第183回 第二回「渡辺淳一文学賞」、朝日名人会、三三・一之輔・喬太郎の「三人会」、川本三郎の新刊『「男はつらいよ」を旅する』、石川九楊の「手紙考」、淳ちゃん先生のこと

×月×日 第2回「渡辺淳一文学賞」の贈賞式と祝賀パーティーがパレスホテルで開かれた。受賞作は平野啓一郎氏の『マチネの終わりに』(毎日新聞出版)。
 出版社OBの徳島高義、村松恒雄(講談社)、水口義朗(中央公論)、川口俊夫(集英社)、鈴木文彦(文藝春秋)、渡辺起知夫(祥伝社)の各氏と久闊を叙す。
 受賞作は2015年から翌年にかけて毎日新聞朝刊に連載された新聞小説だ。平野氏と新聞小説とは、なかなか結びつかない。新聞社にとっては、大変な「冒険」だったはずだ。選考委員の宮本輝氏は、「不特定多数の読者を一年近くも引っ張っていくのには、『作り』という仕掛けが必要」という。力ずくで成し遂げたわけだから、今後の仕事には大変なプラスとなる受賞だった。ペダンティックでスノビズムに溢れた箇所も多く、新聞小説としては必ずしも成功作とは言えないと思われる。
 同じく選考委員の髙樹のぶ子さんが、「エンディングの後から、地獄の茨を歩む本当の恋愛が始まる」と説くが、まさに渡辺淳一もそこからの部分を読みたがるはずだ。文中に頻出する「未来は過去を塗り替える」という言葉は、何をもたらすのか。

×月×日 有楽町マリオンの朝日名人会。出演予定だった桂歌丸は、退院したばかりで休演。橘家圓太郎が「厩(うまや)火事」と「五人廻し」の二席を務めて急場をしのいだ。その任を務めた人は、「二度上がり」といって「将来出世する」と仲間内ではいわれているそうだ。一種の「慰め」と「洒落」だろう。

×月×日 大井町のきゅりあん大ホールで、柳家三三「夢の酒」、春風亭一之輔「化け物使い」、柳家喬太郎「錦の袈裟」の三人会。顔ぶれが良いせいか、大ホールも満席。

×月×日 川本三郎氏から近著の『「男はつらいよ』を旅する』(新潮社)を頂戴した。寅さんを書くのは難しい作業だが、著者の歩んできた人生の重みが文章に反映しているので、アウトローが品格を得て、文明論になった。まさに読むロードムービーだ。まだまだこれだけの「若い体力」がある著者を羨ましく思う。

×月×日 書家で評論家の石川九楊氏が日経新聞に「近頃の手紙の変質」という一文(5月28日)を寄せていた。手紙の書き方を通して、「書くこと」の大切さを分かりやすく説いている。
<縦書きの長型の封筒では左上、角型の横書きの封筒では右上に貼られることになっていた切手の位置も、その原則を失ってあちこち適当に貼られるようになってきた。>
 この傾向は以前から気になっていた。若い人ばかりでなく、私より年配の一流グラフィックデザイナーまでが、封筒の中央に、斜めに貼ったりしている。デザイナーとしての美意識かも知れないが、手紙にはそれなりの守るべきしきたりやルールがある。美意識はその枠の中で発揮してもらいたい。勝手に「手紙文化」を壊してもらっては迷惑だ。

