第177回 「三三づくし」の会、キャビアと河豚とワイン、淳ちゃん先生のこと(承前・その9)

×月×日 横浜にぎわい座で、毎月恒例の柳家三三「三三づくし」の会。前座の「開口一番」も無く、端から三三が登場して、「かぼちゃ屋」、「蜘蛛駕籠(くもかご)」、「木乃伊(ミイラ)取り」の三席を演じる。
 「最近の高座は、携帯電話との戦い」としゃべり始めたら、「チリ、チリ、チリ……」。まさに絶妙のタイミングで場内に鳴り渡った。携帯電話は世の中から「謙抑のたしなみ」と「羞恥心」を「消去」してしまったようだ。
 最近の三三には大人の風格が出てきた。柳家小三治の純粋培養といわれ、「30年後の人間国宝」という羨望とやっかみから生まれたジョークも、まんざらではなくなってきた。あまりにも、先の長い話しではあるけれども。

×月×日 友人の神経科医師で詩人の河合眞博士からモンゴル土産に、ロシア産のキャビアをいただいたので、中野の「ふく田」でワイン仲間と楽しむ。ふぐ刺しや鯛の刺身でキャビアをくるんで食べようという天罰をも恐れぬ所業。本来は蕎麦粉の小さなパンケーキ(ブルニ)にサワークリームとともに食べるのが常道だが、常道あるところに邪(よこしま)な道が生じるのもまた理の当然。
 鯛の脂とキャビアの脂が実にしっくりと絡み合って、妙なる味わいを作り上げた。これなら魚卵といえども、ワインになじむ。土瓶蒸しにふぐ皮サラダ、茄子の田楽、松茸と牛肉のバタ焼きと続いて、締めは「ふく田」名物の松茸チャーハン。全員が「満足この上なし」という幸せな顔つきになった。
 ちなみに当日のワインは次の通り。
 デュバル・ルロワ・ミレジム2006 ブリュット・ナチュレール
 ミシェル・クトー ムルソー・ナルヴォー 2010
 ドメーヌ・タンピエ バンドール・ロゼ 2012
 ドメーヌ・エレスティン ジュブレ・シャンベルタン ヴィエイユ・ヴィーニュ 1999  
 ラ・スピネッタ ガリーナ・バルバレスコ 1998
 シャトー・ドーフィネ・ロンディロン 2001 ルービアック

