第180回 富山治夫の死、映画「築地ワンダーランド」、「安岡章太郎展―<私>から<歴史>へ」、すし屋「八左ェ門」、山田洋次作の落語「真二つ」

×月×日 写真家の富山治夫さんが亡くなった。富山さんは昭和10年北区に生まれたが、父親は半年前に亡くなった。王子中学を卒業するとすぐ織物関係の町工場で働き始める。同学年の仲間から5年遅れて都立小石川高校の定時制に入学した。同じ時期、昼間の全日制の教室には、後に朝日新聞出版局で活躍する池辺史生さんと福原清憲さんが在籍していたが、もちろん顔を合わせることはなかった。朝から新聞配達、昼間は豆腐や納豆を売って歩いた。夜は昼間の疲れが出る。同じ歳の教師が罵声とともにしつこく指名するのに耐えかね、殴り倒して退学処分となる。
 兄が経営する時計店を手伝いながら、写真の現像や引伸ばしの技術を独学で習得した。創刊間もない「女性自身」の契約カメラマンの職に就いたが、すぐに注目された。朝日新聞の出版写真部から、「大学出と同じ給料を払うから」と入社を誘われるが、固辞して「特約カメラマン」の立場で、フリーランスの矜持を守り通した。
 私が入社した先の東京オリンピックのころ、「朝日ジャーナル」に連載した「現代語感」は、白黒写真の精華ともいうべきシリーズで、高度経済成長路線を走り始めた時代の日本の現実を鋭く切り取り、映像化した。錦糸町の都電停留所(「安全地帯」ともいわれ、20センチ程度の髙さがあった)からこぼれんばかりに電車を待つ人々を撮った「過密」。レンズは確か300ミリの望遠で引き、遠近感を極端に無くした。たそがれどきの皇居の和田倉橋の上で、適度の間隔を置いて抱き合うカップルたちを撮った「連帯」など、今でも記憶に残る。
 「許容」は、中央線の通勤電車が最も混雑する新宿着8時34分の車内を撮るために、始発駅の三鷹から乗りこんだ。一脚にモータードライブのカメラを取り付け、乗客の頭の上から魚眼(超広角)レンズで狙った。画面の邪魔になる社内吊り広告は、吉祥寺駅に着く前にすべて取り外した。だんだんと混雑がひどくなり、とうとう中野駅に着くと、「ごめんなさい」と大声を出して網棚に上がり、横になった。取り外した広告は飯田橋駅を過ぎてから元に戻した。
 私が最初に組んだ仕事は、浅丘ルリ子の撮影だった。第一線の写真家10人に美女10人を撮ってもらう新年企画だった。秋山庄太郎や細江英公、大倉舜二などの「婦人科」カメラマンが多い中で、報道派からただ一人、富山さんに加わってもらったのだ。
 作曲家の團伊玖磨さんと組んだ『九つの空』(朝日新聞社)や作家の安岡章太郎さんとの『ヨーロッパやきもの旅行』(平凡社)、朝日新聞の森本哲郎さんとの『日本の挽歌―失われゆく暮らしのかたち』(角川書店)、工藤宜さんとの『佐渡島』(朝日新聞社)など、世界中を飛び歩いた報道写真家だった。その行動半径は実に広かった。出版文化が輝いていた時代は、日本が激しく変わりつつある時期と重なる。現代の「一億総カメラマン時代」の到来に、大きな役割を果たした報道カメラマンだった。小久保善吉、吉岡専造、船山克、秋元啓一の各氏らとともに、朝日新聞出版写真部の名声を高めた写真家がまた一人いなくなった。昭和の時代が、さらに遠のいた感じがする。合掌。

×月×日 築地市場の豊洲移転問題はますます混迷の度を増している。そんなさ中に、500日を掛けて、築地市場の裏表を記録したドキュメンタリー映画「築地ワンダーランド」が公開された。
 仲卸とすし屋に偏った嫌いはあるが、80年にわたり、日本の食文化の一端を担ってきた歴史を後世に残す役割は果たしたといえるだろう。一年に一日しか開かれない、干し数の子の競りの光景は、貴重だ。昔は数の子といえば乾燥した干し数の子で、塩蔵品は下品とされた。
 一口に「流通」といっても、産地からの遠距離トラック輸送に、海外からの空路、検疫もある。さらに言えば、市場内での運搬も「流通」の一部である。競り場から仲卸の店まで、さらに店から売れた商品を茶屋(宅配の仕切り場)まで運ばなくてはならない。このあたりのシステムについても、もう少し掘り下げてもらいたかった。
 レストラン・ジャーナリストと称する女性がコメントしていたが、肝心なことにはまったく触れておらず、起用した意図がわからない。

