第176回 川西政明さん逝く、アンソロジー『〆切本』、淳ちゃん先生のこと(承前・その8)

×月×日 文芸評論家の川西政明さんが亡くなった。髙橋和巳や埴谷雄髙、武田泰淳の評伝で知られる。あまり表には出ないが、河出書房新社の編集者時代に渡辺淳一さんを発掘した功績を忘れてはならない。上司には著名な編集者、坂本一亀(音楽家坂本龍一氏の父)がいた。川西さんが北海道出身の船山馨と一緒に渡辺さんに初めて会ったのは、1967年の夏の札幌だった。渡辺さん34歳、川西さんは26歳。例の「和田心臓移植」の1年前である。ふたりは意気投合して、連日夜が明けるまで薄野で痛飲した。
 以後、医学の道から文学の世界への転身を含めて、なにかと助言し激励した。川西さんと出会わなかったら、渡辺さんはまた別の作家となったと思われる。当ネッセイの拙稿「淳ちゃん先生のこと」も川西さんの労作、『リラ冷え伝説――渡辺淳一の世界』(集英社・後に『渡辺淳一の世界』集英社文庫)の助けを得ている。次回に登場する予定だ。
 川西さんは芥川賞と直木賞の授賞式に出席した時は選考委員の選考経過に受賞者の挨拶を聞き終るや否や、すぐに会場を後にした。一つの美学があったのだろう。書架から『新・日本文壇史』(岩波書店)を取出して、再読しなくてはならない。

×月×日 左右社から、新刊のアンソロジー『〆切本』の恵投を受けた。これが楽しい。遅筆の作家や締切り前に必ず書き上げている作家に編集者などを加え、夏目漱石から梶山季之、井上ひさし、西加奈子まで90人による94話の「締切り哀歌(エレジー)」を集録した。どこからでも読める。
 「この本が面白いので、途中で止められなくなり、今回の原稿が遅れました」と原稿遅延の理由ができた。

×月×日 淳ちゃん先生のこと(承前・その8)
 札幌医科大学整形外科主任教授の河邨(かわむら)文一郎は、渡辺淳一に向かって、「いやしくも人を傷つけるごとき文学であるならば、男子一生の仕事とするには値しない」といいわたした。
 渡辺は、「人を傷つけない小説なんて、ありえるのだろうか」、という疑問が頭の中を一瞬よぎったが、「すみませんでした」と頭を下げた。
 同じ外科系の医師として新しい分野に意欲的に挑戦していく胸部外科の和田寿郎に、河邨が共感を覚えているのは、渡辺にもわかっていた。しかし、河邨は最初に心臓移植の知らせを聞いて、「思い切ったことをやったものだねえ」と驚嘆してから、手術についてはひと言も発言していなかった。渡辺は、「河邨も今回の手術について納得はしていない」と思い込んでいた。
 移植手術の疑問点を述べれば、とりもなおさず和田を「告発」することになる。渡辺の「和田批判」について、河邨はあまり快く思っていないことがわかった。小説の内容についての批判ではないだけに、渡辺の心は晴れなかった。手術の記録性に重ねて医学の倫理をも追究するといいながら、世に出た作品は、「日本初の心臓移植手術」というセンセーショナルな出来事にかこつけた興味本位の事件小説と決めつけられたことになる。モデルを傷つけるような小説よりも、自分を傷つける小説を書け、といわれているのだ。