×月×日 淳ちゃん先生のこと(承前・その9)
 昭和43年、渡辺淳一は札幌医大で心臓移植が行われてから4か月後に、中間小説誌「オール讀物」で2回にわたり「小説・心臓移植」を発表した。それ以来、講師である渡辺を見る周囲の雰囲気がどうもおかしくなってきた。
 自分では、悪を告発した「正義漢」のつもりだったのが、いつの間にか「裏切り者」扱いされているようだ。敬愛する指導教授の河邨文一郎からも、注意を受けた。このまま学内にとどまって、助教授から教授へと「出世街道」を目指すのか、それとも医学の道を断念して、筆一本で作家の道を選ぶのか。
 指導教授の河邨は渡辺の「小説・心臓移植」は、渡辺を有名にしたが、「和田寿郎を傷つけ、悲しませた」と考えていた。
<札幌医大内部から「取材」した詳細な情報は、読者によってそのまま事実として受け取られたかもしれない。推理小説――むしろ暴露記事的なこの小説の組み立てと、歯切れのよい描写と筋の運びがそれに拍車をかけた。これらは作家渡辺淳一の筆力を世に知らしめる反面、和田教授らを苦しめた。>(『河邨文一郎 わが交友録』まんてん社)
 渡辺が執筆前に抱いた危惧は、解消されないまま現実のものとなった。振り上げた刃は取り上げられ、自分自身に向けられていた。30歳で医局に入ってからわずか2年しか経っていない渡辺を、河邨は講師に抜擢してくれた。講師から上がスタッフと呼ばれ、実質的な教官で医局の幹部となる。大学病院のエリート階段を昇る最初の一歩だった。どうもがいてみても、河邨には頭が上がらない。文学にも理解がある指導教授から、「暴露記事的」と決めつけられたのは、ショックだった。学内でのエリート階段を踏み外したわけではないが、踊り場でもないところで一休止している状態のような気がする。
 確かに中間小説誌などから、小説の執筆依頼が増えてきた。しかし、とてもそれだけでは生活できない。立派な作品を世に発表し、直木賞か芥川賞を取ってから大学を去りたいものだと「白日夢」のように考えていた。新年早々に生まれた次女の名前に、直木賞の「直」の字を用いたのも、一途な願いを込めてのことだ。
 郷土の先輩、船山馨の紹介で知り合った河出書房新社の編集者、川西政明はなにかと励ましてくれる。川西には、荻野吟子を題材に長編小説を書くと話してある。荻野吟子は日本人で初めて国家資格を持った女性医師で、北海道とも縁があった。
 渡辺は、河邨に地方の病院勤務を願い出た。「長いものを書きたい」という理由の裏に深刻な懊悩を察知した河邨は、渡辺の「わがまま」をあっさりと認めてくれた。管理職としての温情からか、渡辺の職位は現役の講師のまま、という異例の処遇であった。厚遇といっていい。病院内で置かれている微妙な立場を理解したのだろう。この異動は、あくまでも渡辺からの希望であったが、「教授が地方に追放した懲罰人事」などと、心ない記事がローカルメディアに載ったのには、河邨自身が驚き、呆れもした。
 札幌から車で2時間の大夕張病院に火曜日から木曜日まで勤務し、月曜の総回診と金曜のカンファレンス抄読会に出席する。大学に居るのとは、くらべものにならないほど自由な時間が生まれた。しかし、取り掛かった長編小説の執筆に没頭したか、と言われると、そうでもなかった。つい、麻雀や碁に誘われれば、応じてしまう。
 異例の人事について不審に感じる同僚たちもいた。別の医局の同期生から、「お前、そんなところで何してるんよ。もう診てはくれないのか?」と電話が掛かってくる。診察はできるのだが、診察室が無いので、自分の机の脇で診るしかない。講師のポストを返上するのも、一つの案だが、そこまでは踏ん切れない。今のままだと二兎を追って、一兎も得ない事態も予想される。
 年が明けて、1月の末に渡辺は上京し、河出書房の川西政明に会い、銀座のクラブで先輩作家と一緒になった。名前と顔を知っていてもほとんどが初めて会う作家だった。川西の紹介で、「渡辺淳一です」と挨拶すると、すぐにわかってくれるのがうれしかった。「東京へ出て、作家専業になるつもりです」というと、多くの人が、「それはいい」と賛成してくれた。
 1月31日、「石の会」の例会が「早乙女貢さんの直木賞を祝う会」として、西荻窪の「こけし屋」で開かれた。前年の10月に「石の会」が正式に発足している。第4回目の例会と重なった。早乙女は、いつもとっくりのセーターを着用しているのに、その日は、ネクタイを締めていた。祝辞めいたことは誰もしゃべらず、早乙女も、うれしいはずなのに落ち着いていた。早乙女が挨拶したのに、誰も拍手しなかったのが、渡辺には衝撃だった。拍手しようとした手を慌ててテーブルの下に戻した。
<同じ「石の会」のメンバーといっても、所詮(しょせん)、お互いライバル同士で、抜きつ抜かれつしている仲である。そこから一人駆け抜けて栄光のゴールに飛び込んだからといって、「おめでとう」といって拍手をする気には到底なれない。彼が受賞したということは、とりもなおさず、ここにいる者はみな彼に負けたということである。>(『何処へ』)
