第171回 舛添都知事辞任と「せこい」、映画「二つ星の料理人」、ナルク市川拠点(ふれ愛ローズ)、柳家小三治一門会、淳ちゃん先生のこと(その3)

×月×日 すったもんだの騒動の末に辞任した舛添要一前東京都知事の言動は、「空しい」のひと言。情けなくなる。都議会で自民党都会議員神林茂氏が「あまりにせこい。せこすぎる」と発言したと思ったら、翌日の朝日新聞「天声人語」子も、使っていた。
 もとは役者、寄席芸人の間で使われた。「悪い、醜い、下手だ、くだらない」などの意味だった。そこから、「少ない、けち、しみったれ、いじましい、料簡が狭い」と変化した。
 落語家の三遊亭圓生は、「今日はネタおろし(初演)ですから、セコでげすよ」などと、喋ったそうだ。「今日の客はセコだね」といえば、「客の入りがよくない」とか、「客の程度が悪い」といった意味になり、芸人が仲間うちで用いたものだ。「セコがき(悪童)」などとも使う。俗語や隠語の多くは、人前で聞かれてはまずい事柄を自分達だけに通じるように話したところから生まれることが多い。
 「世故(せこ)」という言葉がある。世の中の諸事情、習慣や俗事を指す。一般的には、「世故に長(た)ける」として用いられるが、あまり良い意味では使わない。どちらかというと、世の中をずるがしこく、要領よく立ち回る人を表現する。この「世故」が語源で、「世故(せこ)い」が生まれた、という説がある。また拙(せつ)や醜(しこ)が転化したのではないかと考える人もいる。
 その真偽はともかく、舛添前都知事の行動と釈明(というより言い逃れだが)を表現するのに、これ以上の的確な言葉はないが、都議会での発言や全国紙の用語としては、どうにもなじまない。品位に欠ける。朝日新聞の社会面では、「セコい」と表現している。ますます品が悪くなる。「ヤバい」と同類だ。ニューヨークタイムス電子版でも今回のエピソードを言い表すのに最も数多く使われた言葉として、「SEKOI」が紹介されたらしい。とても、胸を張れるような日本語ではない。
 舛添前都知事には、かつて作家の城山三郎が元国鉄総裁石田礼助について書いた小説『粗にして野だが卑ではない』を進呈したいが、「馬の耳に念仏」だろう。
 「吝(りん)にして嗇(しょく)、その上、狡(こう)にして猾(かつ)、加えて卑にして怯(きょう)でもある」ときているのだから。

×月×日 新宿ピカデリーで映画「二つ星の料理人」。ロンドンのレストランを舞台に、「ミシュランガイド」の三つ星を目指すシェフの物語。ロンドンというところが、微妙な風味を出している。
 三ツ星レストランの調理場の雰囲気にリアリティがある。聞けば、調理スタッフのほとんどは俳優ではなくプロの料理人だそうだ。
 観客の中にはレストランの若手料理人とおぼしき姿が目についた。調理だけでなく、サービスや内装、厨房の設備など少しは参考になることだろう。

×月×日 NPO法人「ナルク=NALC(ニッポン・アクティブライフ・クラブ)」の傘下にある「ナルク市川拠点(ふれ愛ローズ)」の定期総会に招かれ、「作家が描いた日本の豊かな食生活」という題で話をする。市川市男女共同参画センターとの共催。
 NALCとは、「自立・奉仕・助け合い」をモットーに、夫婦で参加するボランティア団体とのこと。元気な高齢者を前に、あまり元気ではない高齢者が話をするのは、どこかおかしい。それでも熱心に聞いていただいた。

