第182回 佐藤優と石川達三の『金環蝕』、映画「カフェ・ソサエティ」、淳ちゃん先生のこと(第二章)

昨年末から、体調がすぐれず半年近く休んでしまった。多くの人からご心配をいただき、お礼を申し上げる。まだ本復とまではいかないが、ぼちぼち、そろそろと「馴らし運転」を始めていきたい。昨年の11月から再開する予定だった「淳ちゃん先生のこと」の第2章も復活いたします。
×月×日 朝日新聞出版のPR誌「一冊の本」連載の佐藤優「混沌とした時代の始まり」に注目している。石川達三の小説『金環蝕』が取り上げられていた。私が入社した時代、「サンデー毎日」に連載された作品だったので、よく覚えている。実際にあった、九頭竜川ダムの建設を巡って繰り広げられた政界の汚職事件がモデルとされる。総理大臣が池田勇人の時代だ。
 総裁選の「軍資金」として党の金を流用した寺田首相と官房長官は、ダム工事を意の通じる竹田建設会社に落札させ、見返りの賄賂で「穴埋め」を計る。しかし電力建設会社(電源開発)の財部(たからべ)総裁は簡単にはうなずかない。官房長官は若手の秘書官に小さな封筒に入れた一枚の名刺を財部総裁の許に届けさせる。
 「竹田建設のこと、私からも宜しくお願い申し上げます」とペンで書かれ、「寺田峯子」と印刷してあった。総理夫人の名刺だった。財部にとっては「お願い」とあっても、「命令」と受け止めるほかない。
<それだけ、総理夫人という立場は強力だった。この女に官職もなにも有るわけではないが、寺田総理と結婚している女であるが故に、世間は彼女の発言に譲歩する。その譲歩を計算に入れて、こういう名刺をよこしたに違いないのだ。>(新潮文庫)
 「譲歩」とあるのは、いまを流行りの言葉でいえば「忖度(そんたく)」にほかならない。安倍首相の昭恵夫人も、この小説を読んでいたら、もう少し自分の行動に慎みが生まれただろう。さすが自身が元官僚で、政治家と官僚の関係についての著作も多い佐藤優だけに鋭いところを衝いている。

×月×日 久しぶりに映画。日比谷のスカラ座で「カフェ・ソサエティ」を観る。ウデイ・アレンの監督・脚本で、1930年代のハリウッドとニューヨークを舞台に繰り広げられる小粋なラブストーリーに仕上がっている。当時のファッションとジャズが目と耳を楽しませてくれた。ルイ・アームストングやベニー・グッドマンが今にも現れてくるような気がする。空席多し。

×月×日 新宿伊勢丹で、生活道具の展覧会「森の記憶―日本の森の〝もの〟がたり」を観る。畏友、原田百合子が出品している。少しずつではあるが、成長の跡がうかがえるのはうれしい。
 相変わらず「どんぐり」の小物が人気とのこと。すっかりトレードマークとして定着したようだ。フェイスブックでおなじみのご母堂に会う。

