第175回 すしとワインに関する考察、淳ちゃん先生のこと(承前・その7)

×月×日 近ごろ「和食には国産ワインがふさわしい」と説く人をしばしば見かける。「国産ワイン」の定義も難しいし、簡単にうなずくわけにはいかないが、和食の店でワインを飲む人が増えてきた(ワインを置く店が増えたということだ)のと、「国産ワイン」の質が向上したのは間違いない。
 すしとワインの取り合わせについてはかなり前から試みているし、拙著『すし屋の常識・非常識』(朝日新書)でも述べているが、そのコツがようやくわかってきた。多くの人は、刺身(すしネタ)を2,3種つまんでから握りに移る。その流れに捕らわれず、握りのあいだにつまみを入れてみるのも、一興だ。試みる価値はある。最近の傾向として、煮たり焼いたり蒸したりする凝った料理を出す店が増えてきた。すし屋としては、邪道というほかない。
 日本料理はさまざまな食材に多様な調理法と調味料が複雑に絡み合って構成されている。その一品、一品にワインを合わせていったら、30種くらいのワインが必要になってくるだろう。一人とか二人で、すしとワインを楽しむのはなかなかに難しい。
 そこで5人から8人くらいで人数分くらいのワインを飲む手が考えられる。亡くなった作家のなだいなださんは、レストランでワインを飲む時には最低4人をそろえた方が良い、と言っていた。至言である。世界一のソムリエ、田崎真也さんの理論によれば、料理の色とワインの色を合わせると良いそうだ。だいたいの料理は、淡泊な味から濃厚な味へと流れていく。ワインもシャンパン(スパークリング)から、白、ロゼ、赤と進むのが常道だ。すしでいうなら、白身魚や烏賊(イカ)、茹で蛸(タコ)は白。小肌や鯵(アジ)、鯖(サバ)などの青魚はロゼ、煮蛸、赤貝、鰹(カツオ)、鮪(マグロ)などは赤だ。
 私が目黒の鮨処「小倉」で試みた、ある日の献立はこんな具合だった。
 前菜が蛸、毬海胆(いがうに)。握りが、眞子鰈(マコガレイ)、烏賊(塩)、石垣貝。
 冬瓜と海老の煮物を挟んで、握りが小肌の新子、鯵、蒸し鮑(アワビ)。
 イワシクジラの刺身に鰯(イワシ)の梅煮。握りが鮪でトロと浸(づ)け、穴子を塩とつめで。締めに干瓢巻。お椀と玉子焼き。
 この流れなら、シャンパンから始まって、白、ロゼ、赤とスムーズに流れる。ロゼは中華料理や和食の場合、もっと飲まれてもいいと思う。
 こういうわがままな注文を受け付けてくれる店は、自分で探すほかない。店主がワインに興味を持ち、ワインが好きな仲間が必要なこと、言うまでもない。

