第174回 芥川賞の「コンビニ人間」、70年以上も前のワイン、東京都知事に小池百合子さん、淳ちゃん先生のこと(承前・その6)

×月×日 近ごろ個人タクシーに乗ると、無愛想な運転手が多い。法人タクシーだと、「ご乗車ありがとうございます」から始まって、「かしこまりました」とか「お忘れ物の無いようお気を付けください」など、丁寧な言葉が返ってくる。もちろん、すべてマニュアルで定められているのだが、無言よりはいい。「それでは、発車させていただきます」という過剰な丁寧語と謙譲語は、少しばかり邪魔ではあるけれども。
 なぜ、こんなことを考えたかというと、今回の芥川賞受賞作、村田沙耶香(さやか)さんの『コンビニ人間』(文藝春秋)を読んだからだ。この小説は、「マニュアル人間」の物語だ。大学を出て36歳になる古倉恵子は社会生活にうまく適応できないから、就職していない。恋愛関係も構築できずに独身のまま。マニュアル語で成り立っているコンビニ内部では、アルバイトとして重宝され、生きがいに似たような安らぎを感じている。日常食べるものもコンビニ食。一応独居生活をしているから、単なるパラサイトではない。
 まさに現代社会の典型的スポットで、マニュアル語を用いてしか生きられない「いびつな人間」の内面にある陰影の質感と重量感を照射した小説だ。
 実は昨年慶應義塾大学のメディア・コミュニケーション研究所でゲスト講師を頼まれた際に、「コンビニ」という題で受講者に作文を書いてもらったことがあった。学生たちの日常には必須のスポットであるコンビニが、小説のテーマとなりうることを理解して欲しかったのである。

×月×日 東急大井町線の緑が丘駅前にあるイタリア料理の店、「コルニーチェ」(住所は世田谷区奥沢)で、御年(おんとし)92歳になる横浜医師会のT先生提供のシャトーオーブリオン(年代不詳)を楽しむ。エチケットから1945年以前と考えられる。
 モッツァレラとシャンピニオンのジュレ、釣りイサキの冷たいフェデレリーニ、サルシッチャと枝豆のリゾット、熊本産赤牛のグリル サマートリュフソース、ココナッツとバナナのムース、自家製ジェラートにカフェ。
 店主、京大助さんの料理にはいつも繊細な心配りが感じられる。イサキは前日房総沖で釣り上げた大物。仕入れ原価はゼロだね、と冷やかしたら仕立てた釣り船代が掛かっていると返された。京夫人のワインに対する愛情と理解も、相変わらずだ。

×月×日 東京都知事選は、予想通り小池百合子さんが圧勝した。期日前投票に行ったら、帰り際に立会人や区の係員が口をそろえて、「ありがとうございました」と挨拶する。選挙権を行使しただけで、別にお礼を言われる筋合いはない。ここにもマニュアル化の「喜劇」がある。
 ひと言もの申そうと思ったが、面倒くさいので止めた。些細なことで、ストレスを抱えるのは健康によくない。

×月×日 淳ちゃん先生のこと(承前・その6)
 北海道内で「週刊新潮」が発売されてから、病院内では渡辺淳一を見る周囲の目が一変した。やはり記事の中で、和田寿郎の敬称を外されたのがまずかった。記事を読んだほとんどの人は、一介の講師にすぎない渡辺が自分の師である教授を、偉そうに呼び捨てにしたと思ったはずだ。きちんと「和田先生」と呼んで話したにもかかわらず、誌面では呼び捨てになっている。それだけに余計、無念さが募る。
 渡辺は松田宏を札幌パークホテルに呼び出し、
 「俺は、もう病院には居られない。東京へ行くから、新潮社で面倒を見てくれるんかい?」
と詰め寄った。
 大学や医局では、上下関係はまさに「体育会系」である。私もさる大学で碌を食んだ経験からわかるのだが、敬称とは難しいものだ。ちなみに私は同僚なら、自分の子供より年少の講師でも、「先生」で通した。若い先生の中には、「先生でなくて、さんで呼んでください」とわざわざ言ってくれる人もいた。学生からならいざ知らず、年配の人から先生と呼ばれるのは、むず痒いのだろう。