×月×日 淳ちゃん先生のこと(第二章・その1)
 渡辺淳一は娘の名前に「直」の字を入れるほど欲しかった直木賞(第63回)を『光と影』(「別冊文藝春秋」111号)で受賞した。選考会は昭和45年7月18日、築地の「新喜楽」で行われた。委員は、石坂洋次郎、大佛次郎、海音寺潮五郎、川口松太郎、源氏鶏太、今日出海、司馬遼太郎、柴田錬三郎、松本清張、水上勉、村上元三の11名。司馬遼太郎は委員に就任して初めての選考会だったが、「回答」を書面で送っている。
 同時に結城昌治の『戦旗はためく下に』が受賞した。私が、編集者として初めて担当した小説が結城昌治の『白昼堂々』だった。昭和41年の上半期(第55回)の直木候補に挙げられたが、惜しくも賞を逸していた。その4年前には、『ゴメスの名はゴメス』で最初の候補になっていた。ということは、すでに結城はひとかどの有名作家で、新人の域を超えていた。「私も、もう歳なので、今さらさらし者になるのは嫌だから、候補に挙げるのなら、受賞を確約してほしい」と申し入れたという噂が流れた。となると、すでに枠は一つ消えていたことになる。この噂を渡辺淳一はかなり信じていて、本人からも聞いたが、真偽のほどは分からない。もちろん主催者側は「全面否定」する話だ。
 渡辺の受賞作は、西南戦争で負傷し、同じ右腕の切断手術を受けた二人の軍人の運命が、カルテの順番によって大きく変わるという中編の小説だった。右腕切除というのは、整形外科医である渡辺の専門分野だから手術の描写にもリアリティーがあり、臨場感と迫力を生み出すのは当然だった。さらに直木賞は、歴史的な題材を扱った作品が有利だと考えた渡辺の「マーケッティングリサーチ」が功を奏したともいえる。
 長編が多いといわれる直木賞で、中編作品が選ばれるのは異色だった。渡辺のこれまでの実績が考慮されたのは明らかだった。出版社の力学というか、「地政学」が作用したのであろう。
 札幌医大時代から、想を練っていた日本初の女性医師、荻野ぎんの物語『花埋み』は、まだ出版されていなかった。河出書房の川西政明が献身的な編集作業で陰に陽に励ましてくれたし、渡辺本人も、「これで直木賞を取る」と思い込んでいた自信作だった。しかしそれこそ「トンビに油揚げをさらわれる」ように、文藝春秋に持って行かれてしまった。川西の無念は容易に想像できるが、念願の直木賞を受賞したのだから、傍からとやかく口をはさむことはできない。タイミングが悪かったと、言うほかない。
 渡辺は受賞を確信していたかのように、その年の4月にはすでに目黒の八雲に移転し、札幌から妻子を呼び寄せていた。母のミドリは、「淳を一人で置いといたら、何をしでかすかわからないから、早く東京へ行きなさい」と妻の敏子に勧めた。実はすでに「しでかしていた」のは、先述したとおりだ。母は息子の「女性遍歴」について、しっかり承知していた。「あれは病気ではありません。病気なら治るけど、治らないのだから」といった話しが残っている。
 いずれにしても、私は引っ越し直後にマンションを訪ね、原稿を依頼し、「週刊朝日カラー別冊」の9号を飾った。「現代恐怖」シリーズの第4回で、題名は「生き残った男」、枚数は20枚足らずだった。
 内容は肝臓がんにかかり、余命半年と宣告された文芸誌の編集長が、「今は死にたくない」と医師に相談する。彼が育てた若い作家の成長を見届けたかったからだ。医師は摂氏2度のカプセルのなかで50年間眠り続けることを勧めた。その頃には、きっと人工肝臓ができているはず、と説明した。「冷凍冬眠法」といい、血液や細胞は摂氏2度では凍結する寸前で、脳は全く働かないから目覚める心配はない。
 50年後に生を取り戻した編集長が目にした光景は、いかようなものだったのか? 星新一ばりのSF風ショートショートともいえるが、医師だけにどこか迫真力があった。
 まるまる1ページを飾る4色のイラストレーションは、岡本信治郎にお願いした。ユーモアに富んだポップ調の画風が新鮮だった。確か凸版印刷のデザイナーだったはずで、あまり商業誌には登場していなかった。今では日本のポップアートの先駆者として、世界的に活躍している。ちなみにこの「現代恐怖」シリーズの登場作家とイラストレーターを記しておく。
 ▽藤本義一「関西イソップ・先祖代々の墓」(田島征三)6号
 ▽眉村卓「隣りの子」(永田力)7号
 ▽森村誠一「団地戦争」(山藤章二)8号
 ところで、このSF風の作品から渡辺の「守備範囲」の広さがうかがえる。「レパートリー」といってもいいし、「取扱い商品の品揃え」ともいえる。医学物は当然だが、社会的な医療問題への提言から生と死の倫理的問題、純愛小説となかなか一括りにはできない幅があった。さらに、歴史的伝記小説、恋愛小説と重層的かつ広範なふくらみが感じられる。
 「週刊朝日カラー別冊」は、この号で幕を閉じた。当時では、まだ珍しかったビジュアル志向は、あまりにも時代を先取りしすぎていたようだ。私の個人的な「収益」を考えれば、多くの「財産」を得た。池波正太郎とは、肥前名護屋や奈良の東大寺を旅し、津村節子とは佐渡島、早乙女貢とは平戸へ出かけた。二度に及ぶ海外取材も貴重な体験だった。
 そう、井上ひさしに「うちの可愛い一個連隊」という小説も依頼した。すでに小説現代で、「モッキンポット師」を掲載していたが、活字メディアでは二番目くらいだったと思う。編集部の中でも、井上ひさしの名前を知る人は少なく、編集会議で起用したいといっても、簡単にはいかなかった。会議が終わってから、入社したばかりの川本三郎が寄ってきて、「井上ひさしはいいですよね」とぼそぼそと慰めてくれた。しかし原稿の入手には苦労した。その後も、井上には大いに悩まされることになるとは、思いもしなかった。
 「カラー別冊」でお世話になったこれらの作家には、後に「週刊朝日」で連載小説をお願いすることになる。渡辺は10月に墨田区の山田病院を退職し、筆一本の生活となった。(敬称略=この項続く)(17・5・24)
次回の更新は6月14日の予定です。