×月×日 淳ちゃん先生のこと(承前・その7)
 秋のお彼岸を過ぎたあたりから、宮崎信夫の病状が悪化した。食欲不振に血清肝炎の症状があり、意識が混濁してきた。拒絶反応が起きていることは明らかだった。渡辺淳一の気分は、相変わらず鬱々としていた。医師でありながら、小説を書いているという中途半端な立場は安定感を欠き、なかなか仕事に集中できなかった。病院内の自分を見る視線もどことなく棘(とげ)があるように感じられる。「移植反対派」と見られていたが、心臓移植そのものに反対なわけではない。心臓を提供した山口義政の「死の判定」が早すぎたのではないかという疑問が頭の中から消えないだけだ。地元のラジオ局や多くのジャーナリズムから意見を求められたり、原稿の依頼を受けたが、なるべく沈黙を守り、依頼の多くは断った。本務以外に、余計な摩擦を生じさせたくなかったからである。
 69年10月29日午後1時20分に宮崎信夫は死亡した。和田寿郎は、「死因は急性呼吸不全」と記者会見で発表した。「偶然の小さな不運が重なり、死があっという間に訪れた。拒否反応とは無関係」と付け加えた。和田が「二つの死から一つの生を」と胸を張った日から、83日間の命だった。気がついてみれば、「二つの死から生まれたのは二つの死」だった。残酷な見方をすれば、「二つの生から二つの死を生み出した」と言えなくもない。
 朝日新聞は夕刊の一面で、「心臓移植の宮崎君死ぬ」と報じた。和田は記者会見の席上、涙を見せ、「今後も機会があれば心臓移植をしなければならない」と気丈にも断言している。
 83日という時間が長いのか、短いのかは人それぞれの判断によって異なるのは当然だった。
 施術した当事者たちは、日本で初めての心臓移植として、「成功」だったと胸を張るだろうし、一般の多くの人たちは、「病院おおう失望と落胆」(朝日新聞見出し)と感じたはずだ。宮崎はもちろん、心臓を提供した山口の家族も、「もう少し生きてほしかった」との思いを抱くのは、ごく当然の感情だったろう。
 渡辺のもとに、文藝春秋の「オール読物」から編集者がすっ飛んできた。一連の「移植問題」を小説にして発表しないかという依頼だった。文藝春秋と言えば、芥川賞と直木賞の主宰社だ。しかも、書いてくれれば必ず載せるという。ページを空けて待っているし、表紙にも刷り込みたい、などと新人作家にとっては夢のような言葉を並べたてた。
 当時の中間小説誌にすれば、破格の扱いである。新人作家の場合、多くは原稿を預かってもらえればよい方で、いつ掲載されるとの確約もないまま、長く放って置かれた挙げ句に返されるのが関の山だ。有名作家の原稿が「落ちた」(締め切りに間に合わなかった)時の予備原稿の扱いで、載せてもらえれば、僥倖というべきだった。
 渡辺淳一は、医師である自分がこのテーマを作品にして発表するのなら、ドキュメンタリーかあるいはノンフィクションとして書くべきだと考えていた。執筆意欲をかき立てられるテーマであることは間違いない。そのための資料も自分なりに集めていた。胸部外科には同期の友達も多い。しかも亡くなったばかりだ。医局内部のことを書くのだから、さまざまな難関と弊害が予想された。しかも日本中が注視している生々しい事件をテーマにすれば、話題性にすがるだけで、文学とはほど遠い、一発だけの事件小説かモデル小説に堕ちてしまう。東京から駆けつけてきた編集者は、「あなたにしか書けないテーマで、あなたが書かなかったら他の作家が必ず小説にしますよ」と追い打ちをかけた。
 「内容は自由に書いてかまわない。枚数が長くなれば、上下2回にするのも可能だ」といい、タイトルとして、「小説心臓移植」を提示した。「フィクションとして書けば、問題は起こらない」とも付け加えた。
 表紙にまで刷り込む、とまで言われたのには、予想される障害を忘れさせるほどの魅力があった。無名の新人作家にとっては、願ってもない機会である。札幌の同人誌の仲間たちに、自慢したくなるような誇らしげな気持ちが高揚してきた。NHKの「紅白歌合戦」に出場が決まった新人歌手の気分だったろう。
 書くことを決めた渡辺は、翌日から懸命になって自宅で原稿用紙と向かい合った。11月の5日に120枚の原稿を書き上げ、速達書留の郵便で東京へ送った。たった数日で、これだけの量の原稿を書いたのは初めてだった。心臓病に苦しむ少年が心臓移植手術を受け、車椅子で屋上から札幌の景色を眺めるまでを上篇とした。すぐにゲラ(校正紙)が送られてきた。11月22日に「オール讀物」69年1月号(新年特別号)が全国の書店と鉄道の売店に並んだ。宮崎の死後、まだひと月も経っていなかった。
