第172回 石井真介の「シンシア」、落語「浜野矩隋」、柳家三三、淳ちゃん先生のこと(その4)

×月×日 渋谷の神泉に「バカール」という予約がなかなか取れないレストランがあった。ソムリエの金山幸司さんがオーナーで、料理は石井真介さん。蟹味噌をソースにしたバーダカウニャが評判だった。石井さんが盛り付けたさまざまな野菜の形と色のバランスは、ちょっと余人には真似ができない。技術ではなくセンスの問題だ。料理の盛り付けというよりは、生け花のアレンジメントに近い。
 しばらく店を閉じていたと思っていたら、金井さんは昔の場所で「マティーニハウス」を新規開店し、石井さんは千駄ヶ谷に「シンシア」という新しいレストランを開いた。なかなか予約が取れないらしいが、急にキャンセルが出たのを押さえたという友人に誘われ、出かけていった。
 テーブルの上の「決め皿」の下には、こんなメッセージが置かれていた。

 今日は宮城の牡蠣マニア
 木村さんの牡蠣のムニエルからはじまり、
 進化した5つの味のトマト、
 カリフラワーとうに(海胆)の冷製
 バカールでも定番だった蟹味噌のソースを
 お野菜と共に食べていただくお料理。
 お魚は和歌山のキンメを2つのスタイルで。
 メインには仙台牛の赤身 イチボの塊ロースト
 または、沖縄のアグー豚の原種の血を濃く継いだ今帰仁(なきじん)アグー豚 皆様お揃いでお選びください。
 一皿目のデザートには季節のヨモギと日向夏、
 メインデセールは皆様の前でバラの花を咲かせます。

 酒は7種のテイスティング・コースを選んだ。蟹味噌のソースには、ワインでなく、長崎県波佐見町は今里酒造「六十餘洲」の日本酒が出た。反則技と紙一重だが、まっとうな選択といえる。 
 器とデモンストレーションにも斬新な試みがあった。奇を衒(てら)った嫌味も無く、シェフの独りよがりにもなっていなかったのは、石井シェフのセンスと人柄だろう。
 メインの肉料理では、福井県越前町「龍泉刃物」のステーキナイフを選ばせるのだが、4本しかないアンシンメトリー・タイプは、後で調べたら小売価格が1本2万円以上もする逸品だった。味とは直接の関係はないけれども。漆器でコーヒーを出すセンスも、並みの審美眼からは生まれてこない。

×月×日 朝日名人会。柳家喬の字「夏泥」、柳家小さん「青菜」、五街道雲助「汲みたて」、柳家三三「のめる」、柳家さん喬「浜野矩隋(はまの のりゆき)」。
 日本刀の小柄(こづか)や鍔(つば)、目貫(めぬき)などの装飾品を「腰元(こしもと)彫り」という。江戸の宝暦年間に、浜野矩隋なる名人がいた。日本刀が実用の武器から宝飾品に変化していった時代だ。この二代目の細工の腕が稚拙で、箸にも棒にもかからない。子を思う母親の一念で、一流の細工師になる物語。一種の名工噺で出世物語だが、講談を落語に翻案したこともあり、格別に面白い話ではない。
 5代目三遊亭圓楽の代表演目として知られ、なぜか演じる噺家も多いが、私はあまり面白い噺とは思わない。「鼠穴(ねずみあな)」も同じで、現代では、「カタルシス」にならない噺だからだろう。

×月×日 毎月行われている横浜にぎわい座の「横浜三三づくし」。
 7月の出し物は、梅雨に因んで「傘碁(かさご)」と圓朝作の怪談噺「乳房榎(ちぶさえのき)」。
 小田原出身の三三が広島カープの熱烈なファンとは知らなんだ。

