第184回 都議会選挙で自民党惨敗、中村勝宏の農事功労章コマンドゥール受章、新宿末廣亭、淳ちゃん先生のこと(承前)

×月×日 7月2日に行われた東京都議会議員選挙で、自民党は惨敗した。あれだけ「オウンゴール」を連発し、相手に得点を献上したのでは勝ち目が無かった。失点に加え、何よりも安倍首相の政治姿勢が支持されなかった、といえる。
 新聞記事で、「李下に冠を正さず」という言葉が時たま用いられる。しかし今の若い人は漢文を習わないから、なんの意味だかわからないのではあるまいか。
 原文は、「瓜田不納履 李下不正冠」で 「瓜田(かでん)に履(靴)を納(い)れず 李下(りか)に冠を正さず」と読み下す。意味は、「瓜(うり)畑のなかで屈みながら靴を履き直せば、瓜泥棒と間違えられる。「納履(のうり)」とは、靴を履(は)く意味だ。杏子(すもも)の木の下で、冠を整えれば、杏子を盗んでいるように見える」となる。君子たる者は、疑いの目を向けられるような、紛らわしい所作はつつしむべきだ、というのである。
 安倍首相には、この慎みが全くない。「関与していたら、辞任する」などと大見栄を切る以前に、疑われるような行為を取らなければよいだけの話だ。疑いの目を向けられた段階で、あまり居丈高にならず自省する必要があった。本人は「緩み」という言葉を使っているが、「緩み」ではない。あえて言うなら、「驕り」であろう。首相の辞書には、「謙虚」という言葉が見当たらない。
 側近の「茶坊主」や「大奥」達が、首相の本意を忖度(そんたく)するのではなく、首相自身が党内の少数派や野党の意見と立場を忖度するのが、民主主義の基本というものだ。

×月×日 ホテルメトロポリタン エドモント(日本ホテル株式会社)の中村勝宏統括名誉総料理長がフランスの農事功労章コマンドゥールを受勲したという吉報が届いた。「雑魚の魚(とと)まじり」で発起人に名を連ねた祝賀会が飯田橋のホテルメトロポリタン エドモントで開かれた。500人を越える出席者で大盛会となったのは、ひとえに中村さんの人柄による。
 フランスの農事功労章には、シュバリエ(騎士)、オフィシェ(将校)、コマンドゥール(団長)と三つの段階がある。日本人シェフで、「三階級」を受勲したのは二人目。中村さんは1979年に日本人としてフランスで初めての「星」を獲得したシェフとして知られるが、今では20人くらいの日本人シェフが「星」を所持しているそうだ。
 料理がおいしいホテルとして、「エドモント」の名声を高め、多くの後輩を育成した功績はシェフのもう一つの大きな勲章だ。フランス産仔牛のロニョン(腎臓)のローストスパイス風味とシストラン産仔羊すね肉のプレゼ(蒸し煮)が印象に残った。玉村豊男、冬木れい、田崎真也、野﨑洋光、熊谷喜八、山本豊氏らと久しぶりに会う。

×月×日 いつもホール落語ばかりだが、久しぶりに新宿の末廣亭の6月下席(落語協会主催)へ。昼の部の主任が柳家喬太郎、夜の部が柳家小三治で、他にも春風亭一之輔、柳家さん喬、林家正蔵、古今亭志ん輔、柳家権太楼という豪華な顔ぶれのためか、平日というのに満員の盛況。三人くらいが、「二階が落ちるから気を付けろ」としゃべっていた。以前に階段から落ちた客がいたからだろう。昼夜入れ替え無しだが、昼の部で帰る。
 7月上席は落語芸術協会の主催だが、落語協会と比べると顔ぶれの差は歴然としている。席亭も頭の痛いところだ。

×月×日 淳ちゃん先生のこと(第二章・その3)
 直木賞を受賞したとき、渡辺淳一は37歳。翌年には一年間で38の作品を書いている。次の年の39歳では20作品、40歳になった1973年には書き下ろしを含めて16作を著している。最も花開いた時期といえる。後に「小説の題材に困るということはなかった」と述懐している。