 22日の各紙に掲載された広告を見ると、大きな文字で、「生体実験か人命救助か? 心臓剔出をめぐる苦悩と決断」とあり、脇に「海で溺れた青年が大学病院の高圧酸素室を経て心臓提供者となる迄」と惹句が記されている。タイトルの「小説 心臓移植」は目立つように墨ベタ白抜きで、渡辺淳一の文字は梶山季之の次に大きく、近藤啓太郎、池波正太郎、戸川昌子と同じ大きさだった。さし絵は田代光(後の素魁)。和田を彷彿とさせる手術中の医師が描かれている。もちろん一流中の一流画家だ。
 ここで中間小説誌について触れておきたい。勘の鋭い方なら、すでに気が付かれているはずだが、毎月の発売日と発行月がふた月ずれている。繰り返しになるが、「ダブル・ハート」が掲載された「オール讀物」は心臓移植手術が行われた約20日前の7月20日に発売されている。号数は9月号となっている。現在なら、翌月の8月号のはずである。戦争直後の紙不足の影響などで、雑誌の販売競争が激化し、先取り、先取りの繰り返しで早まったものだろう。昭和20年代「少年クラブ」(講談社)、「少年」(光文社)の時代にもあり、「発売月調整号」を出して解決したことがある。中間小説誌の混乱は、88年まで続き、88年暮れの12月発売を89年1月号として調整した。当時の広告には、「次号1月21日発売は2月号です」という文言がある。折しも、昭和から平成へと改元された年だ。
 各誌とも毎月の20日前後が発売日だから、10日あたりまでに原稿を印刷所に入れなくてはならない。一日でも早く原稿を入手したい編集者がサバを読んで締切日を繰り上げて設定しても、作家は先刻ご承知だから、なかなか思惑通りにはいかない。「14日までは絶対に大丈夫」、とか、「俺は16日だった」などと情報だか自慢話だかわからないような話が入り乱れていた。昨今は作家も編集者もサラリーマン化し、管理社会に置かれているから、一昔前のように滅茶苦茶な「締切りドタバタ劇場」は、見ることが少なくなった。
 中間小説誌のご三家、と言われるのが、創刊順に「オール讀物」(文藝春秋)、「小説新潮」(新潮社)、「小説現代」(講談社)の三誌で、直木賞路線と考えると話が分かりやすい。それに対して、「文學界」(文藝春秋)、「新潮」(新潮社)、「群像」(講談社)の三誌は芥川賞路線で純文学を志向する。河出書房新社の「文藝」は、季刊誌となった。後発ではあるが、集英社も「すばる」と「小説すばる」で参入している。
 68年当時は、中間小説誌の隆盛時代で、光文社が「小説宝石」、小学館が季刊で「小説エース」を創刊している。光文社と小学館は、早速渡辺淳一に小説を依頼している。
 渡辺は、65年に小説新潮同人雑誌賞を受賞した時、選考委員だった伊藤整を紹介された。選考委員は、伊藤の他に、大岡昇平、尾崎一雄、三島由紀夫、安岡章太郎だった。伊藤は松前に生まれ小樽で学んでいる。同郷ということもあり、何かと目を掛けてくれた。授賞式の後、伊藤に連れられて銀座のクラブに初めて顔を出すことができた。丹羽文雄や吉行淳之介が隣に座っているので、緊張し女性と会話するどころではなかった。
 同人誌「くりま」で書いている小説は、明らかに純文学路線である。純文学と大衆文学に色分けすることには、あまり意味がない。しかし、渡辺はどうしても「文学」と「読み物・娯楽」という二つの分野があるように思われてならなかった。
 上京し、伊藤整の家を訪れた渡辺は、「小説誌」に書いていいものかどうか、を相談した。
 「注文が来たら、どんどん書きなさい。そういう雑誌に書けば、新聞広告にあなたの名前を出してくれるでしょう。その名前のためにいくら費用がかかっているか、わかりますか? 雑誌を選んで迷っているうちに書かなければ、すぐに忘れられてしまいますよ」
 と簡潔明瞭に説明を受けた。渡辺はそれまで新聞広告の値段なんて考えてみたことも無かった。迷った末にこの時期、渡辺は「小説宝石」と「小説エース」に短篇小説を寄稿している。
 この時期、渡辺は親しい人に、「現代の小説家は、純文学だけでは立っていけない。僕は、中間小説も大いに書いていくつもりだ」と話している。なぜ、それほど「中間小説」にとらわれたのか。渡辺の気持ちを忖度(そんたく)するに、エリート医師としての矜持(きょうじ)をかなぐり捨てることができなかったような気がする。講師から助教授、教授へと大学病院のエリートコースの階段を登りつめていくには、通俗的な読み物小説はそぐわない、と考えていたのではあるまいか。この時期、渡辺にとって本業はあくまでも「医学」であって、文学は余技にすぎなかった。

