第173回 映画「ラスト・タンゴ」、永六輔さんの死、柳家小三治の「小言念仏」、淳ちゃん先生のこと(承前=その5)

×月×日 映画「ラスト・タンゴ」を渋谷の「ル・シネマ」で。最前列を残すくらいの結構な入り。女性の年金生活者の姿が目につく。
 アルゼンチンタンゴ・ダンスの伝説的ペア、ファン・カルロス・コペス(1931年生まれ)とマリア・ニエベス(1934年生まれ)の愛憎を描いたドキュメンタリー。二人はアメリカのブロードウェイやラスベガス、日本でも公演した。最高のコンビではあったが、私生活では多くの齟齬(そご)が生じる。青年時代と壮年時代、それぞれの役者を立ててドラマ化していく。混然としたドキュメンタリーとドラマの虚実が織りなす映像に込められた人間賛歌は迫力がある。
 タンゴといっても今の若い人たちには、あまりなじみがないかもしれないが、19世紀末にブエノスアイレスの貧困街から生まれた庶民の娯楽だった。本場のアルゼンチンでさえも盛衰が激しいようだ。若い頃にはソーシャルダンスを一通り習ってはみたが、タンゴまでは至らなかった。今になって悔やんでみても始まらない。

×月×日 永六輔さんが亡くなった。同じ三木鶏郎門下の野坂昭如さんの回顧録を読むと、いつも永六輔の後を追っていた、とある。先を越したと思っても、いつのまにか追い抜かれ、自分が追い抜くことはなかったと述懐している。享年83。まさに「大往生」だった。
 この二人に、青島幸男、前田武彦らを加えたテレビ草創期の「軽薄文化」プロデューサーたちは、いずれも昭和一けた世代。多くの人が鬼籍に入っていく。同じ紙面に載ったザ・ピーナッツの伊藤ユミさんの訃報も象徴的。73歳とは、あまりにも若い。

×月×日 有楽町マリオンで朝日名人会。柳亭こみち「がまの油」、三遊亭金朝「富士詣り」、入船亭扇遊「唐茄子屋政談」、桃月庵白酒「化物(ばけもの)使い」、柳家小三治「小言念仏」といったラインアップ。

 「唐茄子屋政談」は上方の噺で、「南京屋政談」といった。唐茄子も、南京もカボチャを指す。噺の中に「唐茄子の安倍川」という食べ方が出てくる。炊いたカボチャに黄粉をまぶしたのだろう。昔のカボチャは今のように甘味が豊かでなかったから、砂糖を入れた黄粉で甘くしたものと考えられる。
 小三治ほど「まくら」が期待されている噺家もいない。しかし今回はあまり精が入らなかったようだ。楽屋で、白酒の「化物使い」を面白く聞いたとのこと。「演(や)ってみたい噺だが、まだ試みたことはない」そうだ。
 「なんですね。落語は、演るものではなくて、聞くものですね」という言葉に実感がこもっていた。「小言念仏」は7分のネタなので、「まくら」が冴えないと、はぐらかされた気分になる。

×月×日 淳ちゃん先生のこと(承前=その5)
 渡辺淳一と和田寿郎とは医局が異なる整形外科講師と胸部外科教授の関係だから、直接語りあうほどの面識があったわけではない。渡辺は最初に受けた和田の講義の印象を、翌々年の1970年、「文藝春秋」に発表したレポート「心臓移植・和田外科の内幕」の冒頭で、次のように記している。
 <「人間の中で一番大切な心臓を手術するのが、わが胸部外科です」
 私が和田寿郎教授(当時助教授)と初めて逢った医学部三年生の時、彼は例の口をまあるく突出し、一語一語区切りながら、いかにもアメリカ帰り間もないといった英語的日本語で宣言した。>(「文藝春秋」1970年10月号『雪の北国から』中公文庫所収)
 一緒に手術も行ったことがあるから、和田も渡辺の顔くらいは知っていただろう。渡辺の原稿が朝日新聞に掲載されると、すぐに院内で渡辺を見付け、「やあ。いろいろとご活躍で、ありがとう」といって、握手を求めてきた。今やテレビで盛んに取り上げられている「時の人」から声を掛けられたので、悪い気はしなかった。しかし和田のためではなく、あくまでも吉村昭の意見に承服できなかったから書いたのだ。そんなこだわりが少しばかり胸につかえていたのも事実だった。
 二日ほど経って、ふたたび顔を合わせると、「暇なら、宮崎君に会ってみないかい」と和田は、渡辺を宮崎信夫の特別病室に案内してくれた。厳重に監視体制が取られ、幾つものドアには鍵が掛けられていた。和田がいかに渡辺の反論を喜んだかがわかる。
 ベッドの中の宮崎は色白で、長い療養生活の影響か、18歳より2,3歳は幼く見えた。唇は心臓病患者特有の薄い紫色を帯びていた。和田は、「元気になったら、車椅子で屋上へ連れて行ってやるから」と、宮崎を励まし、「その時は報道陣にも公開しますから、先生も見に来てください」と渡辺にほほえみかけた。

