第178回 「膝突き」とは、松井今朝子の『料理通異聞』、淳ちゃん先生のこと(承前・その10)

×月×日 有楽町マリオンの「朝日ホール」で朝日名人会。桂宮治「強情灸(ごうじょうきゅう)」、入船亭扇辰「田能久(たのきゅう)」、古今亭志ん輔「お直し」、春風亭一朝「稽古屋」、柳亭市馬「不動坊」。
 志ん輔は古今亭志ん朝の一番弟子だが、どうも声の質が細い気がするのは、加齢によるものか。歌手と同じで、噺家も「声」の稼業だから年齢を重ね、芸風に深みが増したところで、声に翳りが生じる人が多い。
 「稽古屋」には「膝突き」という言葉が出てくるが、お稽古事を初めて習う時に師匠へ出す入門の謝礼のことだ。大きな辞書には載っている。まったくの「死語」に近いが、こういう言葉に出合うのも落語の楽しみの一つだ。

×月×日 松井今朝子さんの新刊『料理通異聞』(幻冬舎)を読む。江戸末期に隆盛をきわめた料理屋「八百善」の物語。現在も10代目の栗山善四郎氏が鎌倉で健在だ。かなり以前に10代目の母親、栗山恵津子さんの手による『食前方丈―八百善ものがたり』(講談社)や宮尾登美子さんの『菊亭八百善の人びと』(新潮文庫)などの名著があるが、また一味違う小説に仕上がった。
 本書は実質的な創業者とみられる4代目善四郎をモデルとしている。栗山家に伝わる資料をもとにして著者が考案した当時の献立が楽しい。さすがに京都祇園の割烹「川上」に生まれただけのことはある。
 著者は歌舞伎の世界にいたからか、地の文が五七調の影響を強く受けている。リズム感が生まれる一方で、俗っぽくなり格調に欠ける面も出てくる。

