任の司会者は、春風亭昇太に決まったとのこと。無難なところだ。

×月×日 第一回「渡辺淳一文学賞」(集英社主催)は、川上未映子さんの『あこがれ』(新潮社刊)に決まり、パレスホテルで開かれた贈賞式に出席する。
 主人公の小学校6年生、3歳の時に母親と死別したわたし(ヘガティー)と4歳で父親が亡くなった麦彦を取り巻く大人たちのドラマは、「人間心理に深く迫る豊潤な物語性」という賞の精神に合致している。読後感が爽やかなのが良い。全編を通じ、「少年・少女文学」的な雰囲気が横溢しているので、渡辺流の「性愛文学」を期待していた人は、はぐらかされた、と思うかもしれない。渡辺さんに言わせたら、「もっと男と女のどろどろした関係を描かなければ……」と注文を付けるかもしれないけれども。
 第一回の受賞作というのは、将来の賞の行く末に大きな影響を与える。川上未映子さんは作家生活10年にして、すでに紫式部文学賞、高見順賞、谷崎潤一郎賞などを受賞している。選考委員よりも受賞歴は華やかだ。次回からは候補者の受賞歴までも考慮しなくてはならなくなるだろう。新しい文学賞というのは、いろいろと厄介な問題があるものだ。

 ところで、前回お知らせしたように、私と渡辺淳一との交友について、気の向くままに書き留めておくことにする。
 初めて渡辺と会ったのは、1970年の春で、意外にも我が家から歩いて5、6分のマンションに越してきたばかりだった。
 私は東京オリンピックが開かれた1964年に朝日新聞社に入社した。すぐに「週刊朝日」の編集部に配属され、69年から季刊の新雑誌「週刊朝日カラー別冊」の編集に携わることになった。それまで日本の雑誌は、ページによって紙質が異なるのが通例だった。カラーグラビア、モノクローム(黒白)のグラビア、活版の本文用紙、といった具合だ。読み物雑誌だと、ピンクや黄色の「お色気ページ」もあった。そんな時代にすべてのページを同質のカラーグラビア用紙で、オフセットで印刷するという画期的な雑誌を志向したのである。
 広範な海外取材と日本の伝統文化を深く探索する、先駆的な雑誌だった。万国博覧会が大阪で開かれ、海外へのパッケージツアー(団体旅行)が増え続けていた。畏れ多くも1888年に創刊された「ナショナル・ジオグラフィック」の日本版を目指すという「野心」も有ったのだ。
 69年の4月、でき上がったばかりの創刊号を携えて、ワシントンの「ナショナル・ジオグラフィック協会」を訪ねた。広報部長は後ろからページをめくって一目見るなり、「ハンサムマガジン」という言葉を口にした。「ハンサム」とは雑誌にも使うことを学んだ。
 さらに広報部長氏は、いかにも申し訳なさそうに説明してくれた。
 「わが雑誌は地理学などの啓蒙と普及を目的として設立された非営利団体が出版しているので、税金が免除されているんだよ」
 その裏には、「日本人なんかに出来るわけがない」という誇り高き自信といささかな憐憫(れんびん)の情があった。「ハンサムマカジン」が外交辞令であることがたちどころに理解できた。
 「カラー別冊」の消長については、また後で触れる。そんな実験的季刊誌に「現代恐怖」という通しテーマで掌篇小説を企画したので、執筆の依頼に渡辺家を訪ねたのだった。

 私が入社した1964年は東京オリンピックが開催された年で、渡辺は札幌の同人誌「くりま」に発表した「華やかなる葬礼」が、北海道新聞社の「道内同人雑誌秀作」に選ばれている。本業は北海道立札幌医科大学整形外科学教室助手。昭和8年生まれの渡辺は私より6歳年上で、30を越えたばかりだった。
 翌年、「華やかなる葬礼」は「死化粧」と改題のうえ、文芸誌「新潮」(新潮社)に掲載され、新潮同人雑誌賞を受賞する。この「死化粧」は1965年下期の芥川賞候補になったが、受賞には至らなかった。1967年には「霙(みぞれ)」が上期の直木賞候補に推されたが、生島治郎の「追いつめる」が受賞し、選に洩れた。下期には「訪れ」が連続して候補に挙げられたが、受賞には至らなかった。受賞作は野坂昭如(「アメリカひじき」「火垂るの墓」)と三好徹(「聖少女」)だった。
 この頃、渡辺は北海道出身の伊藤整、船山馨の知遇を得て、先輩作家として敬愛するとともに、作家としての身の処し方を学んだ。大ざっぱに言えば、芥川賞路線で行くのか、直木賞路線で行くのかの「迷い」が有ったのかもしれない。
 また有馬頼義から、有馬が主宰する若手作家の勉強会「石の会」に誘われ、入会する。五木寛之、色川武大、笠原淳、後藤明生、早乙女貢、高井有一、高橋昌男、立松和平、佃実夫、中山あい子、萩原葉子などが顔をそろえていた。すでに五木寛之は「蒼ざめた馬を見よ」で直木賞を受賞し、高井有一は、渡辺の「死化粧」が芥川賞候補になった回に「北の河」で受賞していた。最年少の立松和平はまだ早稲田の学生で、書記役というのか庶務の仕事をしていた。
 1968年8月8日、札幌医科大学で、渡辺淳一の運命を大きく変える「事件」が起こる。胸部外科の和田寿郎教授(故人)が、日本で初めて心臓移植手術を施行したのだ。
 奇しくもその直前、渡辺は心臓移植をテーマにした「ダブル・ハート」という作品を「オール讀物」(文藝春秋)9月号に発表した。(この項続く=敬称略)(16・5・25)

次回更新は、6月8日の予定です。
重金敦之(しげかね・あつゆき)

1939年東京生まれ。元朝日新聞社編集委員。「週刊朝日」編集部在籍時に池波正太郎、松本清張、結城昌治、渡辺淳一など多くの作家を担当した。大学教授を経て、文芸ジャーナリスト。食の分野にも造詣が深く、料理に携わる人たちからの信頼も厚い。日本文藝家協会、日本ペンクラブ、食生活ジャーナリストの会、各会員。『すし屋の常識・非常識』(朝日新書)のほか、『作家の食と酒と』『編集者の食と酒と』『愚者の説法 賢者のぼやき』(いずれも左右社)。最新刊に『食彩の文学事典』(講談社)、『ほろ酔い文学事典』(朝日新書)。