 大学医学部と附属する病院は、それぞれの医局による「縦割り社会」だ。もちろん他の医局と合同で行う手術もあるし、連携を必要とする治療もある。胸部外科が手掛けた手術について、他の医局が口出しをしないというのが、暗黙の了解だった。別に自慢する理由もないし、批判することもない。
 心臓移植は、医学的な見地だけでなく生命倫理や法学など広範囲な分野で賛否両論の意見が湧きあがった。「二つの弱った身体から一つの健康な身体を生み出す」と和田は説明した。
 当初は提供を受けた宮崎信夫の容態だけが、詳細に報道された。一方のもう一つの心臓を提供した山口義政については、名前すらも報道されなかった。発表しなかったのだ。しかし、すぐに名前が割り出され、石狩湾の蘭島(らんしま)海岸で溺れた帰省中の大学生だったことがわかった。読売新聞の記事にあった人物に間違いはない。作家の吉村昭は、山口家の葬儀にまで出向いている。
 病院内では、手術に関するさまざまな疑問の声が聞かれるようになってはいたが、「噂」の域を超えるものではなかった。なぜ溺れて意識不明になった患者が、小樽から転院してきたのか。家族は札幌に着くなり、心臓手術をするかも知れないといわれている。意識不明の状態から、「回復の見込みがない」と判断するまでの時間が短すぎたのではないか。一年が経ち、時には二年経ってから意識が回復した実例もある。脳死状態の母親が出産し、生まれた子供が元気に成長しているケースも報告されていた。
 加えて、当日の病院内では大掛かりな手術の準備が事前に進められていたような状況がある。胸部外科の医師たちには禁足令が敷かれ、ベテランの看護婦が招集されていた。宮崎には早くから拒絶反応をやわらげる薬が投与され、日赤北海道血液センターに宮崎と同じO型の血液2000CCが注文されていた。
 心臓の提供を受けた宮崎は、5月28日札幌医大の第二内科に入院し、7月5日に胸部外科へ転科した。僧房弁を人工弁に置換する必要があるとの所見で、当初診察した第二内科の担当医師の説明では、「それほど重篤な病状ではなかった」という話も聞こえてきた。
 渡辺は、だんだんと憂鬱になってきた。どう考えても、提供者の「死亡」の判断が早すぎたのでないかという疑念を拭い去ることができない。となると、吉村昭への反論はどうなるのか。「通常の医師なら死の判断を誤ることなど考えられない」と大見えを切ったばかりではないか。吉村が指摘した「危惧」が現実味を帯びてきたような気がする。
 東京から来た新潮社の「週刊新潮」編集部記者、松田宏の取材を受けたのは、そんな迷いの中にいた時である。渡辺が新潮同人誌文学賞を受けたことは、すでに述べた。その文芸担当者を通しての依頼だった。東京の文壇の中心に位置する大出版社と札幌在住の新人作家を繋ぐ唯一のパイプだから、決しておろそかにはできない貴重なコネクションである。後に松田は、「週刊新潮」の編集長を務め、新潮社の常務になる人物だが、「週刊女性」(主婦と生活社)編集部から「週刊新潮」の契約記者として半年前にスカウトされてきたばかりだった。渡辺は、出来るだけ丁寧にそして真剣に松田の取材に応じた。院内では誰に聞かれるかもわからないので、わざわざ自宅に招いて話をした。それだけ慎重の上にも慎重を期したつもりだった。
 当初は、「人類の未来を拓く画期的な手術」と考えていた渡辺だが、時間の経過と手術の実相が明らかになるにつれ、「独善的な部分もあったのではないか」と思わざるを得なくなってきた。