 すこし時間をさかのぼって、渡辺の学生時代に触れておきたい。渡辺が、整形外科学を専攻した理由の一つに、主任教授が河邨文一郎だったこともある。この先生の下でならば、「小説を書いていても叱られることはない」と、多少打算というか厚かましさと甘えがあったのかもしれない。内科よりは外科で、比較的論理的で明快な科として、整形外科を選んだ。「生来、手先があまり器用ではないので、微妙な手先の感覚を必要としないから」と、私に漏らしたことがあった。
 さらにさかのぼれば、北大の教養課程を終えた時に、京大の哲学科を受験している。母親は「哲学では食っていけない」と強く反対し、医学の道を勧めた。幸か不幸か、京大の受験は失敗し、札幌医科大学に進学した経緯があった。河邨は詩人としても北海道では知られた存在だった。詩誌「核の会」を主宰し、詩集も多く出している。
 河邨は、1937(昭和12)年、北海道大学の予科在籍中に東京に金子光晴を訪ねて知遇を得る。交友は戦後も続き、北海道へ招いて講演会を開いたりした。この時は渡辺もお手伝いをしている。山本太郎、田村隆一、更科源蔵等、多くの詩人たちとも交友が深く、文人医者だった。若い時に文学を志したが、科学者へと人生の航路図を変更せざるを得なかった苦い思いがあった。
 医学の面では、北海道立札幌整肢学院の初代院長を勤め、北海道の「肢体不自由児の父」といわれる。渡辺も札幌整肢学院の医療課長として勤務したことがあり、そのときの経験は初期の短篇「霙」(直木賞候補作)や長編「神々の夕映え」に反映されている。
 後のことになるが、河邨は1972年に開催された札幌冬季オリンピック大会のテーマソング「虹と雪のバラード」の作詞をしている。村井邦彦が作曲し、トワ・エ・モアが歌った。現在でも、札幌を代表する歌の一つとして「さっぽろ雪まつり」の会場でも流され、市内の大倉山ジャンプ競技場には立派な詩碑がある。
 河邨から見た渡辺は、どのような学生だったのか。
<決してガリ勉タイプの学生ではなかった。正直にいって、取り立てていうほどの勉強家ではなかったといえる。>(『河邨文一郎 わが交友録』(まんてん社)といい、次のように続ける。
<学者というものは、専門知識を十分もつべきことは当然だが、もっと大切なことは知識を自由に活用できる人物でなければならないということだ。さらに大切であることは、その知識を土台にして、独創をなしうる人物であるということである。渡辺君が独創をなしうるかいなかはやらせてみなければ分らないが、しかし彼が確かにもっている物事の中核をすばやく見ぬく天分に僕は賭けた。>(前掲書)
 優秀な成績に加えて、育ちの良さからくる「甘えっこ」の性分と適度の不良性が女性の心をくすぐるらしく、渡辺はよく女性に持てた。大学院生時代には、有能な看護婦の内田理恵(仮名=日経新聞「私の履歴書」。角川書店『告白的恋愛論』では、真由美)と親しくなった。回診の時も事前に患者の容態などを調べておいてくれるし、要領が良いので、つい安心して頼りにしてしまう。整形外科では誰一人知らない者はない関係だった。彼女が休むと、他の看護婦から、「内田さんのように上手にできませんけれども、よろしいでしょうか」などと嫌味を言われる。
 そのうち彼女は妊娠した。堕(お)ろすように懇願する渡辺に、内田は「どうしても産みたい」といって、なかなか首を縦に振らなかった。彼女がしぶしぶと納得し、個人病院の扉を開けるまでには、すさまじい無間(むげん)の地獄が繰り広げられた。
 内田は、何をしでかすかわからない怖さを抱いて病院から帰ってきた。「堕ろした子を、あなたの家に送る」とか、「貰ってきた髪の毛を見せようか」などと言って、今にも取り出そうとする。不安と怯えにさいなまれながら、次第に彼女との行動半径を伸ばしていった。自分から離れようとすると、その距離だけ彼女は追い掛けてくる。自分自身の負い目もあったろうし、日を追って強さを増していく彼女に疲れたのである。
 ある日、河邨から自宅に呼ばれ、夫人から「内田さんのことはどうなさるのですか」と尋ねられた。内田は、かつて婦長だった夫人に渡辺のことをるる訴えたらしい。「どうなさるのですか」と尋かれても、答えなんかあるはずはない。時間が経てば、解決するとは思うが、彼女は受け入れないだろう。「もう、会う気はないのですね」という夫人の言葉に、黙ってうなずくほかなかった。
 半年余りたって、彼女は別の医局に異動となった。はたして彼女が希望したのかどうか、知る由もない。いつしか彼女のほうからは、何も連絡してこなくなった。安堵と寂寥を感じながら、「再び会ってはいけない」と自分に強く言い聞かせていた。渡辺が大学院を卒業するのを待っていたかのように、彼女は札幌を離れて他の大学病院に移ったという噂が聞えてきた。