×月×日 淳ちゃん先生のこと(承前・その10)
 東京へ出てきた渡辺淳一は荻窪の有馬頼義のアパートにひとまず落ち着いた。正確にいうと夫人の千代子名義のアパートだ。中央線でお茶の水にある日本医師会に通い、日雇いで働ける病院の口を探した。わかりやすくいえば、「パートの医者」である。数少ない求人から墨田区石原の山田病院(東向島病院分院)に週3日通うことにした。個人病院だが入院設備もあり手術場も完備していた。院長は医術よりも政治に興味があるらしく、地方選挙の準備運動に忙しい。どちらかというと、経営は傾きかけていた。
 それでも病院のすぐそばにマンションも用意してくれた。両国の駅から清澄通りを北へ向かい、日大一髙を過ぎて蔵前橋通りへ出る手前を右に曲がったところだ。現在の国技館と江戸博物館の裏側だが、まだ両所とも存在していない。大相撲は蔵前の国技館で行われていた。旋盤機で金属製の小さな部品を作る町工場や衣料品などの卸問屋が並んでいた。 
 荻窪のアパートは居住者のほとんどが学生という独身者専用で、一間しかなくトイレも共同だった。警察官出身の管理人は融通が利かず、小うるさかったので、すぐに引っ越しをした。とはいっても原因は渡辺のほうにあった。深夜遅くに帰ってきて女性を泊めたりするものだから、管理人は千代子に、「風紀が乱れて迷惑だ。奥さんの紹介する人は二度と入れない」と苦情を言った。鍋や電気ストーブを貸し与えた千代子の厚意は通じなかった。
 東京へ出てからの「パート医師」時代の話は、「週刊新潮」に連載した『何処へ』(新潮文庫)に詳しく、また『仁術先生』(集英社文庫)には当時の心象風景が描かれている。以下の話の多くは『何処へ』に準拠している。『白夜』の後編というべき作品で、渡辺淳一の「サクセスストーリー」として貴重な自伝だ。
 墨田区に移って間もなく「職住接近」のマンションに、札幌から西川純子が転がり込んできた。というよりも、3月に渡辺が「東京へ行くけど、一緒に行かないかい?」と誘ったのである。西川純子の名前は、川西政明によれば公表しても構わないということで、『渡辺淳一の世界』(集英社文庫)にも明示されている。
 川西の名前の上下を逆にすれば、西川になるし、純子は渡辺の初恋の人で『阿寒に果つ』のヒロイン、加清(かせ)純子を思い起こす。出来過ぎではないか。渡辺が創った名前かもしれない。西川は晩年にいたるまで渡辺と交友があり、編集者の会「ヤブの会」のゴルフコンペにもしばしば参加していたので、私もよく知っている。『何処へ』と『告白的恋愛論』では「裕子」、日経新聞の「私の履歴書」ではJ子として登場する。
 西川には半ば冗談のつもりで東京行を誘ったのだが、すぐに「行く」と答えが返ってきた。札幌で「バンケットサービス」の会社を経営していた西川は、スポンサーの社長と手を切りたがっていた。渡辺とは2年ほど前に、定山渓温泉で開かれた大学卒業10周年パーティの席にコンパニオンとして呼ばれて知り合った。
 甘えん坊の渡辺にすれば、たった一人で上京して生活するのには、不安があったはずである。西川が「一緒に棲(す)めるのなら行く」と言ってくれたので、上京する勇気を貰ったとも考えられる。医学部講師という四角四面で決まりきった生活の反動からか、破滅を呼ぶ無頼な生活への憧れがあったのかもしれない。渡辺にはまじめな優等生の顔と対極にある、どこか世間に拗(す)ねた反抗性と不良性を秘めた顔が当たり前に同居していた。西川は簡単な身の回りの物を墨田区のマンションに送ると、札幌から逃げるようにして東京へ向かった。
 医師の仕事は週に3日病院に行けばいい。ややこしい患者は来ないし、手術もほとんどない。西川はまもなく銀座のクラブで働き始めた。夕方から銀座に出勤し夜遅くなって帰ると、渡辺が枕元で原稿を書いていた。執筆の時間はたっぷりとあった。収入は西川のほうが多かったので、渡辺は「ヒモ」みたいな気分に陥った。

 上京する直前の3月に、文藝春秋から「オール読物」に発表した例の「小説心臓移植」が出版された。「新書ノベルズ」の判型で、コンパクトな体裁だった。夏には直木賞の候補に挙げられたが、受賞するとはまったく思わなかった。選考会の当日、川西が一升瓶をぶら下げて、マンションにやってきた。自室で川西と酒を飲みながら連絡を待っていた。
 結果は予想通りで、佐藤愛子の『戦いすんで日が暮れて』が受賞作だった。選考委員の松本清張は「あまりに正面から書きすぎて小説としては中途半端な感がまぬがれない。新聞記者と看護婦の安手な恋愛を挿入したのもよくない。氏には医者もの以外で実力を示してもらいたい」と厳しくも暖かい選評を寄せた。
 海音寺潮五郎の「すぐれた素質と才能とを持っているひとであるが、いわばキワモノを書いたのが損になった」という評にも、どこか優しさがあった。
 石坂洋次郎は「一本立ちが出来る力を備えている」と認めてくれた。
 水上勉は、「面白くよんだが、事実とつくり話とがしっくりといっていない。もっといい物が書ける人だろう」と、欠点を的確に指摘された。これらはいずれも予期していたもので、誰よりも渡辺自身が強く自覚していた。
 渡辺は各委員の短くも辛辣な批評に込められた期待と激励の意味を有難く読み取った。落選するのは、すでに覚悟の上である。落選したとはいえ、選評を読んで自信がついたのも事実だった。ますます次作への意欲をかき立てられた。
 川西政明は、「うちから出す書き下ろしで取ればいいから、ほっとした」といって慰めた。もちろん励ましの意がこもっている。二人は飲みに出かけた。西川のことを思ったのか、「銀座へ行こう」という渡辺に、川西は「残念会は新宿の方が似合う」といった。まだこの段階では題名の「花埋み」は決まってはいない。