 札幌には冬の訪れの足音が聞えてきた。心臓移植を受けた宮崎信夫が死亡して、ひと月も経たない11月22日、「オール讀物」に、渡辺淳一の「小説心臓移植」が発表された。取材する全国新聞の札幌駐在記者と高校の同級生だった病院看護婦を登場させ、「創作」であることに気を配った。

 渡辺淳一の小説『白夜』は、渡辺の長編自伝小説だ。「中央公論」(月刊)に、1976年8月号から1987年8月号まで実に11年間の長きにわたって断続的に連載された。中央公論社(現・中央公論新社)から単行本として、「彷徨の章」「朝霧の章」「青芝の章」「緑陰の章」「野分の章」の5巻が出版され、後に、中公文庫、新潮文庫、ポプラ文庫に収録された。全編が主人公、高村伸夫の一人称で述べられていくが、高村は渡辺と等身大の同一人物と考えてよい。和田寿郎は渡瀬教授として登場する。
 当然、「小説 心臓移植」のくだりも出てくる。執筆を逡巡する渡辺の背中を押したのは、編集者からの「次の号の柱となる作品だから、表紙に刷り込む」という言葉だった。送られてきた「オール讀物」12月号を見た時の感慨を『白夜5』から借りる。
<表紙には「今月の問題作」と銘打たれ、心臓移植のタイトルとともに、伸夫の名前が記されていた。
 その表紙を見た途端、伸夫は心臓が高鳴り、目頭が熱くなった。
 よくぞ書いた、という思いとともに、その努力がこういう形で報われたことに大きな充足感を覚えた。>
 しかし、実際の掲載誌を見てみると、表紙に渡辺の名前はない。それはそうだろう。表紙の締め切りは本文よりもかなり早いし、しかもカラー印刷だ。もし刷り込んで、原稿が間に合わなかったら、大変なことになる。大げさにいえば、「偽装表示」であり「誇大広告」となる。刷り直すとなると、費用が掛かるし発売が遅れるかもしれない。なんといっても相手は、まだ新人作家だ。原稿が入ったとしても、内容に問題があるかもしれないし、出来栄えが水準に達してない場合も考えなくてはならない。とても怖くて、表紙には刷り込めなかったに違いない。
 渡辺が、『白夜』のなかで、なぜ「表紙に刷り込まれた」という虚構のエピソードを記したのか、今となれば謎のままだ。思い違いかもしれないし、小説作法しての「演出」だったのだろうか。
 なお余談だが、『白夜』で、渡辺淳一と等身大の高村伸夫という名前だが、「伸夫」は、心臓移植手術を受けた宮崎信夫の「信夫」から採った。鎮魂の意を込め、医師としての驕りを自戒するためもあったのだろう。それ程に、心臓移植は渡辺淳一の人生の転換点となる出来事だったのだ。

 渡辺に、掲載誌を眺め、陶酔している暇はなかった。すぐに下編を書かなくてはいけない。ドラマとしてのフィクションの部分と、実際に行われた手術のドキュメンタリー部分をどう融合させるかが、最も難しい問題だった。同じ病院に勤務する医師の立場から、移植手術のドキュメンタリーは正確に表現しておきたかった。しかもドラマとしての起伏と奥行きも求められる。この作品は翌年に直木賞の候補作となるが、受賞には至らなかった。その経緯はまた後で触れる。
 11月の20日過ぎに完結したことで、渡辺の名前は東京の編集者の中で認知されたといってもいい。「医学ものなら、面白い作品が書けそうだ」ということらしい。もし、作家としての道を歩むとすれば、大きなチャンスと考えられた。
 一方学内で、渡辺はますます微妙な立場に追いやられていった。考えられる理由は二つある。
 発表した小説は一種の内部告発だが、ジャーナリズムを巻き込んだ「文学作品」というスタイルが、保守的な大学病院の風土になじまなかった。ジャーナリズムとアカデミズムは相対する概念で、本来両立するものではない。
 もう一点。渡辺が現職の医科大学講師であり、組織を構成する主要な一員であることにも問題があった。確かに、麻酔科や内科、病理の教室を中心に、「今回の移植手術はやり過ぎ」と批判する声があるのは事実だった。しかしそれを内部の人間が外部に発表するのは、また別の話だった。組織としての統制が取れなくなるという論理だ。
 小説を発表したのは間違いだったのか、つい考え込んでしまい、原稿用紙に向かう気力もなかなか生まれてこない。整形外科の主任教授の河邨(かわむら)文一郎から教授室に呼ばれた。河邨文一郎と聞いても、ほとんどの人は知らないだろうが、1972年に開催された札幌の冬季オリンピックでトワ・エ・モアが歌ったテーマソング「虹と雪のバラード」の作詞者といえば、わかってくれる人がいるかもしれない。文学にも通じた医学者で、渡辺が最も敬愛、信頼している直属の「上司」だ。渡辺夫妻の媒酌人でもあった。
(敬称略・この項続く)(2016・8・24)

次回更新は9月7日の予定です
重金敦之(しげかね・あつゆき)

1939年東京生まれ。元朝日新聞社編集委員。「週刊朝日」編集部在籍時に池波正太郎、松本清張、結城昌治、渡辺淳一など多くの作家を担当した。大学教授を経て、文芸ジャーナリスト。食の分野にも造詣が深く、料理に携わる人たちからの信頼も厚い。日本文藝家協会、日本ペンクラブ、食生活ジャーナリストの会、各会員。『すし屋の常識・非常識』(朝日新書)のほか、『作家の食と酒と』『編集者の食と酒と』『愚者の説法 賢者のぼやき』(いずれも左右社)。最新刊に『食彩の文学事典』(講談社)、『ほろ酔い文学事典』(朝日新書)。