第170回 桃月庵白酒の「宿屋の仇討」、「笑点」の新メンバー、大和君の生還、『築地の記憶』、全仏オープンの錦織圭選手、「淳ちゃん先生」のこと

×月×日 JR大井町駅前の「きゅりあん大ホール」で桃月庵白酒、春風亭一之助、柳家喬太郎の「気になる三人かい・・・」へ。白酒の「宿屋の仇討」、一之助の「うなぎの幇間」、喬太郎の「井戸の茶碗」と大ネタが揃った。客の笑いを誘う「時の話題」は、舛添要一東京都知事の愚行とテレビ「笑点」の新司会者、春風亭昇太と後任の回答者。
 白酒は、トップバッターを務めると浅草演芸場へ向かうとのこと。JRの京浜東北線に上野まで乗ってから、タクシーを利用するらしい。

×月×日 「笑点」の新メンバーは林家三平に落ち着いた。「落語家の墓場」と陰口を叩かれた「笑点」も少しは若返ることになる。まあ、落語界の「広告塔」と考えればいいのかもしれないが、落語とは別物だ。
 それにしても、2週続けて視聴率27%超えは驚異的な数字で、日本テレビもうまく引っ張ったものだ。

×月×日 NHKのBSで1983年公開の映画「居酒屋兆治」(原作=山口瞳)を放映していた。
 高倉健、池部良、大原麗子、佐藤慶、大滝秀治、東野栄治郎などはすでにいない。どこでどうしているやら、ちあきなおみや田中邦衛など懐かしい顔が見える。山口瞳、山藤章二が特別出演している。

×月×日 行方が分からなかった北海道七飯(ななえ)町の小学2年生、大和(やまと)君が6日ぶりに無事発見されたのは、うれしい知らせだった。日本ハムファイターズの中田翔選手が、かつて大和君のユニホームにサインしたのを覚えていたというのも心温まるニュースだ。
 それにしても、自衛隊まで出動する大騒ぎになった原因は、お粗末だ。もし最悪の結果になっていたとしたら、あまりにも空しすぎる。

×月×日 世界最大の魚市場として知られる通称「築地市場」、正確には「東京都中央卸売市場築地本場」が江東区の豊洲に移転する日まで、五か月を切った。これを機に廃業する「仲卸し」も多いが、飲食店でも、「築地なら出かけられるが、豊洲までは足を延ばしたくない」と言って、店をたたむところが出てきた。
 大塚の三業地の料亭「なべ家」もそうだ。昭和10年ごろの創業と聞いているから、約80年の歴史が閉じられる。江戸料理の研究家としても知られるご主人の福田宏氏も、時代の流れにはかなわなかったらしい。
 そんなこともあってか、築地関係の書籍が目につく。『築地の記憶―人より魚がエライまち』(文・富岡一成、写真・さいとうさだちか=旬報社)を読む。築地に関するエンサイクロペディアというよりは、トリビアリズム集といった方がいい。みんな築地に関しては、なにかしら「一家言」を持っている。知ったかぶりである。知っていたからといって、何の役にも立たないし、尊敬もされない。だけど、喋りたいのだ。そんなトリビア・マニアには役に立つ本ではあるが、人生の役には立たない。築地は実に不思議な「場所(シマ)」だ。
「人より魚がエライまち」というサブタイトルがすべてを語っている。自宅を月島に移転して取り続けてさいとうさんの写真は、迫力がある。特に外人観光客の姿が現代の築地を鋭く、的確に表現している。築地に対する愛情に、「シマ」の人たちが見事に応えてくれた。

×月×日 テニスの4大大会の一つ「全仏オープン」は、ノバク・ジョコビッチ(セルビア)がアンディ・マリー(イギリス)に逆転勝ちして、念願の初タイトルを獲得した。これでジョコビッチは8人目の4大大会を制する「生涯グランドスラム」の栄誉に輝いた。われらが錦織圭選手はベスト16で姿を消した。
 今シーズンは好調で、上位進出が期待されただけに、残念な結果だった。グランドスラムとなると5セットマッチになり、体力勝負だ。
 他の外国人選手に比べると、錦織の「ひよわさ」はいかんともしがたい。ロジャー・フェデラー(スイス、世界ランキング3位)は欠場し、ラファエル・ナダル(スペイン、5位)やジョー=ウイルフィールド・ツォンガ(仏、7位)も体調をくずして棄権している。それだけ錦織選手にとって、今回はチャンスだったのだけれども。