 西川が仕事に出かけているすきに、病院の会計事務を担当している斎田雅子をいちど部屋に連れ込んだが、たちどころに気づかれてしまった。慌てて鏡台の小物を隠すのはいいのだが、元に戻さずそのままにしておくから、すぐにわかってしまう。細かなところまで気を配らないからだ。雅子の方だって、この部屋で渡辺が女性と一緒に住んでいるくらいのことは一目でお見通しだった。ある時雅子は口紅を部屋に忘れて帰った。嫉妬か嫌がらせからか、故意に置いていったと考えられる。そのあたりの「危機管理」の意識は、まったく渡辺の頭にない。持ち前の「鈍感力」がいかんなく発揮されている。大きな嘘を付けない素直な性格が身上だった。
 札幌の病院勤務時代にも、こんなことがあった。喫茶店でデートをしていると、唐突に女性が飛び込んできて、「淳ちゃん、なにをしてんの。さあ、あたしと一緒に来るのよ!」と言うなり、渡辺の手を捕えて、外へ連れ出してしまった。彼女は以前から交際している女性で、なんと彼女に新しい女性の出現とデートする場所と時間を、ぺらぺらと包み隠すことなく、すべてしゃべっていたのだ。底抜けの「甘えん坊」であり、正直な人だった。
 渡辺のマンションに足繁く通った川西政明は、西川の存在にまったく気が付かなかった。渡辺が「文学の鬼」となって執筆に勤しんでいると思っていた。達磨大師(だるまたいし)の面壁九年ではないが、三菱ユニの2Bの鉛筆を手に一心に原稿用紙と向き合っていると信じていた。『何処へ』を読んで、「愛執の鬼」にも取りつかれていたのを知り、「青天の霹靂」と驚いた。渡辺は川西と文学談義は交わしても、女性談義は交わさなかった。川西の方が謹厳にして一途な「文学青年」だったのだ。
 「小説現代」の編集長になったばかりの大村彦次郎と新入部員の宮田昭宏の二人は、渡辺の部屋を訪れ、西川からお茶を淹(い)れてもらっている。大村は船山馨から、「渡辺の書くものは良いよ」と聞いて、有馬頼義の「石の会」にも推輓(すいばん)し、直木賞候補になった「訪れ」を評価していた。
 中間小説誌の「ご三家」の一つ、「小説新潮」は同人誌賞で、最初にくさびを打ち込んでいる。渡辺の最初の発掘者といってもいい。「オール讀物」は、すでに「ダブルハート」と「小説心臓移植」を書かせている。「小説現代」としても、後れを取るわけにはいかない。編集長自ら、熱心に「自宅」を訪ねたのだ。向島から両国一帯は、大村の生まれ育った地域で、ネズミの穴まで知悉している。入社したばかりの宮田は童顔で小柄。野坂昭如のエッセイに「M少年」として登場するが、後に編集長になる。
 西川は「新妻の気分」でお茶を淹れたのかもしれないが、大村はもちろんすべてを弁えていた。心優しい人だから、「横目でチラチラ眺めるという眼福に預かった」と慎み深く述べている。
 部屋に招き入れている女性が病院の関係者とは思っていなかった西川は、留守中に女が来るのは許せなかった。西川は「正式な妻なら夫の浮気は許せるが、現在の愛人の立場では許せない」と考えていた。理屈が通っているようでもあるし、どこか奇妙な論理でもある。
 渡辺が札幌に帰っているお盆の時期を選び、西川は部屋を出て、神宮前のアパートに引っ越した。自分が持ってきた小物と東京で買いそろえた家具はすべて持って行った。店が終わってからお客に送ってもらうのにも、向島では方角が悪い。神宮前なら六本木や新宿にも近いので、何かと便利なのだ。渡辺は銀座の勤め先に電話して、純子を呼び出すと、雅子を部屋に入れたことを謝った。ようやく新しい神宮前のアパートの鍵を渡してもらった。店が休みの日曜などには、神宮前に行って二人で食事をした。
 ある夜、神宮前のアパートを訪ねたが、鍵が開かない。渡辺は裏に回り、風呂場の窓ガラスを破って中に入った。しかしそこはなんと隣の部屋だった。深夜とはいえ、狭いアパートでガラスを割って侵入すれば、すぐに気がつく。大騒ぎとなりパトカーで代々木警察署に連行され、一晩泊められる羽目になった。
 何のことはない、西川がカギを新しくしていたのである。ガラスを破った時に手を切って、血が壁についてしまった。清掃費を払う段になって、闖入(ちんにゅう)者は知り合いということがわかった西川は、居づらくなり、また引っ越していった。唯一の連絡先は西川が勤める銀座のバーしかない。
 そんなある日、一人暮らしとなった病院のマンションに、札幌で演劇をやっている中原貴子がたまたま上京し、転がり込んできた。東京に芝居を観に来たのだ。学生時代からの古い付き合いで、貴子は渡辺との結婚を真剣に考えたこともある。ここでも「新婚生活もどき」が始まった。
 診察時間が来れば、だいたい定時に帰れるのだが、その日に限って急患の手術に時間を取られ、少し帰るのが遅くなった。貴子はいそいそと晩御飯の支度をしていた。間の悪い時は重なるもので、そこへ西川が炊飯器を取りに戻ってきた。西川が自分で買った品だった。
 「何日もここにおります」
 奥様然として貴子がいうと、
 「私は東京へ来た時から一緒に居て、今も追いかけられて大変なのよ。あなたはあの男に遊ばれているだけだから、早く帰りなさい」
 負けじと、西川も言い返す。激しい言い争いになった。だいたいが渡辺のところによってくるのは気の強い性質の女性が多い。いや、渡辺の「好み」といった方が良いのかもしれない。
 渡辺が帰ってみると、部屋で貴子がブロバリンを大量に服んでいた。すぐ院長に来てもらい、二人で胃洗浄の救急処置を施し、山田病院に入院させた。
 銀座の店にいる西川に電話したが、「そんなのきっとお芝居よ」と、どこまでも冷たい。そういわれれば、貴子には「自殺未遂」の過去があった。翌日になって、ようやく意識が戻り、幸い一命は取りとめたが、看護婦から患者まで病院中の目が渡辺を好奇の目で見つめていた。
 翌日の夜には「あんな人騒がせな女は、早く返しなさい」と西川から電話が掛かってきた。「甘い顔をしていると、なにをされるかわからないわよ。もう部屋に泊めたりはしないでしょうね。また、見に行くわよ」と、半分脅された。
 西川は九段にある高級マンションの7階に移っていた。一度送りがてら、入りこんでみたが髭剃りと歯ブラシが置いてある。内装の設えや家具などの調度品をみても、西川一人の稼ぎでは賄えない気がする。どうも男の影が感じられる。しかし今回も懇願して、鍵を渡してもらった。「約束したときだけよ」という西川の言葉が、少し気になったけれども。