 72年に刊行された『無影燈』(「サンデー毎日」連載・毎日新聞社)は、テレビドラマ化(田宮二郎主演「白い影」)されたこともあり、ミリオンセラーとなった。医者のイメージといえば、多くはヒューマニズムという表現でパターン化されていた。それを払拭(ふっしょく)し、リアリティーに富んだ医者の実像に挑戦した初めての週刊誌連載小説だった。札幌から上京して、パートで勤めていた墨田区の山田病院での経験が役に立ったのはいうまでもない。「温めていた素材をすべて詰め込んだ」と自負する力作だった。
 「週刊朝日」も負けるわけにはいかない。雑誌の連載だけではなく、終了後には単行本として出版する約束を取り付けなくてはならない。新聞や雑誌の連載には原稿料の他に取材の費用も掛かっている。校閲者の人件費も計算しなくてはならない。当時はまだ価値があった海外取材を企画し、現地特派員の力を借りた例も多い。その元手の掛かった完成品をむざむざと他の出版社に持って行かれては、「歩留り」が悪い上に編集者としても寝覚めが悪いというものだ。しかし残念ながら新聞社には、そんなコストパフォーマンスを考える土壌が本質的になかった。
 作品の売り上げ部数に比例して、作家は立場が強くなっていく。無名時代は、いくら出版して欲しいと頼んでも相手にされなかったのが、ひとたび人気が出てくると出版社から「ぜひ弊社に」と揉み手をしながら、すり寄ってくる。出版すれば必ず売れるのだから、各出版社は血眼になる。今や渡辺淳一は出版社にとって、それこそ「喉から手が出る」くらいの人気作家に成長していた。出版の競争となると、新聞社はどうしても劣勢になる。雑誌の連載から単行本、文庫まで息の長いアテンドが必要だった。書店への影響力とアフターケアまで指摘されると、新聞社の出版はどうも分が悪い。
 この時代の渡辺淳一は、専門の医事もの以外に、『長崎ロシア遊女館』などの歴史小説や野口英世をテーマにした『遠き落日』、夭折した戦後を代表する歌人、中城ふみ子を扱った『冬の花火』などの伝記小説を手掛けている。いうまでもなく野口英世は黄熱病の医師であり、中城ふみ子はガンで両方の乳房を切除し、『乳房喪失』の歌集で有名になった。両書とも広い意味では「医学物」といってもいい。
 40代半ばになって、渡辺は、得意とする医学物と歴史ものから離れることを決めた。『遠き落日』の執筆中に、「こんな作品ばかり書いていたら、作家生命が衰弱してしまう」と考えていた。虚構(フィクション)が書けなくては、作家としての意味がない。川端康成や谷崎潤一郎の例を見ればわかる、というのである。そういえば、松本清張からも同じことを聞いた覚えがある。
 同じ世代の作家の傾向をみると、「男女もの」を書く作家は少なかった。ライバルがいないから書きやすいともいえるが、競争相手がいないのはそれだけ刺激がないともいえるわけで、マイナス材料となる。同世代の作家で、渡辺が最も意識したのは五木寛之だった。初めて有馬頼義の「石の会」に加入した時、五木はすでに直木賞を受賞していたし、やはり「石の会」の先輩で五木の2年後に直木賞を受賞する早乙女貢は歴史小説家だった。
 「五木さんは全国区だけど、僕はまだまだ地方区だよ」と言っていたこともあった。五木への対抗心といえば、こんな話を思い出した。
 小説に登場する人物の名前には、どんな作家でも苦労するもので、競馬の騎手や担当編集者の名前を借りたりする作家もいた。渡辺も例外ではなく、名前についてある「美学」を持っていた。濁音が少なく、50音表のイ段(い、き、し、ち、に、ひ、み)の音が多い名前は綺麗に聞こえるというのである。
 「自分の名前には濁音が二つも有り、イ段の字は二つしかないけど、五木さんは濁音が無いし、イ段の字が四つもある」と指摘した。そういわれれば、うなずける点もある。まあ、名前が綺麗であるのと作品の価値は関係ないけれども、五木をライバルとして気にしていたのは間違いない。