 他学部の話だが、自分の信念から年長者の教授であっても「先生」を用いず、「さん」付けで通している若い講師の先生がいた。これに高級官僚出身の学部長がカチンときた。「あいつは、絶対に助教授にはしない」と息巻いていたが、自分の方が先に学部長を解任されてしまった。
 作家と編集者の関係も同じだ。編集者がすべての作家に対して、「先生」ですましてよいものか。私が入社して最初に連載小説を担当した作家は結城昌治で、作品は『白昼堂々』だった。初対面の挨拶で、「結城先生」と言ったら、「先生は止めてよ。結城さんでいいよ」と恥ずかしそうに釘を刺されたことがある。私より一回り上だから、結城もまだ30代だった。
 学生時代の専攻はマスコミュニケーション論だったので、学術書以外にも「就活」の一環として多くの関係書籍を読んだが、うちの一冊に進藤純孝の『ジャアナリスト作法』があった。今上天皇と美智子皇后のご婚儀が行われた翌年である。確か作家を一律に「先生」と称して良いものかという話で、妙に頭の中に残っていた。おぼろな記憶を頼りに篋底(きょうてい)の隅から探しだしてきたら、果たしてあった。
 <どんな執筆者をつかまえても「センセイ」ですますようになったら、一人前かもしれないが、編集者という一個の人格としては救われないと私は思う。(略)
 「センセイ」と呼ぼうか、「さん」と呼ぼうかと、神経を使う編集者の初心を、私は大変尊いものに思うし、いつまでも相手を人格として取っ組んでゆくことを忘れない編集者こそ、最後の勝利をつかむものと考える。>(角川書店1969年)
 著者の文芸評論家、進藤純孝は新潮社に13年在籍し、「編集者失格」と謙称しているが、川端康成から「第三の新人」まで、多くの作家と交友が深く、著作も多い。
 この原稿のタイトルの「淳ちゃん先生」だが、ごく親しい編集者の仲間うちでは「淳ちゃん」で通っていた。なかには執筆者を必ず「先生」と呼ぶのを社風にしている出版社もあった。作家の中でも、例えば池波正太郎などは、「淳ちゃん、淳ちゃん」と親しげに声をかけていた。医局の学友たちは、みんな「淳、淳」と呼び捨てにしていた。銀座の文壇バーのホステスたちは、さすがに「淳ちゃん」と呼ぶわけにはいかない。かといって「渡辺センセイ」と無機的には呼びたくないほんわかとした「人懐こさ」があったのだろう。そこで、気心の知れた一部の女性たちではあったが、敬意と親しみを込めて、「淳ちゃん先生」という呼びかたが通用していた。
 いくら親しいからといって、編集者が「淳ちゃん」と呼ぶには馴れ馴れしすぎる。「淳ちゃん先生」となると、なんとか納まりがつく。とはいっても、当人は本物の医者だから、「先生」と呼ばれるのに慣れている。「先生」と呼ばれても、結城昌治のように恥ずかしがるようなことはなかった。
 だいたい国会議員から市区町村の議員まで、官僚や行政の職員が、「センセイ」と呼ぶようになったのがおかしい。軽蔑と揶揄をあからさまにして、田中康夫が「チェンチェイ」と文章で表現したセンスは鋭い。口で言っても、あまり効果はないが、活字にすると当該人物の愚かな人間性が生き生きと見えてくることがある。
 「週刊新潮」で、和田教授を呼び捨てにされた話しから、脱線してしまった。脱線したついでに、「週刊新潮」について、いささか触れておきたい。出版社系総合週刊誌の嚆矢(こうし)として創刊されたのは、石原慎太郎が「太陽の季節」で登場した昭和31年だった。翌32年には「週刊女性」(主婦と生活社)、さらに翌33年には「女性自身」(光文社)と女性誌が創刊し、59年4月には、「週刊現代」(講談社)、「週刊文春」(文藝春秋)、10月には「週刊コウロン」(中央公論社)が続いた。