 「週刊新潮」の記事は5ページあり、前の半分は、例の読売新聞の「幻のスクープ」の紹介だった。救急車で小樽の欄島海岸から市内の野口病院へ搬送する途中に急ブレーキがかかった際、強圧人工呼吸を施していた救急隊員の手に力が入り、鼓動がふたたび鳴りだした。その後の処置を検証し、死の判定に疑義を呈している。和田寿郎と野口暁院長の関係にも触れ、「すべてができすぎている」という北大医学部教授(匿名)の談話が掲載されていた。
 記事の中の「小見出し」を見ても、<「和田さんは網を張っていた?」>とか<山口君の〝死〟は決定的か>、<その演出・宣伝は世界的……>とあり、記事の流れは、一貫して「アンチ和田」のトーンで進められている。
 記事の後段に渡辺淳一が登場している。重要な箇所なので、引用しておきたい。
 <和田氏と同じ札幌医科大学の講師渡辺淳一氏が解説した。
 「今日の和田は、幾人か死んだ人の上に築かれた和田ということですよ。まあ、医学の進歩にはそういう犠牲といっちゃ悪いが、それはつきものなんですね。だから、和田個人にはずいぶん不満を持っている人が多いんじゃないかなあ。日本の外科医学界というところは、優秀なヤツがいい手術をやったからといって偉くなるものじゃない。だから、今回の手術で、和田の日本外科医学界での地位が上がるもんでもないでしょ。第一、和田は、いまの日本の医学界の主流、東大、ドイツ医学系に反抗する面が強すぎるんです」
 そして、いきおい、和田教授は「ジャーナリズムの活用が上手になり、経営者的になり、演出家になり、結局、今度の手術の報道でも、マスコミを存分に振り回している」というのである。>(「週刊新潮」1988年8月24日号)
 驚いたのは渡辺淳一だ。和田教授(「先生」だったかもしれないし、「さん」だったかもしれない)と言ったのにもかかわらず、すべて呼び捨てになっているではないか。渡辺は、自分より目上の人を呼び捨てにするような人では決してない。川端康成や谷崎潤一郎、三島由紀夫を川端、谷崎、三島と呼ぶのとは違う。同じ病院の先輩医師であると同時に、実際に講義も受けた正真正銘の「先生」である。記事に目を通した瞬間、顔はおそらく「真っ青」で、頭の中は「真っ白」になったに違いない。
 引用した最後の4行も、記事の流れからすると、主語は省略されてはいるが、渡辺の話として読むのが、素直だろう。一部が割愛され、編集部に都合の良いところだけを摘み取られたという怒りと悔悟が渡辺の胸にこみ上げてきた。「オフレコ」にしてほしい、と条件を付ける手もあっただろうし、あるいは「匿名」で出所(ネタ元)をぼやかすこともできたはずだ。メディアの「取材」にも慣れていないから、そんな知恵も湧いてこなかったし、それだけの「世故」には長けていなかった。マスコミの影響力の大きさを嫌というほど感じた。渡辺は困惑と焦燥に駆られたはずである。
 「こうなったら、もう大学病院に居ることはできない」
 大げさではなく、真底そう思った。
 危惧したとおり、この記事の反応は即座に現れた。
(敬称略・この項続く)(2016・7・20)

 次回の更新は8月3日の予定です
重金敦之(しげかね・あつゆき)

1939年東京生まれ。元朝日新聞社編集委員。「週刊朝日」編集部在籍時に池波正太郎、松本清張、結城昌治、渡辺淳一など多くの作家を担当した。大学教授を経て、文芸ジャーナリスト。食の分野にも造詣が深く、料理に携わる人たちからの信頼も厚い。日本文藝家協会、日本ペンクラブ、食生活ジャーナリストの会、各会員。『すし屋の常識・非常識』(朝日新書)のほか、『作家の食と酒と』『編集者の食と酒と』『愚者の説法 賢者のぼやき』(いずれも左右社)。最新刊に『食彩の文学事典』(講談社)、『ほろ酔い文学事典』(朝日新書)。