×月×日 前回に続いて、「淳ちゃん先生」のことを書く。
 昭和43(1968)年8月8日の未明、北海道立札幌医科大学で、日本初の心臓移植手術が行われた。執刀医は胸部外科教授の和田寿郎。当時46歳。北海道大学医学部を卒業後、札幌医大講師時代にアメリカへ留学し、心臓外科学を学んだ。
 南アフリカのケープタウンで世界初の心臓移植手術を行った心臓外科医、クリスチャン・バーナードは、ミネソタ大学で和田の2年先輩だった。バーナードは1967年12月3日に執刀し、55歳の食料品卸売業の患者(レシピエント)は19日後に死亡した。心臓を提供したのは、交通事故で運び込まれた24歳の女性だった。19日後に死亡ということは、19日間も生きていた、ことでもある。
 動物を使って、心臓を置き換える実験手術は、それまでに世界中で繰り返されてきた。1964年には、チンパンジーの心臓を人間に移植したケースもあったが、患者は90分後に手術台の上で亡くなっている。多くの動物実験や失敗例を重ねた結果、心臓を単なる臓器として、人間同士で置き換える試みが現実となった。
 心臓は他のもろもろの臓器と違い、人間の根源を成す神聖な象徴とする思考は、洋の東西で長く支持され続けてきた。しかし、その「信仰」ともいうべき「心臓崇拝」は、バーナードの手術を契機として一瞬にして崩壊し、心臓移植手術が世界中で続々と行われていった。心臓は単なる血液のポンプに過ぎないという見方だ。
 ケープタウンのバーナード手術の結果も待たず、3日後の12月6日には、ニューヨークのマイモニディーズ病院で、エイドリアン・カントロヴィッツが生後2週間の心臓奇形児に移植手術を施している。先天性無脳児から心臓を摘出した。世界で第2例目となる。カントロヴィッツはアメリカ全土の主要な病院に、「先天性無脳児が生まれた場合、すぐに連絡するように」という「お願い」を出していた。
 バーナードは、第1例の患者が亡くなるとすぐに1968年1月に第2例の手術を行っている。1968年は心臓移植元年ともいうべき年で、世界で101例の手術が行われた。ほぼ3日に1例の手術が行われた計算だ。うち54例がアメリカで、日本の症例もある。札幌の和田心臓移植であるこというまでもない。
 手術を受けたレシピエントは、宮崎信夫。18歳、小学校の5年生の時からリウマチによる合併症で、心臓に難があった。心臓を提供したドナーは、東京の大学生、山口義政。21歳。夏休みで帰省し、たまたま7日のお昼ごろ小樽の蘭島(らんしま)海岸で友人たちと遊泳中に溺れたのだ。北海道の海水浴場として最も古い蘭島海水浴場は、平日の水曜日といっても、短い束の間の夏休みを楽しむ1万人近い海水浴客で賑わっていた。
 呼吸が停まった状態の山口は心音も無く、人工蘇生器による酸素吸入と心臓マッサージを受けながら、小樽市内では大病院とされる野口病院に救急搬送された。意識は戻らなかったが、自力で呼吸ができるようになり、心拍音も聞こえた。
 しかしなぜか夜の8時を過ぎたころ、山口は札幌医大の高圧酸素室による治療を受けるために札幌に転送される。さらに日付が変わり、山口の心臓は摘出されて、宮崎の心臓と置き換えられた。
 翌8日の読売新聞(北海道版)朝刊では、「心臓が動きだした! 一度は〝死んだ〟水難大学生、懸命の人工呼吸40分 医者はサジなげたが」というスクープが社会面のトップを飾っている。ところがその日の未明に、山口の心臓は摘出され死亡していたのだから、結果的に読売新聞のスクープは、「誤報」となった。
 和田は、8日の午後一時過ぎ、道政記者クラブを通じ、「札幌医大胸部外科で心臓全置換手術を行った」と発表した。
和田教授の心臓移植は、実に様々な問題を残した。宮崎信夫は心臓移植を本当に必要とする緊急の病状だったのか、という基本的な疑問も出てきた。あまりにも不可解なことが多すぎたのである。
 小樽の海岸で溺れたドナー(山口義政)の死亡判定もあいまいだ。なぜ、小樽の野口病院から札幌医大に「転送」されたのかも疑いが残る。院長の野口暁と和田は親しい関係にあった。「置換手術」をするために、元気な「心臓」をあらかじめ依頼していたのではないか、という噂がすぐに飛び交った。不可解な「謎」が次から次へと湧きあがってきた。
 しかし、そのような批判も、後になってからのことで、発表当初札幌の町は、「日本初の心臓移植」に湧いていた。もちろん、メディアも例外ではなく、浮かれていたともいえるし、ジャーナリズムの特性として結果的に煽った一面もあったに違いない。
 レシピエント、ドナー、脳死、インフォームドコンセントなど、現在では、ごく当たり前になった医学用語も、この事件以来一般的になったといえないだろうか。心臓移植が行われてから約4か月後の12月に大阪の漢方医らが、和田寿郎を殺人罪で告発した。それよりも前に、検察当局内部でも、「人体実験の疑いがあるから捜査すべし」という意見があった。
 他人(ひと)が足を踏み入れてないところに最初の一歩を記す挑戦的で勇気を必要とする行動は、常に蛮行と紙一重の危険を伴うものだ。この「先駆的」な和田心臓移植手術によって、日本の臓器移植は30年以上遅れたといわれる。事実、脳死を人の死とする「臓器移植法」が成立したのは、1997年のことで、和田手術から30年の歳月が経過していた。しかし、ここでは和田移植の問題を検証するのが本旨ではない。
 同じ大学の整形医学教室講師の渡辺淳一に戻りたい。渡辺が作家の道に進むきっかけとなったのが和田移植手術ともいえる。和田と渡辺の間には不思議な糸が絡みついていた。
 手術が行われてから、5日後の8月12日の朝日新聞夕刊に作家の吉村昭は、「心臓移植に思う 宗教的・倫理的なものへ不逞とも見える挑戦」と題して寄稿した。(敬称略・この項続く)(16・6・8)

次回更新は6月22日の予定です。
重金敦之(しげかね・あつゆき)

1939年東京生まれ。元朝日新聞社編集委員。「週刊朝日」編集部在籍時に池波正太郎、松本清張、結城昌治、渡辺淳一など多くの作家を担当した。大学教授を経て、文芸ジャーナリスト。食の分野にも造詣が深く、料理に携わる人たちからの信頼も厚い。日本文藝家協会、日本ペンクラブ、食生活ジャーナリストの会、各会員。『すし屋の常識・非常識』(朝日新書)のほか、『作家の食と酒と』『編集者の食と酒と』『愚者の説法 賢者のぼやき』(いずれも左右社)。最新刊に『食彩の文学事典』(講談社)、『ほろ酔い文学事典』(朝日新書)。