 締切りが迫っているのに原稿が捗らない日曜日の午後、どうしても西川に会いたくなり、九段へ向かった。ドアを開けようとしたら、ドアチェーンを掛けられ、「今、お客さんが来ているから帰って」という。ドアの中に男物の靴があり、スーツを着た男の姿が見えた。逆上した渡辺は、タクシーに乗って、神楽坂の金物屋で金鋸(かなのこ)を買って戻ってくると、ドアチェーンを切り始めた。
 「止めろ! 警察を呼ぶぞ!」
 「そこにいるのは、俺の女だ」
と大騒ぎになり、中の男はパトカーを呼んだ。「職業は?」という警官に、「作家の渡辺淳一」と答えると、「そんな作家は聞いたことがないな」とあしらわれ、ますます激昂するが、怒る方がおかしい。警官のほうがまともだ。西川は男と結婚するつもりで、マンションの金も出してもらっていたが、この事件で結婚話は消滅し、渡辺と西川の交友はその後も長く続くことになる。
 「パート医師」時代は女性三人と愛憎劇を繰り返してばかりいたわけではない。また川西と共に進めている書き下ろしの長編「荻野吟子」一冊に専念していたわけでもない。「小説現代」に、「ムラ気馬」「般若の面」「流氷の原」など計六編を発表している。いずれも、直木賞受賞以前に書かれた作品で、大村彦次郎によれば、「いま読み返してみて、どれも合格点の、もちろんプロの出来ばえである」ということになる。
 他にも「小説サンデー毎日」に不定期だが、「仁術先生」を執筆している。この作品は、「これが最後の新作!」と銘打って、平成26年9月に集英社文庫として発売された。亡くなってから五か月後のことである。この文庫は集英社文芸局の編集者、横山征宏が手がけた。長いあいだ渡辺と親しく付き合っていた横山は、実際に渡辺の書籍を手掛けたことが無いので、亡くなる前年の秋、元中央公論の水口義郎と一緒に渋谷の仕事場で臥せっている渡辺を訪ね、「どうしても先生の本を一冊作らせてください」と頼み込んだものだ。
 堅苦しい大学病院から逃れて、下町のぱっとしない個人病院に勤務する外科の円城寺優(えんじょうじ ゆう)先生が渡辺の分身だ。冒頭に、「自己紹介」が記されている。
<先生は三十八歳で外科医、医学博士の称号も持っているが、博士らしい権威にはほど遠く、……(略)
 大学病院に勤め、講師にまでなって医局の中心的なスタッフであったのが、つい昨年なにを思ったか、突然大学病院を辞め、フリーになってしまった。
 医者の場合、フリーになるというのは官公立の病院を辞めて開業医になるということである。>(「梅寿司の夫婦」『仁術先生』)
 「大学病院の講師というエリートの地位」とか「れっきとした大学病院の講師」、「下町のぱっとしない個人病院の分院」などの表現が目につく。さらに大学病院を辞めた理由について、「本人は固く口を閉ざしてひと言も言わない」とある。当時の心境はまだまだ「医局」に未練を残し、「個人病院のパート勤務」という境遇に対して、強い屈託と忸怩たるものがあったことが推察される。
 川西政明も「渡辺淳一の短編は、今、読み返してみると、この時期のものが一番よい。残酷美が稜立(そばた)っている」と、『渡辺淳一の世界』で述べている。川西の熱心なアドバイスを受けて、書き進めている描き下ろし長編「荻野吟子」は『花埋み』という書名も決まり、ようやく脱稿した。