 連載のテーマは京都の祇園を舞台にする華やかな物語、ということで、祇園の取材に出掛けることになった。私は入社して間もなく、出版写真部の先輩、佐久間陽三に祇園のお茶屋へ連れていってもらった。京都の名門の出の佐久間は大学生の時代から祇園に出入りしていた。先斗町の料理屋「ますだ」や古門前通りの古道具屋を案内してもらった。学生と大学教授、寺社の高僧と商家の主人が居酒屋で隣り合わせになって飲んでいる京都ならではの情景に感嘆した記憶がある。
 また、出家する二年くらい前の瀬戸内晴美が日経新聞に連載し、「祇園入門の教科書」と評判を呼んだ『京まんだら』(講談社文庫)の舞台になったお茶屋の「みの家」も風間完と一緒に上がったことがあり、なじみとなっていた。ここに渡辺を一度ならずご案内した。渡辺のホームグランドは「K」だから、他の店で自分が客を招待することはできない。これも祇園街に残っている厄介なしきたりの一つだ。
 出版の話を確固たるものにするため、草野眞男のいる水戸へ一泊で出掛けた。草野は北海道報道局の次長時代から、渡辺と朝日の社内で将棋を指すほどの親交があり、渡辺も信頼していた。渡辺の名前を一躍広めた心臓移植に関する吉村昭への反論を朝日新聞に掲載する際に草野の助力があったことはすでに述べた。草野は茨城放送の社長を退任して、会長になっていたころだ。水戸を代表する料亭、大工町の山口楼で一席を設けた。数少ない芸妓を呼んで踊りを観賞した。渡辺は芸妓の足袋の裏が汚れていたのに目をとめ、妙に気にしていた。京都の祇園では考えられないことだった。
 翌日は大洗まで足を延ばす予定だった。朝になって、渡辺は「友達が東京から来る」と言いだした。別に急ぐ旅でもないので、水戸駅でスーパーひたちが到着するのを3人で待った。友達というのは化粧っ気のない小柄な女性で、「友人のOさん」とだけ紹介された。静かにお辞儀をすると、あまり無駄な口はきかなかった。渡辺は草野や私をおいて、熱心にOに話しかけていた。
 不審に思ったのか、草野から「あれは誰だ」と尋ねられたが、「さあ、知りませんね……」としか答えようがない。後からわかったのだが、渡辺も2、3日前に知り合ったらしい。外国資本の飲料メーカーに勤めているという話だった。草野と別れ東京に帰る車中でも、渡辺は熱心に話しかけていた。このOなる口数の少ない女性が、後で渡辺のさまざまな小説に影を写すようになるとは、まったく思いもよらなかった。
 「週刊朝日」に連載を始めるということは、各出版社の知ることになった。題名はもちろん、開始時期も決まったわけではないが、「予約帳」に名前が記され、各出版社に認知されたということになる。各社は当然単行本刊行の権利を取ろうとする。渡辺に出版の話をすると、「うーん」と曖昧な表情になり、のらりくらりとはぐらかされてしまう。
 78年、世田谷区の奥沢に新居を建て、鷺宮から移転した。仕事場は渋谷の公園通りにある高級マンションの一室に構えた。車を運転して通うこともあれば、目蒲線(現在の目黒線)と東横線に乗って「通勤」した。なぜ、仕事場を持つのか問われれば、生活空間と書斎(創造空間)が一緒だと発想まで閉じ込められてしまう、と答えた。新居落成のお祝いの会には私も招かれた。文藝春秋の鈴木重遠、講談社の金子益朗など、旧知の編集者も多かった。不思議なことにこの家も拙宅から自転車で10分も走れば着くところだった。
 鈴木重遠の話によれば、80年1月から文藝春秋で「渡辺淳一作品集」を刊行することになり、自分が担当になったという。直木賞を取ってから、10年も経っていない。異例中の異例ともいえる早さだ。すでに講談社から五木寛之作品集が刊行されていたから、文藝春秋も対抗したかったのだろう。
 しばらく経って、鈴木から「渡辺さんは作品集の第1回配本に、週刊朝日の連載を持ってきたいようだ」と連絡があった。(この項続く)(17・7・5)
次回更新は7月26日の予定です。