 だから「心臓移植」の年に「週刊新潮」は創刊12年目を迎えていた。当時の編集長は2代目の野平健一。「人間の興味は、金と男女の仲、栄誉に尽きる」という編集方針を貫いたのは、「陰の編集長」とか「天皇」とまでいわれた齋藤十一(じゅういち)だった。雑誌から座談会のスタイルを追放したのも斬新だった。
 新聞などの大マスコミが報道する「建て前」の裏側にある「本音」を徹底して追求した。仮面をかぶった「権威」には抵抗し、綺麗ごとに過ぎる少年や精神病患者の犯罪にも遠慮はしなかった。
 その一つのテクニックとして、「コメント主義」が挙げられる。執筆者(記者、ライター、取材者)の意見を前面に出すのではなく、当事者のコメントを中心に据えて委託し、編集部の視点や思想、主張を構築していく手法だ。草創期の執筆者の一人だった作家の井上光晴などが開発したといわれる。新潮社に限らず、当時の出版社には記事を書ける執筆社員が少なかったから、取材記者とは別に多くの作家予備軍がアンカー(最終執筆者)を務めていた。梶山季之、草柳大蔵、青地晨(あおちしん)、後藤明生らの名前が挙げられる。
 そこで思い起こされるのが、心臓移植が行われた3か月ほど前、私が府中の東京競馬場で野坂昭如から聞いた「週刊新潮観」だ。68年の1月に直木賞を「アメリカひじき」、「火垂るの墓」で受賞した野坂に日本ダービー(東京優駿)の観戦記を書いてもらった。野坂が競馬に関心を持っているかどうかは、まったく分からなかったが、「カケ事師たち」という見出しを使いたかっただけである。言うまでもなく出世作『エロ事師たち』に因んでの企画だった。
 新緑の東京競馬場の青いトラックを眺めながら、とりとめのない話を交わしたが、どういうわけか「週刊新潮」に話が及んだ。自分が取材を受け、記事になった時の状況を憤っていた。
 「ボ、ボクの言っていることは間違いなく書かれている。だけどすぐ後に、『フムフム、なるほど』って書いてあるのね。その一行で、僕の言ったことが、すべて否定されてしまうのよ。熱心に、喋れば喋るほど、相手のペースになっていく。だけど言ったことに誤りがないから、どうしようもなかった」
 この話は以後の週刊誌記者生活の多くの場面で、実に役立った。実際に野坂が体験したのは何の記事だったか、調べてみたが該当する号は見つからなかった。有名なのは、野坂のテレビでの「女は人類ではない」発言(1962年日本テレビの「春夏秋冬」)が「週刊新潮」で取り上げられたことがある。プレイボーイとして、有名になり始めたころだ。その舌の根も乾かないうちに宝塚スターの藍葉子(暘子夫人)と結婚する。ホテルオークラで行った披露宴では、花婿が「色直し」をして、立派に包装したトイレットペーパーを引き出物にした。今では花婿の「色直し」も珍しくはないが、当時はまだ「質実」の時代だった。
 翌年の「週刊新潮」では、「馬鹿を見た怒れる視聴者―プレイボーイ野坂昭如の結婚」として、からかわれのだが、「フムフム、なるほど」の文言は見当たらない。仲人を務めた丸谷才一によれば、「彼の喋ることはすべて嘘」だから、野坂の「創作」だったかもしれないし、「週刊コウロン」でコラムを連載していたから、本人が会得した原稿作法だったかもしれない。
 野坂はその後、「週刊朝日」で連載対談のホストや連載小説『水虫魂』、連載コラム「窮鼠の散歩」、「オフサイド」などを手掛けるが、最初の登場は、この「カケ事師たち」だった。ダービーの翌日の月曜日が締め切りだったが、原稿を貰うのにかなり難儀した記憶がある。