 渡辺は、「P[32]による移植骨燐代謝の実験的研究」という論文で、博士号を取得している。鉱物の分析に用いるエックス線解析法を骨に応用するというアイディアだ。ウサギにアイソトープを注入し、データを収集した。同じ骨でも、皮質と海綿質では異なるパターンが現れる。子どもと成人や老人によっても、それぞれ異なる結果が得られた。移植骨や保存骨の研究に結び付く斬新な実験だった。医学部に限らず、大学院博士課程修了時に、博士の学位を取得するのは誰にでも出来ることではない。もちろん同期の中でも、少なかった。博士課程を終えた翌年(1964年)、整形外科学教室の助手となった。無給の医師から大学病院の職員となったのだ。
 30歳になった渡辺は、「そろそろ結婚しなくては……」と思っていたが、身の周りを見渡しても、「ぜがひでも結婚したい女性」はいなかった。母の「淳一の嫁は私が決める」決意は、ひしひしと感じるし、仮に自分の意中の人が存在したとしても、彼女を母に認めさせるのは至難の技だった。例えば内田理恵も候補の一人となるのだが、母が認めるとは毫(ごう)も考えられなかった。
 他にも結婚の相手として、薄野のクラブに勤めている女性が考えられた。渡辺より二つ下で、子どもを一人連れている。別に結婚を求められているわけではないが、それだけにかえって惹かれるものがあった。母親も彼女の存在は承知していたし、自宅にも来たことがある。しかし母が嫁として迎え入れる可能性はまったく無かった。勇気を出して自分から言い出したとしても、答えは火を見るより明らかだった。
 1964年の秋、渡辺は母親が勧めた「お見合い」によって堀内敏子と結婚した。敏子と会ってみると、「この女性とならば一緒に暮らしてもあんまり疲れず、のんびりできるのではないか」と考えていた。結局、母親の「あんたのようにふらふらしている人は、こういう人が良いのよ」という言葉を素直に受け入れたことになる。
 敏子の父親堀内利圀(としくに)は、北大を出た医師で、江別にある北日本製紙附属病院の院長だった。生まれ育った家は小樽の塩谷(しおや)で盛んだった網元である。渡辺は義父となる利圀と話がよく合った。不思議な縁だが、利圀と伊藤整とは幼なじみだった。
 医者が医者の娘と結婚する例は多い。医者の世界では、最も「無難」と考えられていた。さらに、母親の強い意向によって選ばれた女性と結婚するのでは、あまりにも主体性がないではないか。もう少し大胆に独自の道を切り開いていくべきではないのか。あまりにも型通りの平凡な結婚に忸怩たるものがあったのは、想像に難くない。しかし渡辺が選んだのは、まさに「無難」で「凡庸」な道だった。仲人は迷うことなく、指導教授の河邨文一郎夫妻にお願いした。
 披露宴は札幌パークホテルで行われた。当日、河邨は受付に現れると、スタッフに、「怪しいお祝い品はないか、よく調べるように」と注意を促した。さらに渡辺によれば、新郎新婦入場の際には、会場まで先頭を歩かされたという。「廊下の曲がり角では、一旦立ち止まって、左右を確認しなさい」と、小学生が横断歩道を渡るような注意を受けた。途中で何者かが飛び出してきて、硫酸でも掛けられはしないかと、案じていたのだろう。
 河邨文一郎の証言はちょっと違う。
<彼が無事に結婚式を終えて式場からホテルの廊下へ出てきたとき、仲人をつとめた僕の家内は、ほっとして思わず涙ぐんだほどだった。その話が医局の忘年会の席で出たとき、僕が、
「本当だ、僕だってあの時はほっとしたんだ。横合いから誰か女性が飛び出して、渡辺君を刺しでもしないかと、内心心配していたよ」
とからかうと、彼はすかさず、
「そのときは、パッと教授のかげにかくれるつもりでしたよ。先生を楯にネ」
といいかえし、そこで満座の爆笑、という順序になる。>(前掲書)
 とにもかくにも、心配された結婚式も無事に終わり、また忙しい大学病院の生活に戻った。内田理恵が別の医師と結婚したという噂が流れてきたのは、翌年の春だった。
 結婚はしたものの、渡辺の女性に対する執着の炎は消えるどころか、ますます燃え盛っていったといってもいい。(敬称略・この項続く)(16・9・7)

次回更新は9月21日の予定です
重金敦之(しげかね・あつゆき)

1939年東京生まれ。元朝日新聞社編集委員。「週刊朝日」編集部在籍時に池波正太郎、松本清張、結城昌治、渡辺淳一など多くの作家を担当した。大学教授を経て、文芸ジャーナリスト。食の分野にも造詣が深く、料理に携わる人たちからの信頼も厚い。日本文藝家協会、日本ペンクラブ、食生活ジャーナリストの会、各会員。『すし屋の常識・非常識』(朝日新書)のほか、『作家の食と酒と』『編集者の食と酒と』『愚者の説法 賢者のぼやき』(いずれも左右社)。最新刊に『食彩の文学事典』(講談社)、『ほろ酔い文学事典』(朝日新書)。