×月×日 柳家小三治一門会を北千住テアトル1010で。開口一番は柳家三三の弟子で、近く二つ目に昇進する柳家こかじが「狸札」。柳家〆治の「阿武松(おおのまつ)」、柳家一琴が「夢八」と続いて、小三治が季節の定番「青菜」でしめた。 
 小三治は、まくらで、「せこい」に触れ、「あれは、われわれ芸人が使う言葉ですよ」と念を押していた。観客は、注目の小三治のまくらを一言でも聞き逃すまいと、耳をそばだてて聞き入っている。すこし異様だ。いくら小三治のまくらが有名だからといって、客の方が難(かた)くなることはない。

×月×日 淳ちゃん先生のこと(承前その3)
 1968年8月8日の未明に行われた札幌医大の心臓全置換手術の事実は、午後になって和田寿郎が記者会見をして発表した。
 この心臓移植手術を私は取材していない。「週刊朝日」編集部にいたはずだが、もしかしたら先述の「週刊朝日カラー別冊」の準備に入っていたのかもしれない。同じ編集部ではあったが、本誌と別冊の仕事は兼務、重複はしないという妙な取り決めが労働組合の「職場レベル」でなされていた。
 渡辺淳一が手術直前に短篇小説「ダブルハート」を発表したのは知っていたが、まだ読んではいなかった。勤務先の大学病院も同じという妙な縁もあるもので、もし取材を命じられたのなら、渡辺に会って話を聞けば、面白いのではないかとは思っていた。そんな作家と作品があることを知っている者は、編集部の中でまず見当たらなかった。
 作家の吉村昭は手術から4日経った12日の朝日新聞夕刊の文化面に、「心臓移植に思う」と題して寄稿した。おそらく学芸部のほうで付けたと思われるが、「宗教的・倫理的なものへ 不逞とも見える挑戦」と見出しにある。「不逞とも見える挑戦」の方が大きい活字だ。
 同じ紙面の下段には、全5段で、週刊誌「女性自身」(8月19日号)の広告が載っている。右端に大きく「札幌医大・心臓移植のドラマを詳報」とあり、次の言葉が並んでいる。
 「信夫よ、心臓よ、動きつづけて・・・!! 
 ・息づまる深夜の大手術を誌上公開
 ・その朝の執刀医・和田教授が妻にした電話
 ・提供者の遺族と喜ぶ両親と・・・・・・」
 それこそ日本中が、心臓移植に「興奮」している様子がうかがえる。
 吉村は、心臓移植手術をテーマにした小説を朝日新聞日曜版に連載するため、世界の「心臓移植手術」を取材していた。前々回に紹介した世界初の心臓移植手術を執刀した南アフリカのクリスチャン・バーナードに会うため、首を長くして入国許可が下りるのを待っていた。当時の南アフリカはアパルトヘイトが厳然と敷かれ、商社や水産関係など数人の日本人が現地に在住しているだけだった。日本人は「名誉白人」として遇され、公共機関の乗り物では白人席に座れるらしい、といった程度の情報しかなかった。
 手術の第一報が入ったその夜、吉村は朝日新聞社で行われた札幌の和田寿郎と東京の外科医、林田健男東大医学部教授、近藤芳夫同助手、刑法学者の植松正一橋大学教授の電話対談を傍聴すると、翌朝すぐに札幌へ飛んだ。
 吉村の文章の要旨を述べる。重要なことは次の2点だ。
 ◎医学が進歩し、心臓を単なるポンプとしての臓器に過ぎないと考えるのには多くの疑念がある。今回の手術は日本人の精神的支柱として考えられてきた宗教的、倫理的な死生観に対する不逞な挑戦ではないか。生きのいい心臓を得たいがために、幾分早めに、死の判定を下すのではないかという危惧がある。
 ◎世界最初の心臓移植手術が南アフリカのケープタウンで行われた理由は、南アフリカは「世界の密室」で、医師たちは社会的な圧力を受けることなく積極的な姿勢を取れたが、アメリカでは社会的圧力があり、「ためらい」が有ったからではないか。東京にも心臓移植ができる有能な医師がいるのに、唐突に札幌の公立大学で行われたのは、札幌が日本の南アフリカだったからだ。