 話しがまたまた逸れた。野坂の「証言」に倣うわけではないが、「週刊新潮」の渡辺の記事の談話は和田に対して「教授(先生)」という敬称を略した以外は、ほぼ忠実に再現されていたのだろう。しかし、喋ったことをそのまま記載したとしても、文章にはならないし、意味が正確に伝わるとは限らない。品位に欠ける部分があり、取材者への思いやりが感じられない。後年、渡辺自身も「僕の実名コメントのまとめ方は、今読んでもひどい」と、松田宏との対談(『「週刊新潮」が報じたスキャンダル戦後史』所収)で、実際の記事を引用しながら憤慨しているが、詳しくは後述する。
 渡辺が激怒している一方で、当の執筆者の松田宏は帰京すると、齋藤十一から呼び出され、「君が松田君か、あの記事は良かった」とお褒めの言葉を頂いている。
 和田は「週刊新潮」の記事を読んだらしく、廊下で渡辺とすれ違っても、冷ややかな一瞥をくれただけで、ひと言も発せずに去っていった。手術に対する批判の声が病院内の麻酔科や内科などを中心に高まってはいたが、札幌の市内ではまだ「興奮状態」が続いていた。
 学内でも世間でも、渡辺を心臓移植反対派と見ているようだ。渡辺は、それらのインタビューや、寄稿の依頼をなるべく断った。なんといっても内部の現職の講師だった。渡辺に対する、「手術に問題があるのはわかったが、何もあそこまで書かなくてもいいのではないか」という直接の批判もあったし、陰で言われていることも痛切に感じられた。移植手術を受けた宮崎は、小康状態を保ち、和田は毎日マスコミ向けに病状を報告していた。 

 渡辺淳一が吉村昭への反論を朝日新聞に掲載してから4日後の21日の朝日新聞夕刊に、吉村は「玄人と素人 「死の認定」をめぐって再び」という文章を載せた。
 吉村は、自分が「不逞な挑戦を非とする」ように渡辺氏は解釈しているが、私はそれを非としただろうか、と書く。
◎宗教的、倫理的なものに挑戦する医学者たちは、心臓も人体の一部位としてしか考えぬらしいが、医学的知識と技術の恩恵を受ける私たちにとって、そうした素気ない考え方はむしろ歓迎すべきものであり、科学の一分野である医学への期待はそこにこそある。
◎(南アメリカで世界初の)心臓移植手術がおこなわれたのは、南ア医学界の進取的空気に加えて、心臓移植手術に対する医学的批判や死の認定問題に関するさまざまな論議等から比較的自由であったことが、それを可能とさせた重要な原因であったはずだ。そういう前提のもとに、私は、「札幌は日本の南アだ」と表現したわけで、この小さな島国の中での地理的な事情などを口にしたのではない。
 確かに渡辺は、「札幌南ア論」に鋭く反応した。観光客が美しいと感じる北海道の自然や風光は、ごく一部の限られた季節であって、地元で生活している者にとっては、生死に関わる厳しい環境で嫌悪すべき自然現象と感じる時もある、というのである。札幌にある赤レンガの北海道庁舎を建て直すという話が持ち上がった時、当然のように道を代表する明治時代の歴史的建造物だから、保存すべきだと反対論が起こった。
 渡辺は、感傷的な保存論には与(くみ)しなかった。古いがゆえに暗く湿気が多い牢獄のような劣悪な室内で、昼間から電燈を点けて仕事をしている職員のことを考えたことがあるのか、と考えていた。渡辺は、「北海道という風土がたまならく好きな一方で、吐きだしたくほど嫌いでもある」といい、自分の故郷に対する愛憎は人一倍強かった。だから、ひとたびけなされれば、敏感に反発した。旅行者の目と生活者の目は違うが、その土地に住む人ほど、その土地を愛している者はいない、と信じていた。
 心臓移植を受けた宮崎信夫は8月29日に車椅子で病院の屋上に出て和田と握手を交わした。その様子はテレビで放映された。しかし当然だが、和田から渡辺にはなんの知らせも無かった。
 札幌の夏は短い。9月の声を聴くと、秋の気配が漂ってきた。他人の心臓を受け入れた宮崎の身体に拒絶反応の兆候が現れてきた。
(敬称略・この項続く)(2016・8・3)

次回更新は8月24日の予定です
sayusha