×月×日 「淳ちゃん先生のこと」(承前その4)
 渡辺淳一が和田寿郎の心臓移植手術実施を知ったのは、出張先の大夕張炭鉱病院だった。出張といっても、札幌から車で2時間ほどの夕張まで三週間に一度ずつ定期的に通って診察をする。病院から正規に派遣された業務だから、貴重な副収入となった。大学病院の専任講師とはいえ、待遇はそんなに恵まれたものではなかった。
 渡辺は正直なところ和田が日本で初めて心臓移植を試みるだろうとは予想していたが、こんなに早く踏み切るとは思ってもいなかった。運転して夕張から札幌の大学に戻る車の中で、「快哉を叫びたくなる気分だった」と、当時の心境を説明している。しかし、4日後の吉村昭の朝日新聞の文章を読んでなんとも不快な気分になった。
 「あまりにも医者を馬鹿にしている。札幌を田舎扱いしている」
といきり立った。周囲に聞いてみても、同じような感想をもらす同僚が多かった。
 渡辺はすぐに旧知の朝日新聞北海道支社報道部次長の草野眞男に「反論を書かせてください」と頼み込んだ。眞男の正確な読み方は「さなお」だが、周囲から、「しんだん」として親しまれていた。もとは社会部出身で、札幌に異動してくる前は東京の学芸部にいた。学生時代は文学青年だったのか、原田康子や三浦綾子、織物作家の木内綾など道内の作家や文化関係者に顔を広げ、また彼の許に多くの人が集まってきた。熊本の出身で鹿児島県の大口町出身の海音寺潮五郎と特に親しかった。
 草野が渡辺に会った最初は、同人誌「くりま」に『華やかなる葬礼』(後に「死化粧」と改題)を発表した直後で、道内向けの文化欄への原稿を依頼したのだ。1964年の秋11月だった。わざわざ医局まで訪ねてきた草野に、渡辺は寄稿を快く引き受け、本棚の裏から取り出してきたウイスキーでもてなした。
 その後草野は北海道版のカラー特集ページで、人気に陰りが出てきた道南の観光地のルポルタージュの連載を頼んでいる。渡辺の文章に、畳み込むようなスピード感が加われば、特徴である詩感と色彩感がさらに高まるのではないかと、考えたのだ。もしそうなら、新聞記者よりは文芸編集者の才が勝っていたのかもしれない。渡辺が作品を発表するたびに、二人でよく構成や内容について語り合った。
 その後草野は広島支局や出版局を経て、茨城の茨城放送に出向し、水戸を終(つい)の棲家(すみか)とする。私と渡辺と3人で水戸はもちろん祇園や銀座などで、飲む機会がしばしば生まれるのだが、それはまた後で述べる。
 北海道報道部は同じ新聞社といっても、東京の編集局と違い、大部屋で人も少なくどこか文化サロン的な雰囲気があった。渡辺も暇な時は朝日新聞報道部を訪ね、草野と将棋盤を前に向かい合う間柄になった。大駒をどんどん切って場面の転換を楽しみながら早指しで攻める草野に対して、攻め筋をじっくり読んでやんわりと攻める渡辺は、ポカが少なく負けたことはなかった。
 ちょっと寄り道になるが、当時の報道部長は社会部出身の高木四郎で、この人も周囲からは「よろう」と呼ばれていた。1957年の第一次南極観測隊の報道記者として、共同通信の田英夫とともに参加している。劇作家の飯沢匡(伊沢紀)が、戦後間もなくの「アサヒグラフ」副編集長時代に、「玉石集」という評判のコラムを立案した。世界の著名人にまつわるエピソードに風刺とユーモアの衣をかぶせた短い読物だった。執筆メンバーの一人だった高木の文筆の才に目を付けた飯沢が朝日新聞入社の推薦をしたという逸話が残っている。高木は、1949年30歳で朝日新聞に入社する。
 飯沢匡が顧問格となって協力した朝日麦酒のPR誌「ほろにが通信」(1950~1955)の常連寄稿者の中に、松嶋雄一郎(元朝日新聞出版局)や高木の名前を見ることができる。入社前の「行儀見習い」として、私が「文芸朝日」に預けられていた時の編集長が松嶋で、雑誌作りのイロハを教えてくれた。札幌へ出張するといったら、編集部の先輩が、「高木報道部長にぜひ会うといい」とアドバイスをしてくれた。後に東京本社の社会部長になるが、出版にも理解があり、新聞記者らしからぬ実に温厚な紳士だった。
 北海道は、かつて朝日新聞の発行部数よりも、「週刊朝日」の方が多かった。青函連絡船に乗って、2日遅れて着く東京の全国紙よりも、雑誌の方に人気があったのだ。その後、ファクシミリによるオフセット印刷が札幌で始まり、東京と札幌の距離ははるかに短縮された。
 ちょっと寄り道をしてしまった。先を急ぐ。草野は学芸部に交渉して17日の夕刊に、「吉村昭氏の心臓移植論を読んで」と題して、渡辺の反論が掲載された。「臨床医学の宿命 不逞の挑戦こそ進歩」と見出しにある。
 ここも要旨を述べる。
◎心臓移植手術を成しうるのは卓抜した技量と勇気を持つ医師の存在と、最新の設備が条件で、札幌医大を含めて全国ではせいぜい5か所くらいしかない。東京には、医学界の舅(しゅうと)や小姑(こじゅうと)が多い抑圧された医学部しかないが、北海道の札幌医大は医学部という伝統的ななわ張りから比較的自由な雰囲気があり、先進的な冒険が許されたのだ。