 吉村の寄稿は、一読して心臓移植を好意的にとらえていないことが分かる。「人種差別」と心臓移植手術とはまったく関係ない、と文中で断ってはいるものの、「札幌は日本の南アフリカ」と言い切るのは、少し乱暴だと思ったのを覚えている。またその時浮かんだのは、渡辺淳一がこの文章を読んでどのような感想を持つのか、ということだった。
 吉村昭は終戦直後の昭和22年から4年間の病臥(びょうが)生活を送っている。肺結核に侵され、喀血を繰り返した。町医者の言う通りにひたすら安静を守っていた。当時の結核治療法といえば、特効薬も無く、ドイツで開発された肋骨を切り取る手術しか方法がなかった。
 吉村はその外科手術を受けたいと思った。「危険だから止めた方がいい」という兄の意見もあったが、「このままでは死から逃れられないのだから、その手術に賭ける」と言って、23年に東大病院で5本の肋骨を局部麻酔によって切除した。抗生物質などの新薬が開発された今になってからいえることだが、実に「無用の手術」だった。自身の体験を通して、近代医学そのものに不信感があったのだろうか。
 北海道に対する一種の偏見もあったのかもしれない。学習院大学に入学し、同人雑誌で知り合った北原節子(津村節子)と結婚するが、長兄が経営する紡績会社で禄を食んでいた。原糸の見本を持ってメリヤス工場から注文を取るのだが、相手の工場が倒産し、大量の製品を引き受ける羽目になった。厚手のセーターを担いで東北地方から北海道を行商に回ったことがある。根室では警官から強盗と思われ職務質問を受けるほどの「流浪の新婚旅行」だった。帰京してから、津村節子が旅の様子を実姉に報告したら、「すぐに別れなさい」といわれた。
 昭和20年代の道東は、まだまだ未開の地といっても間違いなかった。昭和30年代の終わり頃まで、札幌市の繁華街、薄野(すすきの)の道路は舗装もされていない泥道で、馬車が我が物顔に歩いていた。阿寒湖や洞爺湖近辺の主要観光道路も現在のように整備されているわけではなく、穴ぼこだらけの「洗濯板道路」で、バスの後ろにはもうもうたる砂埃(すなぼこり)が舞った。当時の北海道の風景の印象が、吉村昭にはまだ残っていたのではあるまいか。
 日本で初めての心臓移植手術に「成功」した札幌は、一種のお祭り騒ぎだった。そんな興奮状態の中で、吉村の文章は比較的早く打ち上げられた「和田批判」の狼煙(のろし)だった、といえるだろう。
 渡辺淳一はこの文章にいち早く、しかも鋭敏に反応した。今風の表現を用いるとすれば、「キレた」といってもいいかもしれない。
 吉村の文章が掲載されて5日後、移植手術から9日経った8月17日、同じ朝日新聞夕刊の文化面に、「臨床医学の宿命 不逞の挑戦こそ進歩 吉村昭氏の心臓移植論を読んで」と題して、渡辺の反論が掲載された。文末の肩書は「作家・札幌医大付属病院整形外科講師」とある。異例のことといってもよい。(敬称略=この項続く)(16・6・22)

次回の更新は7月6日の予定です。
重金敦之(しげかね・あつゆき)

1939年東京生まれ。元朝日新聞社編集委員。「週刊朝日」編集部在籍時に池波正太郎、松本清張、結城昌治、渡辺淳一など多くの作家を担当した。大学教授を経て、文芸ジャーナリスト。食の分野にも造詣が深く、料理に携わる人たちからの信頼も厚い。日本文藝家協会、日本ペンクラブ、食生活ジャーナリストの会、各会員。『すし屋の常識・非常識』(朝日新書)のほか、『作家の食と酒と』『編集者の食と酒と』『愚者の説法 賢者のぼやき』(いずれも左右社)。最新刊に『食彩の文学事典』(講談社)、『ほろ酔い文学事典』(朝日新書)。