 渡辺は早乙女の「受賞して当然」といわんばかりの平然とした様子に驚き、会員たちが、内心では「早乙女より自分の方が上だ」と対抗心をあからさまに燃やしているのにも爽やかな感動を覚えた。
 有馬頼義は、渡辺が学内で微妙な立場に置かれていることを察し、「早く東京に来させないといかんな」と考えていた。渡辺が、春には大学を辞める気持ちを説明すると、有馬は、「とりあえず、ぼくのアパートを使いなさい」と言ってくれた。すかさず有馬夫人は、「あれは、あなたのものではなく、わたしのものです。わたしの名義で登記されています」と、ぴしゃりといった。別に渡辺に冷たく当たったわけではない。まだ子どもが小さく仕事場を借りていた有馬は、そこで女性編集者を泊まらせることもあったので、夫人が「いざというとき何かの役に立てば」と、考えて建てたのだ。その編集者は後に高名なノンフィクション作家となる澤地久枝だが、先を急ぎたい。
 有馬夫人は、「家の食器でいいなら、貸してあげる」、とまで言ってくれた。東京の右も左もわからない渡辺にとって、住めるところが決まっただけでも、背中を強く押された支援の手だった。
 一週間ほどたって、指導教授の河邨に「大学を辞めて東京へ行きます」と告げた。河邨から年齢を聞かれたので、「35です」と答えると、「羨ましいね。私も若い時には医者ではなく、文学を目指したのだが、父親が亡くなり、詩では食えないから、医者になった。やるなら、思い切ってやりたまえ」といって、握手を求めてきた。
 渡辺に言わせると、「もし、医者をやりたくなったら、いつでも帰ってきなさい」といわれたとある。しかし、河邨によると、少しニュアンスが違ってくる。
 「失敗の恐れもありますが、いま逃したら、一生悔やむことになるかもしれません。しかしもし作家として食えなくなったら、先生、また僕の面倒をみてくれますか?」と渡辺がいうので、「心細い決心だね、逃げ道を作っておいて戦場へ出るのかい。いいとも、いつでも戻ってきたまえ。引き受けるよ」と答えたことになるのだが。
 二人は手を握りながら、お互いに涙をこらえていた。よほどに別れが辛かったのだろう。
 渡辺は家に帰ると、妻の敏子に東京行を打ち明けた。すでに、何度か、作家の道を追い求めたいことは話してある。取り立てて反対はしなかった。
 「ただ、お母さまがなんとおっしゃるか……」
 問題はそこだ。最大の難関である。とにかく渡辺家にとって、母親の存在は絶対だった。養子だった父親は、3年前の昭和41(1966)年11月に急逝した。渡辺が講師に昇格した年だ。亡くなる二週間前に、父親は出張先の地方の病院に長い時間バスに乗って息子を訪ねている。
<「家では皆がいるし、お前ともなかなかゆっくり話す機会もないので来たのだが、あの人のことを、もう少し真剣に考えられないのか」
 あの人とは私の妻のことで、父は私達夫婦のことを心配してきたのだった。
 「いい人だと思うが、どこが不満なのかね」
 父はそんなふうにもいった。
 「父さん、それは俺達の問題だし、俺達同士で考えるから、放っといて欲しいんだ」
 私がつっぱねると、父は少し淋しそうな顔をして煙草に火をつけた。>(「父のこと」『雪の北国から』中公文庫)
 父親は、そのまままたバスに乗って戻っていった。11月15日の早朝、狭心症で亡くなった。その日、渡辺は女性の家に泊まり、そのまま病院に出勤して知らされた。慌てて家に帰ると、「忌中」の札が掛けられていた。母親は、「淳はまだか…ってひと言だけ……」と告げ、「喪主になって頂戴」と言い渡した。母親の長男への期待は、本人が予想していた以上に大きく強いものだった。
 父親の死に目に会えなかったことは、渡辺の大きな悔いになって残った。この話はよく聞かされた。もし家にいれば、台所の出刃包丁で胸を切り開いて、心臓マッサージをすれば助かったかもしれない、ともいった。覚えておいたほうがいいともいわれたが、とても素人でやれるような救急処置ではなさそうだ。
数学の教師だった父親は寡黙な人だった。大の読書好きで、書棚にはさまざまな分野の本があり、少年時代の渡辺はそこから勝手に取り出して読んでいた。特に好みがあったわけではなく、思いつくままに選び出して読んでいただけだが、小説の道に進んだきっかけの一つだったのかもしれない。
 戦争直後の中学時代について書いておく。札幌一中(現札幌南高校)に入学した時は、父親が先に合格発表を見届けてくると、トイレのドアをノックして、「おい、お前、入ったぞ」と喜んでくれた。 国語を担当していた中山周三(故人・藤女子大教授)との出会いが、後の渡辺に大きな影響を与えた。歌誌「原始林」を主宰していた歌人の中山から、短歌の手ほどきを受けたのだ。