 東京に出て来てから1年が経過した昭和45年4月、目黒区の八雲にマンションを求め、札幌から妻と二人の娘を呼び寄せた。
 7月18日、念願だった直木賞を受賞する。受賞作は「別冊文藝春秋」3月号に発表した135枚の短篇「光と影」だった。直木賞を目指して長いあいだ川西政明と一緒に苦労した描き下ろしの『花埋み』の出版は8月の予定だった。
(敬称略・第一章終わり)


◇第二章は、11月30日から開始します。(16・10・5)
次回更新は10月19日の予定です
重金敦之(しげかね・あつゆき)

1939年東京生まれ。元朝日新聞社編集委員。「週刊朝日」編集部在籍時に池波正太郎、松本清張、結城昌治、渡辺淳一など多くの作家を担当した。大学教授を経て、文芸ジャーナリスト。食の分野にも造詣が深く、料理に携わる人たちからの信頼も厚い。日本文藝家協会、日本ペンクラブ、食生活ジャーナリストの会、各会員。『すし屋の常識・非常識』(朝日新書)のほか、『作家の食と酒と』『編集者の食と酒と』『愚者の説法 賢者のぼやき』(いずれも左右社)。最新刊に『食彩の文学事典』(講談社)、『ほろ酔い文学事典』(朝日新書)。