 いくら歴史が浅く、因習にとらわれない札幌っ子だからといって、心臓移植術を受け、一方で心臓を提供するという生死に関する重要なことをおいそれとは承諾しない。マスコミュニケーションの発達した現代の日本では、地域の差は関係ない。隣人の顔さえ知らない東京の方が、むしろ手術はやりやすいはずだ。
◎医学の進歩のどれをとっても、既成の宗教、倫理への不逞の挑戦でなかったものはない。人体解剖、全身麻酔、産児制限、人工授精など、不逞の挑戦であることが、とりもなおさず医学の進歩だった。
◎死の判定は、難しいことではなく、蘇生可能なものを意識的に殺すことなど、医師の心理として絶対にありえない。死の認定に問題があるかのごとく考えるのは、素人の憶測に過ぎない。
 最後に、「心臓移植には高度の技術と、死という科学的で峻厳(しゅんげん)な事実がともなっている」と述べた後、「それだけに一層、私達は平板な感傷や、机上の思いつきだけで論ずるのは避けるべきだと思うのである」と、結ばれている。いささか肩に力が入った文章だが、医学の道を歩む学究の徒の一途な「正義感」が伝わってくる。
 渡辺淳一の文章が印刷部数の多い全国区のメディアに掲載された最初である。やはり、それだけ反響は大きかった。四国の医師からは、「医者が人殺しのように思われてはたまらないと感じていた矢先に、あなたの反論を読んで胸が霽(は)れました」という手紙も届いた。
 しかし「早すぎる死の認定などありえない。私はまったく心配していない」と述べた後で、唐突とも思えるように書いている次の文章が、なんとも気になるのだ。
 「問題は医師の握っているこのゆるぎない事実を、家族にいかに誠実に説得し、理解させるかという一点につきるのである。」
 ここで、「オール讀物」(文藝春秋)9月号に掲載された渡辺の短篇小説「ダブル・ハート」に触れておかねばならない。くどいようだが、発売されたのが7月20日だから、心臓移植の手術直前になる。小説にはほぼ20日後の手術を予見していたかのように、和田寿郎を彷彿とさせるアメリカ帰りの「津野英介教授」が執刀する描写がある。
 「津野は米国留学の名残りで、三年経った今も、ものを言う時は口を突き出し、ねばるようにアクセントをつける。」(『死化粧』角川文庫)
 ダブル・ハートというのは悪い心臓を摘出しないで、そのまま体内に置いておく手術法だ。新しい心臓を隣に置き、血流を迂回させる。二つの心臓を胸の中に入れなくてはならないので、肺が圧迫される欠点があった。
 物語の内容をかいつまんで述べる。手術の準備が極秘に進められるが、どうやら講師の殿村達は津野教授の人事構想から外されたようだ。手術の重要な位置に起用されず、交通事故で脳を損傷し、入院している心臓提供予定者の家族を説得する役目が、患者を診察している殿村に回ってきた。入院患者の家族は乳飲み子を抱えた妻一人で、殿村は気が進まなかったが、教授の「命令」は絶対だった。
 心臓の提供を承知することは、とりもなおさず患者の死を意味する「段取り」だった。この小説は心臓移植のシステムを説明するのが主題ではない。患者の家族から心臓を提供する承諾を取り付ける医師の葛藤にある。そんな「汚れ役」の内面と教授を中心に機能する医局内部の人間関係の構図をえぐったのが「ダブル・ハート」のテーマだ。7月22日に掲載された新聞広告にも、「心臓移植をめぐる“白い巨塔”の内幕」とある。
 掲載された「オール讀物」が病院内に設けられた「記者クラブ」の連中の「教科書」として読まれたというのも理解できる。この小説がらみの取材も多かった。しかしわざわざ自分が書いた「ダブル・ハート」の宣伝のために、「提供者の説得」を持ちだしたわけではなさそうだ。
 それでは、なぜ吉村への「反論」に「家族の説得」を記したのだろうか。反論が掲載されたのは、19日の夕刊だが、その日の朝刊には、全5段で「週刊新潮」9月24日号の広告が載っている。右端の「『奇跡的に蘇生』と報道されていた心臓提供者」という大きなコピーが目につく。前々回の第2話ですでに述べた読売新聞の「幻のスクープ」というか「誤報」にスポットを当てていた。渡辺はこの取材を受け、「週刊新潮」の記者に会っていた。
 病院内では、手術後すぐに今回の移植手術は「予定の行動」だったのではないか、という噂が広まっていた。当然、渡辺の耳にも入っていたはずで、渡辺の頭の中に、ある疑いの念が生まれたのかもしれない。
 しかし、渡辺の「反論」を読んで、誰よりも喜んだのは、和田寿郎その人だった。和田も渡辺も、まだ最新の「週刊新潮」の記事を読んではいない。(敬称略・この項続く)
(2016・7・6)

次回更新は7月20日の予定です
重金敦之(しげかね・あつゆき)

1939年東京生まれ。元朝日新聞社編集委員。「週刊朝日」編集部在籍時に池波正太郎、松本清張、結城昌治、渡辺淳一など多くの作家を担当した。大学教授を経て、文芸ジャーナリスト。食の分野にも造詣が深く、料理に携わる人たちからの信頼も厚い。日本文藝家協会、日本ペンクラブ、食生活ジャーナリストの会、各会員。『すし屋の常識・非常識』(朝日新書)のほか、『作家の食と酒と』『編集者の食と酒と』『愚者の説法 賢者のぼやき』(いずれも左右社)。最新刊に『食彩の文学事典』(講談社)、『ほろ酔い文学事典』(朝日新書)。