 わら窓の雪小屋の夜は忘れがたし 赤き焔に照らされてありし

 地吹雪の間隙に見えし固きもの 開拓時代の碑石なるらむ

 昭和24(1949)年の「原始林」に掲載された16歳の渡辺の短歌だ。中山は、「いずれも、甘美な感傷にはしらず、実感を着実に生かしているところがある。地吹雪などという風土的な言葉をすでに身につけていることに驚く」と評している。

 夜を俄に思ひ出せり 生くる事の訳わからなく 母を呼びたり

 自殺せる人の如くにつきつめよと すぐ恐ろしく忘れむとする

 中山の評は、「純粋に生きようとする自己の内面を、率直に追い求めている」というものだった。

 一つ床に弟抱きてい寝ながら いつかは死ぬと思ふ事ありぬ

 机の前に母のかかげし 尊徳の額に向かひて 反撥を抱けり

 上にある薪をもて持ちあぐれば 赤き焔の立ち出でにけり

 漠然と昨日の我を悔ゆる 蜜柑の皮のあどけなく散る

 西の西のナポリへ行きたいと急に思ひ 胸躍らせて友に語れり

 中山周三は、「渡辺淳一作品集」の月報で、次のように述べている。
<耽美、感傷風のものは、あまり見られず、自我に目ざめてゆく少年の内面が、リアルに、端的に表出されていておもしろい。自然嘱目の手がたい写生歌もあるが、この種の自己の心を掘り下げて詠んだものの方に、特色が見られる。ともあれ、このような人間の内面への興味が、やがて歌の上だけの表現では、飽き足らなくなり、より自在な小説の世界へ、足を踏み入らせていったのかも知れない。>
 私が注目したいのは、すでに人間の「死」を考えている点だ。「自殺せる人」とか、「いつかは死ぬ」などと、観念的とはいえ、「死」を面前に見据えている。医師は常に人間の生と死を身近に見つめる職業だ。実生活でも、10代で初恋の同級生、加清純子の自死(『阿寒に果つ』)に出合う。また、自室で鉢合わせをした二人の女性が大喧嘩の末に、片方が服毒自殺を図ったことがあった。結果は未遂に終わったが、勤務先の病院に大きな迷惑を掛け、周囲から好奇の眼を受けた。
 心中に失敗した男女を処置したこともある。蘇生した彼女は彼を放置したまま飄然、恬淡として病院から去っていった(『ある心中の失敗』)。後の『化粧』、『桜の樹の下で』から『失楽園』に至るまで、渡辺文学は「自裁」を措いては、語れない。これら実生活での刺激と文学的好奇心の萌芽は中学生時代の短歌にあった、といえるのではあるまいか。
 さらに中山の回想で面白いのは、「医師の渡辺君は予想できても、作家渡辺淳一の誕生は、夢想さえしなかった」という点だ。ここにも渡辺がよく口にしていた「人間の中にある極端な二面性」がみてとれるではないか。

 作家一本の道を選び、東京へ出ていくことを決めた渡辺は、母に「大学を辞める」と告げた。最初は、「東京の大学病院に移る」程度に考えていた、母は、「うちの家系に、そんな水商売の人はいないから、それだけは止めて」と、うろたえながら、涙を流して首を振った。「水商売はひどいよ」と言いながらも、「作家なんて、不安定な商売だから、言い得て妙だ」と半ば感心し、納得していた。
 昭和44年3月、札幌パークホテルで、渡辺淳一の壮行会が開かれた。作家の原田康子は指名を受けて、次のような餞(はなむけ)の言葉を贈った。
「小説を書いて、コンスタントに月20万円を稼ぐのは難しいのよ。お医者さんでいることも悪くないと思うな。さあ、考え直すなら今の内ですよ」
 爆笑の渦の中で、渡辺は苦笑いするだけだった。次女が生まれたばかりということもあり、家族は札幌に残したままの「単身赴任」だった。慎重ともいうべきこの段取りは、芥川賞を受賞した翌年の昭和28年に小倉(現北九州市小倉区)の朝日新聞西部本社から東京本社へ異動となった松本清張に通じるところがある。松本も妻子は小倉に残しての上京だった。朝日新聞の社員だったから、文字通りの「単身赴任」である。しかし渡辺は、まだ大きな文学賞を受賞していないし、「素浪人」の身だから、もらうべき給料は一円たりともなかった。
 昭和44年4月、渡辺はひとまず有馬頼義夫人のアパートに落ちついた。北海道より一足早い「緑の風」が素肌に心地よかった。そして札幌から一人の女性が渡辺の後を追い掛けるように上京してくる。(敬称略・この項続く)(16・9・21)

次回更新は10月5日の予定です
重金敦之(しげかね・あつゆき)

1939年東京生まれ。元朝日新聞社編集委員。「週刊朝日」編集部在籍時に池波正太郎、松本清張、結城昌治、渡辺淳一など多くの作家を担当した。大学教授を経て、文芸ジャーナリスト。食の分野にも造詣が深く、料理に携わる人たちからの信頼も厚い。日本文藝家協会、日本ペンクラブ、食生活ジャーナリストの会、各会員。『すし屋の常識・非常識』(朝日新書)のほか、『作家の食と酒と』『編集者の食と酒と』『愚者の説法 賢者のぼやき』(いずれも左右社)。最新刊に『食彩の文学事典』(講談社)、『ほろ酔い文学事典』(朝日新書)。