×月×日 淳ちゃん先生のこと(第二話承前)
 1970年、待望の直木賞を受賞した渡辺淳一は、賞をきっかけに大きく飛翔した。中間小説誌を中心に多くの作品を発表し、瞬く間に流行作家となった。
 医学部内のエリートコースからはずれ、町医者に身を窶(やつ)したと『仁術先生』(集英社文庫)に書いた屈託と韜晦は、いつのまにかどこかに消え去っていた。書きたいテーマは無尽蔵に湧き上がり、さまざまな依頼に応じているように見えた。しかし、しっかりと自分を見据えるしたたかな計算は忘れてはいなかった。
 北海道新聞の日曜版に連載した「リラ冷えの街」(1970年)から「リラ冷え」という言葉が流行し、後に季語として定着する。これも、渡辺の文学的スタートが短歌だったことと無関係ではない。
 直木賞を受賞した翌年の1971年3月には、ロンドン、アムステルダム、パリなどヨーロッパを初めて旅行した。この年、サンデー毎日で『無影燈』の連載が始まっていた。そろそろ週刊朝日に連載小説をお願いしなくてはならない。
 1972年には、目黒の八雲から中野区鷺宮に転居し、高田馬場駅近くに仕事場を構えた。私は「週刊朝日」に連載小説を執筆するよう、仕事場を訪ねた。「快諾」というわけではなく、こちらの話を聞いて、「フム、フム……」とうなずくだけだったが、感触は決して悪くはなかった。
 渡辺は、即断即決とは無縁の人だった。「慎重居士」という言葉があるが、どちらかというと、それに近い。悪くいえば、優柔不断だ。あいまいで煮え切らない一面がある。相手の立場を考えながら、傷つけないように「落としどころ」を探しているのかもしれなかった。その一方で医学を専門とする科学者だから、論理的に筋道を立てて説得すると、あっさり納得してくれることもあった。
 その頃、書き下ろしの『花埋み』を出版した河出書房新社から京都の祇園に招かれ、一人の女性と知り合った。販売キャンペーンの打ち上げの席だった。『告白的恋愛論』(角川書店)によると、お茶屋「K」の女将(おかみ)、お市だ。古い歴史のある「K」の四人姉妹の四女で、14歳の時に舞妓となり、芸妓から女将になった。まだ20代の前半だった。お市に惚れ込んだ渡辺は、京都にのめり込んでいく。
 北大の教養課程を終え、京都大学の文学部を受験した際に京都に長く滞在した話はすでに述べた。北海道に生まれ育った渡辺にしては、すべてが新鮮で、驚くことばかりだった。その「旅行者」としての京都体験から、今度は京都の精華を知り尽くしているお市の案内を受けたのだから、ますますのめり込んでいったのは想像に難くない。
 祇園街(まち)では、お茶屋の娘から舞妓になり、芸妓、女将と「出世」していくのは、エリートの中のエリートだった。今どき舞妓になる女性は、京都だけでは足らずに日本中から集まってくる。供給が追い付かないのだ。観光客が滅多に足を踏み入れることができない「聖地」や「秘境」も、お市の案内があれば、自由に拝観し探検することができた。
 京都には、独特のしきたりが残っている。その中でも祇園街は伝統的に際立った華美と虚飾の街だけに、しきたりや習慣になじむのは難儀の技だ。しかし渡辺はお市から、心付けの額や渡すタイミング、京ことばの裏の意味まで懇切に教えてもらった。まさに最高の京都の「家庭教師」だった。
 渡辺は生まれ育った北海道、現在住んでいる東京に京都を加えて、フランチャイズを三つ持とうと考えたのだ。京都を舞台にした最初の長編小説「まひる野」を1974年10月から翌年の12月まで産経新聞に連載する。渡辺は、京都の中心部にマンションを借りた。四季の移り変わりを体験し、京都の風を感じるためである。北海道はもちろん、東京はすでに住んでいたので、四季を想像できた。単なる旅行者としてだけでは、四季の移ろいを感得するまでは難しい。住んでみるのが一番の早道と考えたのだ。マンションに和服を常備し、着変えてから祇園へ顔を出した。
 しかし、京都の底冷えのする冬の寒さは想像以上だった。北海道の冬の厳しさを経験している渡辺にしても、京都の冬の寒さには音を上げ、マンションは一年で撤退した。この時期、五木寛之も京都にマンションを借りていたことがある。一度、早乙女貢と一緒に訪ねたことがあったが、生憎不在だった。
 先述の『告白亭恋愛論』によれば、お市についてこんな記述がある。
<私は多くの女性と際き合ってきたが、わたしの家庭のことについて何もきかなかったのはお市だけだった。どんなに深い関係になっても、わたしと結婚したいなどとは一言もいわなかったし、わたしの妻や家庭の様子を探るようなそぶりは一切見せなかった。>
 ここに京都の祇園に生きる女性の強烈な自負と矜恃がある。しかし、その「京都至上主義」がややもして行きすぎると、煩わしくなることがある。
 渡辺の付き合ってきた多くの女性のなかには、明らかに「妻の座」を狙っていた人たちがいた。「あわよくば……」という「願望」だったのだろうが、さる銀座の女性は、「センセイから『妻とは別れる……』といわれたのよ」と、私に得々と語った。「編集者は奥さんが苦手のものだから、私に原稿を頼んでくるのよ」とも付け加えた。
 彼女は「作家夫人」のはかない夢を見ていたのかも知れない。慎重でどちらかというと、「優柔不断」なところがある渡辺が、「妻と別れる」などと言うわけがない。ベッドの中での「痴話」か、せいぜいリップサービスだったのかもしれない。
 東京にいる限り、どんなに遅くになっても自宅にはきちんと帰るのが渡辺流だった。小説の内容が浮気や不倫など、さまざまな「男女の愛のかたち」を取り上げるようになり、自分の家族のことについては、なるべく表に出さないように心がけていた。自分の素顔を曝すようなことは、出来る限り避けた。作家の素顔は小説とは無縁のもので、読者にとってはマイナスの「イメージ」を与えると考えていた。
 晩年は別として、テレビに出演することも少なかった。私が記憶しているのは、NHKの教育テレビ「日曜美術館」でアンリ・マティスを取り上げた番組に出演したくらいのものだ。
 1995年の正月に一家水入らずでハワイへいったことがある。ホノルル空港(現ダニエル・K・イノウエ空港)でテレビのリポーターやスポーツ紙の記者たちに囲まれた。そこで渡辺は「銀座の女の子とか女優となら写真をいくら撮ってもいいけど、家族と一緒だけは勘弁してもらいたい」と言った話しが残っている。
 しかし、直木賞を受賞し、流行作家となった「鷺宮時代」には、中間小説誌のグラビアページには、奥さんや娘たちと一緒の写真が掲載されている。そこには幸せそうな一家団欒の光景があった。一人前になったからといって、まだまだ編集部の依頼を断れるまではいかなかったのだ。
 後年になって、「昔は、家族でグラビアページに登場しましたね」と冷やかしたことがある。すると、「今考えると、寒気がするよ」といって悍(おぞ)ましいものを思い起こすかのような表情を見せた。
 渡辺から、「京都の華やかな女性たちの物語」を描いてみたい、と電話があったのは、最初に依頼してから一年ほど経ったときだった。谷崎潤一郎の『細雪』の現代版を意識していることがすぐにわかった。もちろん編集部に異存はなかった。(敬称略・この項続く)(17・6・14)
次回更新は7月5日の予定です。