×月×日 横浜の神奈川近代文学館で開かれている「安岡章太郎展―<私>から<歴史>へ」を観に行く。謦咳に接し、実際に原稿をもらったことのある作家の一生が、手際よく整理されて展示されているのを見ると、懐かしさもあるが、自らの馬齢を恥じることの方が大きい。
 図録に村上春樹さんが寄稿している。二人が顔を合わせたのは、30数年前のこと。
 村上さんが、「恥ずかしいです。まだサクブンみたいなものですから」と、挨拶したのに、安岡さんは、「君はそう言うけど、サクブンだってむずかしいんだよ」と答えたそうだ。「挨拶」は「謙遜」、「答えた」は「激励」と置き換えて読むのが、素直だろう。あえてそう書かないところが、村上節だが、「それはべつに謙遜じゃなくて、本当に心から思っていることだった」と、ちゃんと読者の気持ちを見通して平仄を合わせている。
 安岡さんの著作の中に『快楽その日その日』(新潮社)があるように、エピキュリアンというか趣味の範囲は広かった。私などは、本線の「純文学」よりも、周辺の趣味の周辺での付き合いの方が多かった。
 意外に思われるかもしれないが、「週刊朝日」でプロ野球観戦記の連載をお願いしたことがある。毎週ではなく、寺内大吉、花登筐(はなと・こばこ)と交互の執筆だった。水道橋の後楽園と南千住の東京スタジアム(通称は東京球場)を一夜でハシゴしたこともある。当時はロッテオリオンズ(元は永田雅一の「毎日大映」で現在の「千葉ロッテマリーンズ」の前身)の本拠地だった。野球を観ながら、野球とはまったく関係のない話に興じたのを覚えている。
 フランスのランスでシャンパンメーカーのポメリー社を訪ねたルポが前掲書に収録されているが、昨今のシャンパンブームを予見しているかのようだ。後に私もポメリー社を訪ねたが、「ヤスケという日本で有名な作家を知っているか」と訊かれ、「そんな作家は聞いたこともない」と答えた。
 「そうか……。安岡章太郎さんのことだった……」と、気づいたのは、日本に帰ってからだった。

×月×日 久しぶりに銀座のすし屋「八左ェ門」へ。磯山満さんは何事にも凝るタイプで、コーヒーにも凝っていると聞いたから、上野の「バッハ」で「バッハブレンド」の豆をお土産に持参する。
 平目、剣先イカ、鮪、味、小肌、閖上(ゆりあげ)の赤貝などを堪能する。良い芝エビが入った時しか作らない玉子焼きも良かった。

×月×日 有楽町マリオン「朝日ホール」の「朝日名人会」。「粗忽長屋」柳亭小痴楽、「夢の酒」桂やまと、「真二(まぷた)つ」柳家花緑、「お化け長屋」桂歌丸、「井戸の茶碗」柳家権太楼。
 花緑の「真二つ」は、山田洋次が5代目の柳家小さん(花緑の祖父)のために作った。プロデューサーの京須偕充氏によれば、1970年10月のTBS落語研究会が初演とのこと。当時多くの作家や劇作家が新作落語を手掛けたが、噺しつがれている作品は少ない。直木賞作家の景山民夫も落語の原作を書いている。今では、落語家が自分で原作まで手掛ける人が多い。
 桂歌丸は元気な声が出ているものの、痩せているせいか痛々しさが目につき始めた。
 「井戸の茶碗」は、屑屋さんの籠の中の仏像を二階から見つけるところが嘘っぽい噺だが、権太楼が喋ると嘘が嘘でなくなり、爆笑落語に昇華する。たいした才能だ。(16・11・2)


次回更新は11月16日の予定です。
「淳ちゃん先生のこと」第二章は、11月30日から開始します。
重金敦之(しげかね・あつゆき)

1939年東京生まれ。元朝日新聞社編集委員。「週刊朝日」編集部在籍時に池波正太郎、松本清張、結城昌治、渡辺淳一など多くの作家を担当した。大学教授を経て、文芸ジャーナリスト。食の分野にも造詣が深く、料理に携わる人たちからの信頼も厚い。日本文藝家協会、日本ペンクラブ、食生活ジャーナリストの会、各会員。『すし屋の常識・非常識』(朝日新書)のほか、『作家の食と酒と』『編集者の食と酒と』『愚者の説法 賢者のぼやき』(いずれも左右社)。最新刊に『食彩の文学事典』(講談社)、『ほろ酔い文学事典』(朝日新書)。